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【連載小説】『小さな悲劇で満ちたこの世界で』9. 未亡人の告白

【これまでのお話】
プロローグ
1. 硝子のマリア像 2. 不器用な教え子
3. 弱い男
4. 都合のいい夫
5. 好奇心
6. 悲劇の未亡人
7. 刑事たち
8. 交わる運命

9. 未亡人の告白

 袴田が知っていた澤口美羽でない澤口美羽がいる。夫圭佑の事件にもやはり何かある。そう袴田は確信した。
 しかし、父光一の事件と圭佑の関わりを知ってからというもの、袴田はいつもの冷静で論理的な自分を取り戻せない苛立ちと心許なさを持て余していた。
 月曜日、中途半端な気持ちのまま県警本部の城島を訪れ、美羽からの電話のことを話した。袴田の冴えない顔に気づかないふりをして威勢のよい声を上げた。
「そら、澤口美羽が動いたぞ。袴田、お前が動かしたんだ。まだ海のものとも山のものとも分からせんが、夫圭佑の事件には必ず何かある。警視庁に貸しのある奴がおる。澤口美羽が東京にいたときのこと、ちょっと調べさせるわ」
 袴田は、やはり城島に話してよかったと思った。
「よろしくお願いします。僕は、澤口美羽にもう一度接触してみます。どうしてあんなことを言ったのか、真意を知りたい。圭佑の事件の裏も見えてくるかも知れません」
袴田は、身体の中に少しずつだが力が戻ってくるのを感じた。
 城島は、袴田の目に光が戻ったのを見逃さずに言った。
「そうだな、お前はそうしてくれ。お前にしか訊けんことだからな。こっちも何か分かったら連絡する」
 袴田は、美羽が月火水の週3日、聖マシュー大で教えていることを覚えていた。捜査資料にあった大学の時間割表で授業スケジュールを調べ、美羽に会うために再びキャンパスを訪れた。
 袴田は、教室の前で美羽を待っていた。授業が終わる2時40分近くになると、少しずつ騒々しくなってきた。美羽の教室の中から次々に学生たちが姿を見せた。
 学生たちの姿がまばらになるのを待って教室の中を覗いた。美羽は黒板を消し、教科書を片付けていた。袴田が声をかけた。
「澤口先生」
 顔を上げた美羽は、袴田を見ても驚かなかった。むしろ、袴田が来ることを予期していたようだった。
「大学では澤口先生ですよね」
 それには答えず、美羽は言った。
「いらっしゃるんじゃないかって思ってました」
2人は連れ立って教室のある7号館を出て、屋外の休憩スペースのベンチに座った。
 袴田がどう話を切りだそうか考えあぐねていると、美羽は場違いにくすっと笑った。
「当然ですよね。急にあんなこと言われたらなんでって思いますよね。ちゃんとお話ししなきゃね」
 紅葉した木々が晩秋の日差しの中できらきらと輝いていた。美羽はとつとつと話し出した。
「圭ちゃん、夫の圭佑は、結婚前にお父様の事件のこと、私に打ち明けたんです。自分がいかにだめな人間かって。臆病でずるい人間かって。それで、そんな自分でもよかったら一緒になって欲しいって。私は自分の弱さを知っている偉い人だなって思いました。むしろそれで付き合ってまだ1年ぐらいだったのに結婚を決めました」
 袴田は、圭佑という人間を責める気にはなれなかった。確かに早く通報してくれていたらと思うと、言いようのない悔しさは拭えない。
 だが、今の世の中、知らない人間のために何かしようなんて人間がどれほどいるだろうか。今の社会は人と人の絆でできているんじゃない。人が暮らすために必要なシステムが詰まった入れ物に過ぎない。
 美羽は、黙ったままの袴田の方に向き直った。
「でも、袴田さんが圭佑に恩義を感じる理由は一つもないんです。土曜日に、袴田さんに頭を下げられて苦しくなりました。圭ちゃんがしたこと、しなかったことを知ってて言わないことが苦しくなりました。袴田さんは何でもしみじみする人だって思ったので、圭ちゃんがあんな死に方をしたからって、いい人だって思ったままだったら苦しいだろうって」
 そして、もう一つ、袴田を驚かせることを打ち明けた。
「袴田さんにはじめてお会いしたの、ずっと前なんですよ。圭ちゃんからお父様のこと聞いたあと、私、お父様のお墓に1人で行ったんです。そしたら、お母様と袴田さん、あのときは今の日向ぐらいだったと思いますが、お二人がお墓のお掃除をされていたの。私が近づくと、お母様が別のお墓に来た墓参客と思われて声をかけてくださいました」
 袴田は呆然として、ただ黙って聞いていることしかできなかった。
「ほんの少しだけお話して、別のお墓に行くふりをしてそのまま帰りました。別れ際にお母様が『あなたの痛みが1日も早く薄れるようにお祈りしています』とおっしゃったの。だから『私もお祈りしています』って答えたの。お母様の言葉に、私、なぜかとても救われた気がした」
 美羽の「お祈りしています」という言葉を聞いて、袴田は非常勤講師説明会の日のことを思い出した。
 その日、美羽は、同じ言葉を学部長の渡辺に言ったのだった。袴田は言いようのない懐かしさを覚えた。そして、それは気のせいではなかったのだ。
 美羽は、穏やかな笑顔で袴田に別れを告げると、しゃんと背筋を伸ばし、落ち着いた足取りで立ち去った。
 袴田は美羽を見送りながら、美羽は、自分が信じたことは何があろうが貫き通す女なのではないかと思った。具体的なことは何一つ分からないが、美羽は圭佑を愛してはいなかったのではないかと感じた。
 美羽の中では、いつかの時点で、夫圭佑は必要があれば犠牲にしても構わない存在になっていたのではないかとの疑念が湧いた。小柄で柔和な美羽を、はじめて怖い女だと思った。(つづく


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