【アニータ・ムアジャーニ】魂の旅路〜向こう側で見てきたこと 3 (動画・翻訳)
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個人的に敬愛するアニータ・ムアジャーニ(Anita Moorjani)さんのこちらの動画の翻訳をしたはろ/Halo🍀です。
ステージⅣの末期がんから臨死体験を経て生還し、向こう側の世界とこの世に関わらず、本来の自分で在ること=愛だと「無条件の愛」とワンネスの世界を語り続けるアニータ・ムアジャーニさん。
「喜びから人生を生きる! 臨死体験が教えてくれたこと」発刊10周年記念版(原書)発売 アニータ・ムアジャーニ
(日本語翻訳版は2013年初刊)
アニータムアジャーニ・オリジナル動画
The Soul's Journey - View from the Other Side, Episode 3
2021/10/09 ライブ配信・公開(18分35秒)
Anita Moorjani Official YouTube Channel
【オリジナル動画(英語音声)で聴きたい方はこちらの「オリジナル動画」からどうぞ】
こんにちは、皆さん、ご覧いただきありがとうございます。
今日は、「魂(ソウル)の旅路」についてお話したいと思います。
魂(ソウル)と霊(スピリット)の違いとは?
まず、最初に......多くの方々が「魂(ソウル)と霊(スピリット)の違いは何ですか?」とよく質問なさいます。一般では、魂ということもあれば、それを霊という人もいて、あまり区別していないこともよくあります。
人が、魂、霊という言葉を使う時、私はただ、自分の頭ではそれがどちらを、何を指しているかを判断してきましたが、ここで私自身が、どう魂と霊の使い分けているかについて、改めて説明してみますね。
これはあくまでも私の場合ですが、通常、一人の人、その生きている人について、その人の中にある光を「魂(ソウル)」と呼んでいます。言い換えると、まだこの世界に生きている人については「魂(ソウル)」と呼ぶ事が多いです。
実際、今、こちらの世界に生きている私自身についての「魂(ソウル)の旅路」について、日頃からよくお話をしています。また、あなたの魂の旅路......あなたの魂の奥底で深く感じていること、とかそういった言い方をします。
あなたの霊(スピリット)、その霊体(スピリット)が肉体を生きている間は、それを魂と呼んでいるのです。
逆に、向こう側の世界のことを話す時、その魂は肉体を離れているので「霊からのメッセージを受け取った」と言う。肉体を離れている魂を霊と呼ぶことが多いのです。
私はこの2つの言葉をどうしてこのように区別するようになったのかわからないのですが、言語化してみると、私の場合は、そういう区別で、魂、霊という言葉を使っているように思います。
さて、今日は、魂の旅路についてお話ししようと思っていますが、それは、霊の旅路と呼ぶこともできます。というのも、本当は、霊が魂として人の命として肉体をもって生まれて、そして、また還っていく、だから、魂の旅路は、霊の旅路とも言えるんです。
私の考えはこうです。
すべての霊が転生するわけでもなく、多くの霊が転生するわけでもない。
何年も何世紀も前に転生しているのかもしれない。
何千年も前に転生して、もう転生しないことを選んだかもしれない。
さらに、向こう側の世界に留まって、向こう側から、私たちを助けてくれるかもしれない霊もあります。
魂は基本的に、今、あなたと私を通して表現されているものです。
今、あなたと私を通して表現されているものです。
魂の旅路〜向こう側で見てきたこと
私たちの魂のこと、まず、向こう側の世界にいた経験からの、私の見解についてお話しますね。
向こう側にいるとき、私が気づいたことのひとつは、私の魂が選んでこの旅路に出ていたのだということです。
私の人生の話をご存知の方々は、私が癌にかかったことを知っているでしょう。リンパ腫を4年間患っていたこと、腫瘍が体内にたくさんでき、ゴルフボールほどの大きさの腫瘍が、頭蓋骨の根元から頭蓋骨の付け根から首の周り、胸から腕にかけて、胸から腕の下、そして腹部まで転移し、私の臓器は完全に停止し死の床にありました。体重は85ポンド(35キロ台)になり、私の体は栄養を吸収することができなくなりました。当時、筋肉は完全に衰え、歩くこともできず、ただ横たわっているだけでした。そして、4年かけてその状態になり、完全に臓器が停止してしまい、昏睡状態に陥りました。医師は家族に、私はもう昏睡状態から抜け出せないと告げました。
その時、私の魂は体から抜け出しました。
私の魂が肉体を離れ、向こう側へ移動したとき、私の魂は信じられないような、本当に信じられないような......。軽さを覚え、自由な感じでした。
私の魂が私の肉体を通して表現しているとき、私はとてつもない莫大な恐怖と不安を感じていました。病気への恐怖、治療への恐怖、死への恐怖、とただただ恐怖を感じていましたが、死の淵を渡った私は自分の体から離れ、私の魂は信じられないような感覚を覚えました。無条件に愛され、あるいは神のような愛に包まれたような.....とてもあり得ない素晴らしい気分でした。おそらく、生まれてくる前にはそうした愛に包まれていたんでしょうけれど、それまで肉体を持った生活の中で、そのレベルの愛を感じたのは、初めてのことで、感じたことのない感覚でした。
魂に帰ってきた感覚
しかし、そこで私がしっかりと感じたことのひとつは、私の魂自身がそれまでの旅路を歩んできたんだということを思い出し、この困難な旅路を経たからこそ、そこで、私は元いた場所に戻ってきた、自分の魂が元いた次元に帰ってきたと感じたことです。
その時、私は、他の存在に囲まれていました。
その中には見覚えのある人もいましたが、全員見覚えがあったというとそうではありません。
亡くなった私の父や、すでに亡くなってしまった私の親友がそこにいました。そうしたすでに亡くなった人たち、他にも知らない人たちがそこにいましたが、彼らはみんな私をおかえりなさいと迎え入れてくれたのです。
とにかくそれはなんとも美しく、愛と温もりに満ちた歓迎を受けました。
誰一人、何一人、私をジャッジ・裁く者はそこにはないのです。
たとえ、生前の父のような、私を随分とひどく傷つけた父の魂からも、私が感じたのは、ただただそれは純粋な無条件の愛だったのです。
私たち人間というのは、肉体を脱ぎ捨てる時、何らかの作用があり、人生のどういったところや場面で自分が他の人を傷つけたのかに気づくのですが、
(父も死を経てそれに気づき)私の父は何年にも渡って、父はずっと病気の渦中にある私を助けてくれていたんだと気づいたんです。
それまで私が死の淵を超えるまでは、私は父が本当に私を愛してくれていたと思っていたことは一度もありませんでした。
でも、そこで、「あー、違うんだ。父は私を心から愛してくれているんだ」と実感したのです。生前の彼は、その生い立ちの文化的な背景もあり、肉体としての彼は、いろいろな(文化的・宗教的な信念の)抑制を受けており、時に、私にとても冷たく当たりました。そんな父でも、向こう側の世界では、私にこのように気づいてほしかったのです。
「肉体にいる時はよくわかっていなかった、表現できなかった」ー しかし、父は実際には無条件に私を愛してくれていて、亡くなってからずっと私を、私の家族全員を見守ってくれていたことを、私に知ってほしかったのです。
繰り返しますが、それまでいわば生前の私の知る、肉体を持った生前の父とは、とてもではないですが、温かく、愛に満ちた人ではありませんでした。
あなたを酷く傷つけた人々も向こう側の世界に渡ると
このように、向こう側の世界に旅立つ時に、人というのは、ありとあらゆる荷物、体験を、こちら側の世界に置いていくのです。
ひどい悪徳な人間も、虐待をするような人間も、これは、私の父がそうだったとはいうわけではありませんが、でも、たとえ、あなたの人生にそういったひどい人、ひどい虐待をするような人がいたとしても、自分が向こう側の世界に渡る時、あるいはその人が向こう側に渡るときに、自分がしたことに気づいて誰かの人生を台無しにしてしまったと悟ることになるのです。そのようになる理由は、何もあなたをつかまえて仕返ししたり、ひどいことをしようとするためではありません。
そういうことをする人ですら、そこで気づくのは、自分の人生はなんてめちゃくちゃ苦しかったんだろう。自分の人生がめちゃくちゃで混乱していたからこそ、誰かの人生を傷つけて台無しにしてしまった ー その結果、向こう側に渡った彼らはこう思うようになるんです。そこから自分の道を歩みたいと思うようになる。自分が生前、傷つけた人たちを助けたい。そうすると、面白いことに、あなたを傷つけた人が、実は最大の味方になってしまうことがあるのです。
それを受け入れるのは難しいことでしょう。
私たちは、肉体をもった状態で誰かを傷つけた人が守護霊や守護天使になりうるという考え方を否定します。心から受け入れる必要はないです。
それでも、あなたを守ってくれているのです。
それが、私が向こう側の世界に渡った時に感じたことです。それが父や他の魂たちから直接受け取った気づきです。
鏡の中に自分の魂を見る
もう一つ、私が向こう側に渡って気づいたことについて、少し話を早送りしてお話ししたいと思います。
私が臨死体験の後昏睡状態から覚めたときのことです。私はまだベッドに寝たきりで回復に向かっていました。文字通り、昏睡状態から覚めた後、2、3日後のことでしたが、このとき私はこの2度目の人生のチャンスを与えられたことに高揚していました。向こう側の世界にいるか、こちらの肉体をもった世界に戻ってくるか自分で選択してこちらの世界に戻ってきたのだから、もうそのまま死ぬことはない、大丈夫だと思いました。
そして、父は私にこうも言ってくれました。あなたの人生には、これから素晴らしいギフトが待ち受けているから。そうして、私はこちらの世界に戻ってきました。
そうして数日後、看護師が来て、少しは動き回ってみる必要があると言いました。看護師は、私に足を少し動かす必要があると言い、私がベッドを降りて、部屋の中を少し歩けるよう手助けしてくれました。
私は片方の手で彼女の腕を持ち、もう片方の手で点滴スタンドを持ち、病室の中を歩き回っていました。そして、私は看護師ににこう伝えました。
「トイレに行って、鏡を見ていいですか?ここのところ、鏡で自分の姿を見たことがないんです。」自分の姿を見るのはそれはそれは久しぶりでした。
臨死体験から抜け出した後、私は幸福感を感じていたのですが、でも、鏡を見たとき、ショックを受けました。自分が思っていたのと全然違っていたからです。頭の中は「自分はすでに元気だろうな」と想像していたのです。
肉体は時として、より密度の高いエネルギーに追いつくのに時間がかかるのですが、そこで鏡に映ったのは、すっかりやせ細り頬は完全にこけていて
まるで頭蓋骨のような私で、頭には禿げがあり、髪もなく、首には大きな包帯を巻いており、皮膚には病変がありました。
そしてお話ししたように、体重は85ポンド(約35kg)まで落ちており、私は鏡の中の自分を見たとき、実際に泣き出してしまったんです。
私は臨死体験から抜け出したばかりだったのですが、自分の姿が健康そうではなく醜く見えたから泣いたのではない、私はその時の自分の姿に、それまで自分の魂が自分の姿にしてきたこと、自分の魂の旅路を見たからなのです。私はなんてことを自分にしたんだと。私は実際、鏡に映った自分を見て自分自身にこう言ったんです。私はあなたに「こんなことをしてきたのね」と。
自分の魂と対話する
ただ、私が「こんなことをした」と言うとき、あなたが病気になったら、その人が病気になったら、それは自分のせいだということを言いたいのではないのです。
しかし、私は臨死体験をしたことで、自分が病気になった理由を悟ったんです。私が「やった」と言っても、それは「自分のせいだ」とは言わない。
臨死体験でようやく気づいたのは、病気になったのは、それまで一度として自分を愛していなかったからなんです。いつも自分を投げやりにしていました。自分を裁き、自分を批判し、自分のことを後回しにしていました。誰に対しても、自分をドアマット(人に踏みつけられてもじっと耐える人)のように扱い、自分より他の人の方が大事、大切だと思い込んでいたんです。自分の問題よりも他の人の問題の方が重要なんだって。自分がそうした病気になったときでさえ、自分の病気のことを優先させるのではなく、他の人に迷惑をかけることが心配で、病気の事実を隠していました。ガンが悪化しても平気なふりを続けていました。誰にも迷惑をかけたくなかったからです。自分を甘やかし問題児になりたくなかったからです。
自分自身を尊重せず、自分をドアマット(人に踏みつけられてもじっと耐える人)のように扱い、自分を抑圧し、魂を抑圧した結果、死にまで至り、臨死体験を経て向こう側の世界にまで行き、そうして、その時、鏡に映った自分を見たとき、私はその鏡の中の自分に、本当に自分の魂が見えたんです。
そして、そこでこう鏡の中の自分に向かって、誓いました。
私はもう二度とこれからはあなたを見捨てない。もう二度とこれまでのようにあなたを苦しめるようなことはしない。これからは、常にいつもあなたを愛し、あなたの価値を大切にします。そうして、私の肉体だけでなく、私の魂に語りかけたのです。
なぜなら、魂こそが、あなたという肉体を超え、あなたという人間を成す、大きな部分なのです。
ですから、みなさんもぜひそうしてください。毎日毎日、そうやって自分の魂に語りかけてみてください。魂はあなたの主要な部分であり、あなたの肉体は氷山の一角にすぎず、自分自身のほんのほんの一部にすぎません。
毎朝、自分を抱きしめてあげてください。
「私は決してあなたを見捨てない、あなたに決して酷いこと、残酷なことはしない」
これこそ、私が自己愛について語るときに意味するところなのです。
私の言う自己愛というのは、魂を愛するということです。
私が自己愛について語るとき、それは魂を愛するということだ。
というのも、臨死体験から抜け出したばかりのその私の人生の転換点で、自分の姿を見て、これまで自分が自分にどのようなことをしたのか、思い知っていたからです。
それは、何か神や霊が私を罰していたのではなく、悪いカルマのようなものでもなく、私が私自身、自分の魂を尊重していなかったのだと悟ったからです。
どうして魂を敬うことが本当に大切なのか理由がここにはあります。
自分の魂を敬意を手向けること
だから、自分の魂を大切にすることが大切なんです。
自分の魂を尊重することが大切なんです。
あなたの魂は神・神性の一部でもあります。
あなたの魂が、この肉体を選んで、この時点にこちらで、この肉体を通して
表現することを選んだのです。
もし、あなたがそれを否定するならば、もしもあなたが自分を愛さないのなら、もしあなたが自分を批判し、裁き続けるのなら、
自分を批判し、批判し、自分を投げやりに扱ったり、ドアマット(人に踏みつけられてもじっと耐える人)にしたり......。
神性の一部である自分を否定しているのです。
あなたには、自分の神性を否定する権利はありません。そのようにして、魂はこの旅路を選んだのです。
私は、この2度目のチャンスを与えられたことをとても幸せに思っています。
あの時点で、今は確信している、このことをすでに知っていたら、こんなにも苦しむことはなかったと心の底から感じています。
だからこそ、さまざまな方法で私は自分の話を伝え続けているのです。
私の物語を伝え続けているのは、人々に真に自分の魂や魂の旅を大切にするということがどういうことなのかを知ってほしいのです。
自分を愛することというのは、自分の肉体を愛するだけではありません。
肉体を愛するだけでなく、本当にあなたの魂が歩んできた魂の旅路に敬意を表することです。どんな体験でもです。どんな体験であっても、虐待を受けたり、苦難や貧困、人間関係の問題などを乗り越えて....あなたは今、ここにいる。今この瞬間に立っている、あなたの魂は、あなたと一緒にそのすべてを乗り越えてきたのです。そして、常に前にここまで進んでくるために、自分のために数えきれない選択をしてきました。
あなたの魂に敬意を払い、あなたが自分の魂を愛すれば愛するほど、自分を愛するための、自分に対する愛に満ちた選択をすることができるようになります。
では、その臨死体験の日に、私と私の魂の旅にとって、何が変わったのでしょうか?
私は選択したんです!自分の魂の軌跡、自分の魂の旅路のために、愛に満ちた選択をすることを選んだんです。
インサイド・アウトの方法
私は死を迎えるその瞬間まで、私が「選択」するときの基準は、常に恐怖をベースにあらゆる選択をしてきました。
恐怖の中で選択するとはどういうことかというと、つまり、自分が「十分にはよくない」ことを、何よりも恐れていました。他人の不評を買うのが常に怖かったんです。
病気になるのが怖い、 ガンになるのが怖い、それまでのあらゆる私がしたことは、他人の非難を避けるため、ガンになるのを避けるために、正しいものを食べ、正しいことをしても、それは自分の魂を愛し、自分の人生を愛しているからではなかったのです。
病気になるのが怖かったから、ガンになることを恐れながら、常に選択、行動をしていました。
そのような生き方をしていると、自分がしていることは、自分の魂に
私の体は弱い、私の健康については何らか介助が必要だというというメッセージを送っていることになります。
現実はそう生きていってはなりません。
このように外側を見て内側に入る方法ではなく、内側から表現・出ていくのです。この「インサイド・アウト」の生き方とは、自分の魂が人生の主導権を握るようにすることです。
「インサイド・アウト」の生き方とは、あなたの魂は永遠であり、魂は超強力であることを知り、あなたの自分の魂があなたを通して自分自身を表現し、人生の主導権を握るようにするのです。
魂というのは超強力で、向こう側の叡智とつながっていて、アクセスすることができます。
あなたがこちらの世界でインターネットにアクセスして情報を得られるように、あなたの魂は秘教的、超次元のネットにアクセスできるです。無限のネット(インフィニット・ネット)にアクセスできるのです。
そうやって、あなたは自分の魂から向こう側の叡智からの情報を受けとればいいのです。
私が臨死体験の前にしていたこと、そうやって私たち人間は皆、間違いを犯してしまうものですが、私がしていたことは、物理的な世界からのみ情報を得ていたのです。他の人たちから、外側から情報を得ていたのです。そして、その情報はすべて恐怖と不安に基づいた情報でした。
3人に1人がガンにかかるというような情報だとか、2015年までには3人に1人がガンになるとか、というような、恐怖と不安に基づく情報が溢れていますよね。今でも、私たちはそういった情報を常に耳にしていています。
ニュースなどでもよく耳にします。
そうして、他の人がガンになるのを見ているとガンになるかもしれないと感じたり、他の人がガンになるのを見たりすると、自分もガンになるかもしれない、ガンを予防する方法を研究しなければならないと感じ、その情報が何をしているかというと、自分もその境遇の犠牲者のように感じてしまうんです。
そういう外側の情報は、いつでも病気になる可能性があると感じさせ、私たちの身体、肉体は、実は強くないんだと表現し続け、自分の魂に力を与えるどころか、あなたは自分を無力に感じるのです。これは、自分の力を外界に与えて明け渡してしまっている状況です。外界とは、私が「文化圏」と呼んでいるものです。
しかし、あなたが高次の自己につながり、秘教的な叡智につながるには、こう自分で宣言するのです。
「自分の魂に何をすべきか、何をしなくてはいけないか、自分に言い聞かせるのではなく、私は、自分の魂が自分自身を表現することを受け入れます」と。
魂が自分自身を表現するのを許すと、そのときこそ、魔法や奇跡が起こるときなのです。
魂とは:ミラーボールのたとえ
魂というのは、自分自身を表現することを選び、実際にあなたを導くことができるのです。魂や他の霊的存在にアクセスすることができます。
魂はインフィニット・ネット(無限のネット)に繋がっています。
私は、この魂というものを説明するとき、もっとわかりやすく表現するために、よくミラーボールを例えにして説明することがあります。
ミラーボール、ディスコボールを覚えていますか?
1970年代、「サタデー・ナイト・フィーバー」などが流行った時代に、ディスコにいくと、ミラーボールがついていました。
私も若い当時はよくディスコに行きましたが、ディスコに入っていくと、天井にミラーボールがある部屋には、壁に小さな光の塊が見えるんです。別々個々に分かれた光の塊が壁にクルクルと回っているのが見えるんです。何百何千というそれぞれの光の塊が、まるで追いかけっこをしているような感じで、部屋の中をぐるぐる回っているんです。
その壁を回っている光の塊だけを見てみると、それぞれは、その光がどこから来ているのかがわからなければ、一見、互いに完全にバラバラに分離している光の塊に見えていますが、しかし、その光の塊それぞれがどこから来たものなのかがわかると、それは、あら不思議、一つの巨大なミラーボールからやってくるのだと気づくのです。1つのものから生まれている、別々の光を放っているんだと気づくのです。
この1つの巨大なミラーボールは、すべて小さなミラータイル(鏡のタイル)で構成されているのを改めて思い浮かべて、このように想像してみてください。このミラータイル(鏡のタイル)のひとつひとつが、一枚一枚が誰か人の魂であると、そして霊性であると。ミラータイル、つまり、誰かの魂が、そのひとつひとつがが壁に光を投げかけていると。壁に映った個々の光というのは、私たちの一人一人が肉体をもって物理的に表現しているのです。タイルの一枚一枚が、壁の光として表現されているのです。
それぞれの魂は、肉体を持つ私たちの誰か一人として、壁に光となって表現されているのです。
私たちは、自分たちは別物だと思い込み、お互いに競争していている状態です。
私たちのいるこの世界では、冷酷な人々もいて、他の人より先に行く必要があると常に感じている人もいます。しかし、死を迎えたら、私たちは皆同じミラーボールの一部だと気づくんです。ミラーボールのように、私たちは、実はみんな誰もがつながっているのです。もし魂自身が生きている間にそれに気づいてさえいれば、魂はその人生を大きく変えることができるだろうし、お互いの人々を全く違うように扱うでしょう。
しかし、どうやら、私たちは死ぬときに初めて、そのことを悟る傾向があるようです。死ぬときに初めて、私たちは、私たちは皆、同じ一つのミラーボールなのだということを。私たちはすべてつながっているといるので、もしあなたが生きている間に、このことを理解することができれば、自分はあなたの目を通して輝いている光は、ミラーボールの一片に過ぎないということがわかれば、その光を反射させているあなたの魂は、他のすべての魂とは一つに繋がっていることがわかると思います。
あなたの魂は、他のすべての魂とつながっています。
そして、他のすべての魂とつながっているからこそ
他の魂とつながっているからこそ、他のすべての魂からの情報にアクセスできる。他のすべての魂から情報を得ることができるのです。
誰の魂にも超能力(ESP)があるのです。
周波数(チューン・イン)を合わせさえすれば、他の人が何を考えているかその意識を知ることができるのです。
そうやって、私たちは他の人たちとつながっていくのです。
私たちは皆、そのレベルでつながっているのですから。
私たちは皆、そのレベルでつながっていることを知りながら生きると、私たちはみんなとてもパワフルになるんです。
私たちが、自分が壁に反射された光であるかのように思い込んで生きていて、ミラーボールのように、自分の魂が一つのところにあると気づかないで生きていると、お互いに個々が競争してしまうんです。
他の人たちと競争することこそ、恐怖や不安の中で生きているということです。
だからこそ、私はいつもこうお話ししているんです。
愛と信頼に生きていきますか、恐れと不安に生きるのですか
愛に生きるか、恐れに生きるかの違いとは、恐怖と不安の中で生きるというのは、このミラーボールのたとえで言えば、あなたはただの壁に映ったランダムな光の塊で、誰とも何の関係もない、ただの偶然でそこにいて、自分が何かの犠牲者であり、常に自分を守るために、走り回り、自分を何とかするために奮闘しなければならないと感じて生きている状態です。それというのは、自分の魂と切り離された状態です。魂からも、ミラーボール、つまり、神(性)からも切り離されているのです。
それとも、あなたは気づいているのでしょうか。
輝くその光の束は、実はミラーボールの鏡のタイルの一つであることに気づき、その大元の光に気づきながら生きていきますか。
私はその光を私を通して生かす。その大元の光は私を通して生きている。その光は、私の神聖な目的を含むすべての情報にアクセスできるのだから。
魂はすべての人とつながっている。その光は、私が、あなたが、愛と信頼の空間で生きているとき、その場所から生きているとき、何が起こるかというと、光がそれを見つけやすくなるのです。
魂が、あなたの魂が、あなたを通してコミュニケートし、生きやすくなる。
不安や恐れや被害者意識の中で生きていると、「私はこうしなければならない、私はこうなんだ」という防衛意識があり、神聖な状態にアクセスするのがもっとずっと難しくなります。
というわけで、この話はこの辺にして、これから数週間、この話や他の多くのテーマについてもっと深く掘り下げていくことにしましょう。
どうぞ恐怖ではなく、愛の状態から生きることを忘れないでください。
そうすれば、よりパワフルで、神聖なメッセージや神聖なつながりを得ることができるのです。
外側からではなく内側から生きるということは、そういうことなんです。
他人が創り出した現実に反応するのではなく、魂の目的から自分の現実を創造するのです。
来週もまた、ソーシャルメディアを通じてお会いできることを楽しみにしています。
こちらの翻訳をした、🍀はろ🌈Haloです。
ここまで、読んでいただきありがとうございました🍀
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