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短編「暮れなずむ朝顔列車 if・怪談」

※この短編は「暮れなずむ朝顔列車」のアナザーストーリーです。#眠れない夜に と云うものに相応しい物を描いてみ見ようかなと初めて怪談めいたものを描きました。先出の短編のイメージを保ちたいと思われる御方はお読みになられない方がよろしいかと存じます。あっちはあっち、これはこれと面白がって頂けるのであれば幸いにございます。果たして怪談と呼べるものか分かりませんけれど・・・。先出の短編を未読の御方は、是非とも先に、元の物語をお読み頂く事をお勧め致します。それではどうぞよろしくお願い致します。                                いち



「暮れなずむ朝顔列車 if・怪談」


 ドアが閉まります、ご注意下さい。
 発車間際にホームへ降り立った僕は、一番手近のドアから体を車内へ滑り込ませた。ベルが鳴り、間もなくドアが閉まる。ぎりぎり駆け込み乗車じゃあない積りだけど、注がれそうでこちらを見ない視線が勝手に痛い。車両を一つ移動して、空いている席を探す。

 平日、昼間。二両目は無人だった。御蔭で僕は、四人掛けのボックス席を一人で占める。走る程に深い緑に吞み込まれる、かなり古い路線。一本逃すと、次は一時間以上先だ。車輌も古く、ボックス席の窓も開け閉め自由である。天井には昔馴染みの扇風機が首をぶんぶん振って、いつから付いているか分からぬ茶色い滲みがぽつり、ぽつり残っている。その上クーラーも効き過ぎて寒い。乗り換時間に余裕があると油断した僕は、移動するホームを間違えた。それで直前まで構内を走り込んで、挙句飛び込んだこの冷たい車内。先刻から背筋が震えている。どうしてこんなに冷えているんだろうか。人を冷やすには余りに冷たすぎて、まるで冷凍庫のようだ。

 しかし外は夏日。線路の上には陽炎が立つ。僕は四人掛けのボックス席を独り占めしているので、自分好みに窓を少し開けようと試みるが、建付けが悪いのかどうしても開けられない。外風を入れれば少しはましになると思ったのに、叶わないとなると、異様に外気が恋しくなった。一両目へ引き返そうかとも思うが、今更席を立つのも面倒で、寒さに耐えて、座っていた。寒い。外の陽気が、羨ましかった。

 何年振りだろう。

 母方の曾祖母が体調を崩したと母親から連絡を貰ったのは、ひと月も前の事だった。曾祖父は一昨年往生しており、それから曾祖母は一人で暮らしている。曾祖母は気丈夫な人で、幾つ歳を重ねても、背筋はしゃんと伸び、自分の足で達者に歩く人だった。毎朝畑に立ち、作物の世話にも余念なく、近所の家の若い夫婦が教えを乞うた事も在ると云う。風邪知らずの仙人みたいな人だといつの間にか思い込んでしまっていたから、母親からの連絡は僕には衝撃だった。けれど思う様に休みを取れなくて、調整にひと月もかかってしまった。二日間の休みが漸く取れたので、夕べの内に母親へ、曾祖母を訪ねる旨連絡を入れた。だが電波環境が悪かったか互いの言葉が思う様に聞き取れずに、かろうじて母が午後には来るらしい事だけが分かった。

 走り出して向こう、ずっと窓の外を眺めている。殆どは緑の景色。木が立ち並び、草が生い茂り、自然任せの風に揺られ、ざわめく。その中に電柱が点在して、横に線を切る。線路の傍には川が流れる。この路線自体は長いけれど駅の数は少なく、殆ど渓谷巡りのようなローカル線は、中途の一箇所で、大掛かりな橋によって川と交差する。深い谷底をどうどうと流れる白波とエメラルドグリーンの美しい水流が、高架の下を行く様は、激しく、また荘厳である。巨石にぶつかる水流には渦ができて、落ちればひとたまりも無さそうである。不意にその渦へ吸い込まれるような錯覚を起こして、僕は目を瞬いた。否な汗を掻いた。

 こんな山の中でも、不思議な事に人家は絶えない。ひたすら続く自然の中へ、家が建つ。よくぞこんな土地へ建てたものだと感心するような場所へしがみ付くように建っている。ただ侘し気である。酸性雨にでもやられたか、外壁のどす黒い幾筋が艶めかしく通り過ぎて行く。隙間風か、不意におでこへ生温い風を受けた。やがて一段と濃い緑の群れが目に入った。杉林だ。あの一帯を通り過ぎると、線路は次第に山を離れ、人の集まる町の中心に近付いて行く。住宅の他にも、寂れたアパートや農協が見えた。盛夏、の文字を掲げた昔からのラーメン屋もまだ残っていた。年中冷やし中華を出す為に、年中盛夏を掲げているのだ。昔雪景色の中に盛夏の二文字を見た時は、随分奇妙な心持ちがした。

 愈々僕の降りようとする無人駅に近付いて来た頃、不図目線を車内へ移動させて、一番先のボックス席の横へ、朝顔の鉢が置いてあることに気が付いた。この車両へ移動した折にも既に其処へ在ったか、覚えがない。途中三つの駅へ止まったので、その内の何処かで乗せられたのかも知れない。いずれにしても、手で持ち運ぶには幾分大きなサイズの鉢であった。僕は身を少し通路へ片寄せて、前方の朝顔を観察した。昼間で殆どの花はまるで人の臍のように窄ませてしまっているものの、一輪だけ、大きく広がったものが在る。青紫の濃い、鮮やかな装いである。

 朝顔何て、街中にも幾らでも咲いている。それなのに、久し振りに見るようだった。盆槍視界に入るのと、黒目をじっくり向けるのとでは、物の見え方が全く異なる。だからか、あの一輪はやたらと懐かしさを漂わせる。どんな人間が運んでいるだろうか。乗客の姿までは見えない。乗って来た事にも気が付かなかった。鉢は漆黒で、どうやら陶製である。駅前の花市で買ったのだろうか。支柱に絡む蔓と、黄緑色の大振りな葉。あの朝顔も、外の風が恋しかろうと同情する。もう寒さに耐え難く、一刻も早く列車を降りたいと願った。

 無人駅について、とうとう席を立った。朝顔の持ち主をちらりとでも眺め見たい好奇心から、僕は最短の扉では無く、前の扉目指して歩き、鉢を蹴飛ばさないよう注意するを装いながら、顔をそちらへちらりと向けて見た。そうして初めて、そのボックス席に誰も座って居ないことを知った。道理で頭一つとして見えなかったわけだ。

 僕は真っ先に、忘れ物だったかと思った。慌ててステップを降りて、ホームに車掌の姿を捜す。ワンマンだったから、車掌はおらず、代わりに運転手がホームへ降りては切符を回収していた。僕が近付いて行くと運転手は少し眉をひそめ、それでも手を出して僕の切符を受け取った。まじまじと僕の方を見るので、少し不愉快な気持ちになる。だが朝顔の鉢の事を一応伝えた。運転手は杓子定規に礼を述べて、車輌の方へ顔を向けた。僕が朝顔のあった席を外から指で示すと、片手を上げてもう大丈夫と云わんばかりの挨拶をした。どうも不躾な運転手だが、後は任せるしかない。どの駅で降りた客か分からないけれど、無事に持ち主の元へ届くと良いなと思いつつ、僕は僕で自分の持ち物を確認して、曾祖母の家へと歩き始めた。

 一歩近付くごとに、色んなことを思い出した。懐かしい光景が目の前に広がっては、少年の自分が半ズボン姿で駆けっていく。まるでしゃれこうべの形を持った銅像が建つ公園。角が鋭角な文房具店。空色の郵便ポスト。表へ設楽焼の狸を九つ並べる民家。半分傾いた小さな祠の赤い鳥居。一つ再会果たす度、今日まで遠ざかっていた物たちを続々脳裏に思い出す。少しく町を探検したくなるが、まずはひいばあちゃんの顔を見て安心したい。僕の足は段々歩幅を広げて先を急いだ。湿った空気の所為で、前髪が額にへばりついて鬱陶しかった。そう云えば俄かに息苦しく、まるで雨でも降り出しそうな湿度である。

 最後の細い坂道に差し掛かると、曾祖母の丹精する畑が見えて来る。作物はこの天気の中でも旺盛な様子で僕を出迎えてくれた。夏の作物の中でも、僕は西瓜が好物だった。畑から曾祖母が抱えてくる西瓜はいつも立派なサイズで、冷蔵庫で冷やせないから、外の大盥に井戸水を汲み上げて冷やしていた。今年も作っているだろうか。それとも体調の為に止めているか。

 不図、それならこの畑を世話しているのは誰だろうと眺めた。トマトの赤いのや茄子の黒光りしたてっぷり丸いのが、防虫ネットの隙間からちらちら見える。その内遂に玄関まで辿り着いた。曾祖母の家にはインターフォンが無い。それに玄関の鍵をかける習慣もなくて、用の在る人間は玄関をからからと少し開けては声を掛けて、名を呼ばわったり、名乗ったりするのだ。僕は一旦深呼吸した。あんまり久し振りだから、一寸身構えてしまっている。

 よし。
 からり、と引き戸を開けた途端、懐かしい白檀の匂いが僕の全身に覆い被さった。噎せる程強い香りにくらりとした。

 曾祖母は元気だった。暑い中よく来たと、数年振りの再会をとても喜んでくれた。僕の持参したお土産の水まんじゅうを、早速硝子鉢に張った氷水へ落としてくれた。それを居間へ運んで、膳の上で、お玉で一つ掬い上げては、今度は硝子の小鉢へよそってくれる。お腹冷やすといけないからと、熱い煎茶も淹れてくれる心尽くしで、暑中見舞いに来た筈が、すっかり僕がもてなされてしまっている。

 夏座布団のい草が肌に触れて心地良い。縁側の扉を開け放ち、簾のかかる居間で、蚊取り線香の匂いを嗅ぎつつ、涼やかな卓上を二人で味わいながらお茶をした。まるで時が止まった様に、静かな、余りに静かな時間が流れていた。旅の疲れが出たのか、僕は時々うつらうつらと眠気を催した。曾祖母に悪いと思って、生欠伸を噛み殺し、懸命に瞳を見開いた。
 話を聞いていくと、寄る年波で、体調位崩れることもあると云っては、にこやかに笑った。あまり多くは語らなかったけれど、畑も世話していると云うし、まあ大丈夫、ありがとうと云われてしまっては、それ以上僕には踏み込めなかった。けれど、穏やかに笑う曾祖母の顔を見る事が出来て、一先ず安堵した。安心すると、愈々強い眠気に襲われて、どうしても瞼が開かない。僕は少しだけと断って、とうとうその場へ横になったのだと思う。


 午後になって漸く母がやって来た。物音に気が付いて僕が顔出すと、こちらの顔見るなり、不審そうな顔をする。
「あんた、鍵持っとったっけ」
「え、持っとらんよ」
「じゃあどうやって入ったんね」
「ひいばあちゃんは鍵せんじゃろ、いつもしよったみたいに少し開けて声掛けたら、出て来てくれたよ」
 そう云うと母は急に顔色を変えた。いきなり瞼に涙を溜めるので面食らった。
「馬鹿じゃねえもう、あんたが間に合わんかったけえよ」
「えっ」
 間に合わなかったとは何だろう。どういう意味だ。僕は心臓が抉られるような不安に襲われながら、母の云う言葉の意味を考えた。まさか。と思いつつも、母の瞳を覗き込めば、それしか答えが残されていないように思った。分かった途端に背筋が凍った。間に合わなかった。僕は間に合わなかったのか。

「何べん電話しても繋がらんかったけえ、呼ぶに呼べんかったんよ」
「僕は電源切った事なんかないよ。夕べだって、ちゃんと繋がったでしょう」
「夕べあんたから電話なんか来とらんよ」
「嘘じゃ、そんな訳ない。僕はほんまに、昨日母さんに電話したんじゃけえ」
「そうゆうてもねえ・・・まあ、少し落ち着きんさい」
 二人の言い分は平行線だった。母は見せた方が早いと思ったか、靴を脱いで中へ入ると、僕に付いて来るように云った。居間へ足を踏み入れた瞬間、僕は我が目を疑った。膳の上へ水まんじゅうが幾つも転がっている。まるで水分が抜けて干からびたように無残な格好であった。僕が食べた数だけ少ない。

 彷徨う視線は居間の片隅に置かれた仏壇へ止まった。曾祖父の遺影が立ててあったが、隣の一枚は倒れていた。母が歩み寄って、丁寧に起こして見せた。紛れもない曾祖母の写真であった。

 僕は呆然と立ち尽くしていた。それならば僕は先程迄、一体誰と再会を懐かしんでいたと云うのだろう。喉の奥からあんこの甘さがせり上がって来た。一瞬間吐き気を催す。息苦しくて脂汗が出た。母はいたわしげな眼で僕を見て、それから仏壇の前に腰を下ろすと、静かに線香を上げた。促されて、僕も漸く腰を下ろした。膝が震えて、歯が鳴った。
 気持ちだけ、三人で夕食を囲った。茶碗を左手に抱えた時、仏壇へ骨壺が目に入った。僕はこの時初めて泣いた。泣きながら箸で米粒をかき込んだ。

 夜。夏の夜は外がいつまでも喧しい。母と二つ並べた布団、と云うのも不思議なものだけど、僕らは各々横になった。列車も終わってしまった事であるし、一晩だけでも一緒に居ようと云う事になった。家の中はしんとして、床を踏めば軋んだ音がそこら中に響くような具合だった。
「母さん、まだ起きとる?」
「なにあんた、眠れんのん?」
「いやそうじゃあないけど」
「なにい、どしたんね」
「・・・ひいばあちゃん、苦しまんかった?」
「そうじゃねえ、まあ、しんどい時期はあったじゃろうけど、最期は穏やかじゃったねえ」
 僕は寝返りを打った。
「仕方が無いんよ。順番じゃけえ」
「ううん」
 曖昧な返事を背中越しに返す。頭ではよくわかっているけど、張り切って潔く返事出来なかった。僕は又寝返りを打った。
「眠れんなあ」
 夜は深かった。いつまでも生温い風を運んでは、こちらの気を塞ごうと這うように手を回してくる。布団へ縫い付けられた体はじっとりと湿り、いつまでも沼の中で藻掻くようである。深い夜を遠くへ、或いは近くに感じながら、僕の心はざわついた。瞳が冴えてしまって、いつまでも闇を見詰めていた。そうしながら、漸く、今日会えて良かったと思った。すっかり小さくなった曾祖母。納骨は来週だと云う。
 その時には自分も又会いに来ようと思う。屹度そうしようと思いながら、とうとう僕も眠りに着いた。


 日が暮れそうで中々暮れない、燃えるような茜色の空が遠ざかるひと時。焼けた雲を目で追い掛けて行くと、地球の果ての果てへと吸い込まれそうな錯覚を覚える。なんでこんなに世界は広いんだろうと、途方も無い旅始めそうになる。

 帰りの電車内。母は片付けの為にまだ帰れないと云うので、駅で見送られて、僕一人ローカル線へ乗り込んだ。姿が見えなくなるまで手を振って、それから車内を移動して空いた席を探した。首持ち上げて、通路の先に視線走らせた時、あっと思った。
 また朝顔である。行きの列車内で見つけたのと同じように、陶製の鉢に竹製の支柱立てて、絡まる蔓、見事な育ち盛り。花の蕾も幾つもあって、今度は三つ四つ開いている。それがまた眩しい青紫。傍に空席を見つけ、僕は二人掛けへ腰を落ち着けた。其処からなら常に朝顔が目に入る。今日は持ち主も居るだろうか。妙な気を回して、首を心持ち伸ばすと、座席の上から頭が一部覗いているように見える。良かった、今度は居る。一安心して、目線は一度窓外へ運ばれた。茜色、橙、薄紫、群青。空は壮大なグラデーションだ。太陽の傍は一層深く燃えている。心が、震えていた。何処で掛け違えたかと、会わなかった数年分の後悔が、波のように襲って来る。僕はまた朝顔に目を向けた。

 揺れる朝顔。其の花、其の葉、其の幾数枚。暮れの陽光に照らされて、鮮やかな青紫は淡い紅を纏う。産毛の表がきらきらと光放ち、生き物のありのままを現世に映し出す。命の結晶であった。

                            おわり

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