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【連載小説開始】『小さな悲劇に満ちたこの世界で』プロローグ

【あらすじ】
 大学准教授が研究室で撲殺される。3人の容疑者が浮かび上がるも決定的証拠がない中、愛知県警所轄署の新人刑事、袴田穂高はかまだほだかは、ミステリアスな非常勤講師、澤口美羽さわぐちみわに関心を抱く。美羽は、夫、圭祐けいすけを強盗殺人で失ったシングルマザー。11歳の息子、日向ひなたと暮らしている。父親の事件を通じて圭祐と不思議な縁で結ばれた袴田は、美羽に惹かれ、恐れながらも、真相に迫っていく。しかし、美羽は、不幸な悲劇を1度ならずとも経験し、生き抜くための準備を常に整えてきた。警察の追及の手を巧みにすり抜け、日本を飛び立ち、逃亡に成功する。強く生き抜くために。

【目次】
プロローグ
1. 硝子のマリア像 2. 不器用な教え子
3. 弱い男
4. 都合のいい夫
5. 好奇心
6. 悲劇の未亡人
7. 刑事たち
8. 交わる運命
9. 未亡人の告白
10. 藤原美羽
11. 不幸な少女
12. 消えた未亡人
13. 脱出
14. 長野刑務所
15. 姉妹のような2人
16. 息子、日向
17. 秘密の帰結
18. USBメモリー
19. マリアの罪
20. 中野和歌子
21. 刑事たち、再び
エピローグ

「ママぁ」
平和公園の遊歩道で、息子の日向ひなたが後ろから走ってきた。そして母親の美羽みわの腕に自分の腕をからめた。
「待ってよ。そんなにすたすた歩かなくってもいいじゃん。せっかくそこにルリビタキがいたのに。青い大人のオスだよ」
 日向の胸元で双眼鏡が揺れていた。来春には5年生になるというのに、日向はまだまだ母親に甘えてくれる。
 小春日和の気だるい陽射しの中、澤口美羽はじきに母の背丈を超えてしまうであろう息子の顔を眺めた。
 美羽の真っ直ぐな黒髪は、小柄な体の背中まで伸びていた。かすかな風でふわりと揺れ、白くて丸い顔を優しく包み込んだ。切れ長気味の目が、柔和さに知的な雰囲気を添えていた。
 美羽は腕から伝わってくる日向の温もりを感じて、心から幸せだと思った。人生で思いどおりになることなんてほとんどなかった。辛くて、寂しくて、悲しい時間がたくさんあった。でもこの温もりは本物なのだと思えた。
「あ、パパのお墓だ」
日向は腕をほどいて、今度は自分が先に父親の墓に駆け寄った。
 貿易会社を経営していた父親の圭佑けいすけは、日向が生まれて間もなく他界していた。圭佑は33歳、生まれたばかりの赤ん坊を抱えた美羽は28歳であった。
 美羽と、やっと首が座った日向と一緒に散歩にでかけ、圭佑だけ先に帰宅した。そして警察によれば、圭祐は空き巣と鉢合わせし、住人の帰宅にパニックを起こした強盗は、執拗しつようなほど圭佑を花瓶で殴った。
 圭佑は、泥棒がいる間に美羽と日向が戻れば2人にも危険がおよぶと思ったのか。泥棒を追い出そうとしたのだろうか。
 あとから帰宅した美羽は、半狂乱の状態で、血だらけの手で日向を抱き、マンションの2階下の住民に助けを求めた。
「圭ちゃんが、圭ちゃんが。救急車を呼んでください」
 救急隊員が駆けつけたとき、圭佑は頭部から大量に出血して、居間の床に仰向あおむけに倒れていた。美羽は血まみれの硝子がらすの花瓶と泣き声ひとつ立てない日向を抱え、放心状態で床にへたり込んでいた。
 圭佑は心肺停止状態だった。病院に搬送され死亡が確認された。
「パパが僕たちを守ってくれたんだよね」
日向が圭佑の墓石の前で振り返った。
「そうだよ。パパが守ってくれたから日向もママもこうして生きてるんだよ。パパは優しい人だった」
 美羽はそう言うと、墓石の前でしゃがみ、手を合わせた。長い、長い間、目を閉じ、ずっとそうしていた。日向も美羽の横で手を合わせた。これが美羽の家族の団らんだった。(つづく

#創作大賞2023 #ミステリー小説部門


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