【連載小説】『小さな悲劇に満ちたこの世界で』 6. 悲劇の未亡人(4392字)
【これまでのお話】
プロローグ
1. 硝子のマリア像 2. 不器用な教え子
3. 弱い男
4. 都合のいい夫
5. 好奇心
6. 悲劇の未亡人
袴田は、澤口美羽について調べてみたいと警部の城島に伝えた。
「まだなんも出とらんのだろ。だが、まあええわ。捜査も八方塞がりだしな。人権侵害とか言われんよう気をつけなかんぞ」
事件とのつながりを示す何かが出たらすぐに城島に報告することを約束した。
事件から5ヶ月が経とうとしていた。3人の容疑者、井口、道長、大橋の犯行を直接裏づける証拠は未だに何も見つかっていなかった。新たな目撃者も見つからず、捜査会議ではでは焦燥感が漂っていた。
思いがけず事件後すぐに容疑者が見つかったことが、特捜本部の焦りに拍車をかける結果となった。捜査員の中には、早々と犯人逮捕を悲観視する者も出てきていた。
城島は、そんな情況の中、特捜本部全体が新しい突破口を待ち望んでいることを重々承知していた。捜査会議で、何ら確信も確証もない澤口美羽の関与を内々に捜査すると発表し、袴田に美羽の捜査を正式に命じた。
ただし、想定内ではあったものの、警視正の島田からは、澤口美羽本人の人権や心情はもとより、聖マシュー大学に迷惑がかからないよう最大限の配慮をするように釘を差された。
袴田が調べ始めると、澤口美羽が、人とは違う悲しい過去を持っていることがすぐに分かった。
11年前の秋の日曜日、美羽の夫圭佑は、結婚3年目、一人息子の日向が生まれて間もなく強盗に殺されていた。犯人は3ヶ月後に逮捕され、無期懲役刑に服している。
袴田は、警察による犯罪被害者家族の追跡調査ということで話を聞いた。美羽に迷惑がおよばないように、あるいは石川の事件と関係がある場合は美羽を警戒させないように、という配慮からだ。
夫圭佑の事件当時、澤口美羽は、名古屋市の中心街に近い東区泉にある、ワンフロアが1件という豪奢なマンションに住んでいた。
澤口家は明治時代より代々貿易業を営んでいた。父圭司は、圭佑が美羽と結婚したことを機に、早々に引退し圭佑に会社を任せた。時代の変化を乗り越えるには若い圭佑の力が必要だと、息子の圭佑の背中を押した。
お坊ちゃん育ちで甘さの抜けなかった圭佑だが、美羽と結婚したことでよい方にずいぶん変わったという。
何よりも周りを驚かせたのは、生活が地味になったことだったという。錦のクラブに顔を出すのは接待のときだけとなり、赤いポルシェを白いクラウンに乗り替えた。
仕事にも熱心に取り組むようになり、新たにヨーロッパやアジアの食材の輸入を始め、全国のデパ地下に置いてもらえるよう売り込んだ。同時に、イギリスのスーパーマケットのチェーン店で日本の食材を実演販売する準備も進めていた。
当時の圭佑を知る者は皆、たいてい圭佑の斜め後ろでにこにこしていた美羽のことをよく覚えていた。澤口貿易に勤めていた経理の女性社員は言った。
「美羽さんは、本当によくできた奥様でしたよ。控えめな方でしたけど、とてもしっかりしていらっしゃっいました。誰のことも気遣ってらっしゃいましたね。会社の仕事を手伝われるときも、決して出すぎないようにしていらっしゃいました。亡くなったご主人は、奥様にベタ惚れって感じでしたね。本当にお幸せそうでしたのに」
そして結婚した翌々年、圭佑と美羽の間に日向という男の子が生まれた。姑の澤口鈴子は当時の美羽の様子を振り返った。
「美羽ちゃんはほんとにいい子ですよ。唯一のご家族のお祖母様もずいぶん前に亡くされててね。お産のときも、そのあとも、私がお手伝いさせてもらいました。私が年中いたんじゃ疲れるかとも思って、週に2度ほどはお手伝いさんにお願いしてましたけどね。美羽ちゃんはああいう子ですから口には出しませんでしたが、日向が生まれて、血を分けた家族ができたこと、すごく喜んでたんじゃないでしょうか」
そして鈴子は、涙で声を詰まらせながら言った。
「あんなことが起こるなんて。圭佑は曲がったことの嫌いな優しい子でしたよ。甘ちゃんなところもありましたけど、亡くなる頃には立派に会社も仕切ってました。いくら犯人が捕まっても、本当にやりきれません。美羽ちゃんも、可愛そうで見ていられませんでした」
犯人は、当時、澤口家が住んでいた泉地区の留守宅を狙った連続窃盗犯だった。
2003年10月19日、昼下がりの温かい秋の日差しの中、圭佑と美羽は日向を連れて中心街にある久屋大通公園に散歩に出かけた。日曜日の公園では、日向ぼっこする人々がベンチでのんびり座っていた。
当時の捜査資料によれば、20分ぐらい歩いたところで、圭佑はイギリスから電話がかかってくるのを忘れていたと、先に急いで家に向かったという。
そして美羽も、まだ3ヶ月になったばかりの日向と長くは外にはいられないと思い、追うように家路に着いた。
美羽が8階の自宅の玄関を開けると、いつもと違う感じがして不安になり、急いで圭佑の姿を探した。
そして、廊下の突き当りの居間で血だらけで倒れている圭佑を見つけた。日向を抱いたまま圭佑に触れ、名前を何度か呼んだが、生きているかどうか分からなかったという。
気が動転してわけがわからないまま、エレベータで1階下に行き、家の呼び鈴を鳴らしたが誰も出なかった。もう1階下の6階の家の呼び鈴を鳴らすと住人の山下景子が出てきた。
血で染まった美羽の手や日向のベビー服を見た山下景子は、夫の名を叫び助けを求める美羽を玄関に残し、すぐに110番したという。
警察の方で手配したのか、ほどなくして警察と救急の両方が8階の澤口邸に到着した。
山下景子に付き添われて自宅に戻っていた美羽は、血まみれの硝子の花瓶と日向を抱えて座り込んでいた。そして頭から血を流し、仰向けに倒れている圭佑を、焦点の合わない目で見つめていた。
警官の1人が声をかけた。
「澤口さん、澤口さん、大丈夫ですか」
「これで、これで、圭ちゃんが」
美羽はそう言うと、花瓶をゴロンと床に放り出し意識を失った。
警官は、美羽を支えながら、美羽の腕から転がりそうになる日向を必死で受け止めた。
澤口家のマンションの窓ガラスは外から割られ、鍵がこじ開けられており、硝子が割られた客間のベランダに連続空き巣犯の足跡が残っていた。
衣装部屋に置かれていた金庫がこじ開けられ、現金1,200百万円と宝石や時腕計が盗まれ、代わりに衣装部屋にあった衣類が詰め込まれていた。
澤口邸のあるマンションはいわゆる高級マンションで、正面玄関と通用口2箇所のすべてに防犯カメラが設置されていた。
しかし、客間はマンションの正面玄関と反対の建物の裏側にあり、人目につかず敷地外から塀によじ登り、雨樋を伝ってマンション裏側の各階のベランダと行き来できることが分かった。
犯人の稲村健介は、澤口家の事件の3ヶ月後、金に困ったのか、焦って盗品を現金化しようとしたところを張り込み中の警察官に逮捕された。
処分しようとした盗品の中に圭佑の腕時計が混ざっていた。稲村は取り調べに対し、最後まで圭佑を殺したことを否認した。しかし、事件当時のアリバイもなく、証拠が稲村の犯行を裏付けていた。
事件後、美羽は稲村が逮捕されるまで、白壁の圭佑の両親宅に日向とともに身を寄せていた。息子の圭佑を失った澤口の両親は、美羽に社長として会社を切り盛りする気がないかと持ちかけた。
圭佑の姉の梨恵が留学先のアメリカで歯科医と結婚し、後継者が不在だったこともある。ただ、美羽にとっても忙しくしていた方が気が紛れると思ったのも事実だった。
美羽はそんな澤口の両親の申し出に心からの感謝を示したが、丁寧に辞退した。
事件のあった泉のマンションには住めないと、マンションを売り、澤口の両親の家の近くに小さな中古マンションを買って日向と移り住んだ。
澤口の両親は、白壁の澤口邸での同居、新築マンションの購入も申し出たが、そのいずれも美羽は感謝の言葉とともに断った。
舅の澤口圭司は、10年以上経った今も、すっかりやせ細った美羽が青白い顔で言ったのを思い出すという。
「お義父さん、お義母さん、何から何までありがとうございます。お義父さんとお義母さんがいらっしゃらなかったら私は今頃生きていなかったと思います。家族ってありがたいなあって心から思います。でもこれ以上ご厚意に甘えることはできません。お近くに住まわせていただけるだけでいいんです。日向はできるだけ連れてきます。おじいちゃんとおばあちゃんにかわいがっていただければ喜びます。私もお会いできるだけで、独りじゃないって思えます。とても心強いです」
圭司は、しぶしぶ美羽の決意を受け入れた。美羽は言ったとおり、毎週1回は日向を連れて圭司と鈴子を訪れ、鈴子と一緒に夕食を作り、食卓をともにして帰っていく。それは今も続いているという。
圭司は、自分たちが美羽を気遣っているつもりで、実は美羽が息子を失った自分たち老夫婦を気遣ってくれているのだと思っているという。
美羽は日向が3歳になると、大学院に通い始めた。子供の頃から英語が好きだったという美羽は、大学院で英語学の勉強を始めた。
圭佑が遺した財産は、美羽が日向を育てながら生活していくには十分以上のものだった。日向が望めば私大の医学部にでも行かせてやれる経済的余裕もあった。
心配する澤口の両親に美羽は、穏やかな口調だが、きっぱりと言った。
「日向に尊敬してもらえる母親に少しでもなれたらと思うんです。いろいろな方と会って、学んで、社会で少しでも役に立つことをして、日向が悩んだときにアドバイスしてやれる人間になりたいんです」
圭司と鈴子はそれ以上何も言えなかったそうだ。美羽は何度か鈴子の顔を立てるように日向の世話を頼んだほかは、自分でなんとか日向の世話をしながら大学院に通った。
アメリカの映画を題材に修士論文を書き、2年で大学院を修了した。修了証書を圭司と鈴子に見せるために持ってきた。鈴子が近所のうなぎ屋から特上のひつまぶしを取り寄せ、美羽の修士課程修了を祝った。
大学院の指導教官の口利きで、美羽は聖マシュー大学で非常勤講師として英語を教え始めた。
袴田は、なぜこれほど澤口美羽に惹かれるのか、なぜ自分の中に複雑な感情が沸き起こったのか、少しだけ分かったような気がした。
ほんの数分キャンパスで見ただけの美羽からは、悲しみや絶望は一切感じられなかった。むしろ、生きていることへの感謝、そして生き抜くことへの凛とした決意を感じた。
澤口美羽は、自分の家族に降りかかった悲劇を乗り越え、未来に向かって着実に歩んでいた。袴田が惹かれたのは美羽のその強さだったのだ。(つづく)
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