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【連載小説】『小さな悲劇に満ちたこの世界で』 3. 弱い男(3911字)

【これまでのお話】
プロローグ
1. 硝子のマリア像 2. 不器用な教え子


3. 弱い男
 
 2人目の容疑者は、8年前に石川が証言した傷害事件で有罪判決を受けた道長みちなが信介しんすけ、45歳だった。
 当時の資料によると、石川は、道長とその妻の茉莉まりとは4年前に名古屋のスポーツクラブで出会った。道長は、日本未発売のスポーツ器具をアメリカから輸入し、通販番組で販売して成功していた。
 道長夫婦と知り合って3ヶ月ほど経つ頃までに、石川は茉莉が腕やすねにいつも青あざを作っていることに気づいた。
 石川がそのことを尋ねると、茉莉はコロコロと笑いながら答えた。
「エクササイズでボルダリングしてるんです。年中あちらこちらぶつけてて。病院でよくDVと間違われるんですよ」
 石川は茉莉の屈託くったくのない笑顔に一応は納得した。
 それから約1ヶ月後、午前1時頃、石川は24時間制のそのスポーツクラブにいた。
 サウナに入ろうと、ロッカールームからサウナ室へ向かって廊下を歩いていた。すると、男女の言い争う声が聞こえてきた。
 女は悲壮な声で言った。
「気に入らないことがあったからって八つ当たりはやめて! 痛い、痛いったら!」
「うるさい! お前みたいな子供も産めない女、他に誰が面倒見てくれる!」
男の声が聞こえたと思ったら鈍い衝撃音がした。
 ただごとではないと感じた石川は、声のする方に行ってみた。トレーニングルームの1つの扉が少し開いたままになっていた。
 扉を恐る恐る開けると、中にいたのは道長夫妻だった。
「いや、ちょっと喧嘩してしまって」
道長は石川を見ると、不自然な笑顔を浮かべて、なんでもない風を装おうとした。
 茉莉は顔を左手で抑えながら床に座り込んで泣いていた。髪はひどく乱れていた。
「救急車を呼んでください」
茉莉は決心したように静かに、ゆっくりと顔を上げ、石川をまっすぐ見据えて言った。
 茉莉は顔面を骨折していた。信介は握りこぶしで茉莉の顔を強く殴ったのだった。
 茉莉は、病院で何年にもわたって夫の信介から暴力を受けていたと告げ、泣きじゃくった。警察に被害届を出し、家には帰らなかった。
 茉莉の両親は、信介の暴力を知るとすぐに茉莉を涙ながらに迎え入れた。信介は会社を興したとき、マンションをいくつも経営している茉莉の両親から借金していた。
 娘の夫ということで、まだ2,000万円以上未返済のままうやむやになっていたが、信介は即刻返済するように迫られた。刑事告訴され、弁護士費用も払わねばならなかった。
 プライドの高い信介は、茉莉が自分を裏切って内輪のことを世間にさらしたと怒り狂った。弁護士への対応もひどかった。
 茉莉に謝罪することもなく、裁判官の心象しんしょうも悪かった。石川の証言で言い逃れすることもできず、信介は懲役3年の実刑判決を受けた。
 裁判に出廷した茉莉はこう証言した。
「夫に何をされても怖くて誰にも言えませんでした。言ったことが夫に知られたら、もっとひどい目に遭うと思ってました。怖くて、恥ずかしくて、親にも友達にも言えませんでした。何かおかしいと気づいていた会社の人間や知人もいたと思います。でも、関わりになりたくなかったんでしょうね。気づかないふりをしていました。私には、逃げ場はありませんでした。でもあの日、石川先生がジムに入っていらっしゃったとき、ああ、もう耐えられない。もう耐えなくてもいいんだって思いました」
 今年の2月に刑期2年足らずで仮釈放の身となった。収監された信介は、人が変わったように大人しく真面目に刑期を務めた。
 信介を知る者は、実刑判決を受け、会社もたたまざるを得なかったことが、よほどこたえたのだろうと考えた。
 信介は、いつも称賛されたり持ち上げられたりしていないと気が済まない人間だった。豪胆で気前の良いふりをしていたが、実際は陰険でケチで自信のない男だった。
 警察は、捜査の過程で信介の事件を知り、すぐに信介の出所後の生活を調べた。信介は、子供の頃からかわいがってくれた、年老いた叔父の道長良三りょうぞう宅に帰住していた。
 また良三の口利きで、出所直後から、物流センターの在庫管理システムの保守係として働いていた。勤務態度は真面目で、他の従業員とトラブルを起こすこともなかった。良三も信介を受け入れた物流センターの間宮俊一郎も安堵していた。
 しかし、信介は酒が入ると違う顔を覗かせた。出所後、信介は、事件前から足繁く通っていた錦にあるバー「おうぎ」に再び姿を現すようになった。
「扇」のママ、新崎にいざき綾野は、信介の高校時代の同級生で、当時2人は数ヶ月だが付き合っていた。クラス会で再会し、綾野がバーをやっていると知り、信介が通うようになったのだ。
「あの石川のせいで俺の人生は滅茶苦茶だ。あいつさえ茉莉に変な入れ知恵をしなければ、茉莉は俺を裏切ったりしなかったんだ。ただじゃおかん」
酒が進むと、決まって綾野に恨み言を言っていた。
 毎度のように泥酔でいすい状態で運転して帰るという信介から、BMWの鍵を取り上げ、押し問答の末タクシーに押し込むことに綾野は内心うんざりしていた。
 事件前日、4月18日の金曜日も、信介は夜8時頃「扇」に姿を見せた。しかし珍しく、綾野が帰宅中のサラリーマン向けに始めた夕定食と生中まなちゅうを一杯注文しただけだった。
「あれ。信ちゃん、今日はご飯だけ」
そう尋ねる綾野に信介は言った。
「今日はちょっとな」
 綾野は、捜査員にそのときの道長の印象をこう語った。
「何だろう。あの日は信ちゃん、何か変だったよ。幽霊みたいで心ここにあらずって感じだった。会社で何か言われたのかなあ。奥さんのこととか、刑務所入ってたこととか。あの人さ、見た目はごっついし、声も大きくて、男って感じでしょ。でも滅茶苦茶気にしいなんだよ、昔から。ほんとにさ、なのに、何であんなことしたんだろ。馬鹿だよね。子供がいないこと、何かすごい恥みたいに言ってたから、奥さんに当たったんだよね、あれは」
 道長信介本人は、18日の夜は気が滅入って騒ぐ気にならなかったから帰宅しただけだと言っている。会社では、事件のことを知っている者もいたが、わざわざ信介に何か言ってくる者はいなかったという。
 19日の朝は、土曜日だが仕事があり、いつもどおり6時半に起きて、1人で朝食を食べ、7時過ぎには車で覚王山の叔父宅を出たそうだ。
 叔父の良三は、4時半頃に起きて、5時にはでかけたということだった。近所の退職組の友人たちと体操したり散歩したりしたあと、日泰寺にったいじの参道にあるカフェでモーニングを食べることが良三の日課なのだ。良三は、帰宅した8時には信介はすでにでかけたあとだったと言っている。
 良三が起きる前に信介がでかけたということはないか、でかけたとき車は車庫にあったかと尋ねられて、良三は声を荒げた。
「おまはんたちは、何が何でも信介を殺人犯にしたいのか。前科者は誰でもまた犯罪を犯すって決めてかかっとるだろ」
良三は、自分の怒声に驚いて言葉を失った。数秒間目を閉じると、感情を抑えて言った。
「私も信介も2階で生活しとります。眠りも浅いですから、信介が起きたら気づきます。車は、たぶんあったと思います」
 覚王山かくおうざんの閑静な住宅街の土曜日の朝は、静かなものだった。もっと早朝には新聞配達が家々を回っていることだろう。
 しかし、週末の朝6時、7時台は意外に人通りがなかった。信介は、先にでかけた良三はもちろん、近所の誰にも会わなかったと言っている。
 良三宅の駐車場は、3階建てのレンガ造りの戸建ての1階にあり、塀と一体化した開閉式ゲートで道路と隔てられている。家の中から、または車に乗ったままリモコンでゲートを開閉させて車を出し入れする。
 19日の朝は、車を出している信介を見た者は誰もいなかった。ゲートが閉まれば、車があるかどうかさえ外からは分からない。住宅街では、他人の家に防犯カメラを向けている家もない。
 信介は7時47分に会社の駐車場に到着していた。こちらは従業員用の駐車場のゲートをIDカードで開けて入るようになっており、ログが残っていた。防犯カメラの映像でも確認できた。
 捜査の指揮に当たっていた警視正の島田清澄きよすみは思った。
「学生の井口聡子よりは、道長の方が八方丸く収まる。道長なら聖マシューもダメージが少なくて済むんだが」
 島田の後輩である清水が理事を務める聖マシュー大学は、中部地方で1、2を争う名門私立大学だ。
 しかし、少子化が進む中、文部科学省の役人の顔色を伺いながら、学生の獲得競争に明け暮れるのが私大の現実だ。在学生が殺人犯などというスキャンダルは、何としても避けたいところだろう。
「推定死亡時刻前後、大学周辺に道長の目撃情報はないか、叔父の良三の起床前、4時半以前の自宅周辺、それから範囲を広げて目撃情報がいないか、徹底的にジドリしてくれ。よろしく頼むぞ」
島田は珍しく捜査員にげきを飛ばした。
「はい」
100人近い捜査員たちが声を揃えた。
 警部の城島は鼻白はなじらんだ。
「おいおい、エリート同士助け合うのは勝手だが、捜査を歪めるのはやめてくれよ」
島田と聖マシュー大理事の関係を思い返し、心の中で悪態をついた。
 しかし同時に、道長による犯行はまったく不可能とも断言できないと思った。
「道長の叔父がいくら年取っとても、眠りが浅いとは言っても、道長のアリバイは弱い。そもそも家族の証言だ。4時半前に出かけとったとすれば犯行は可能だ。良三も車が車庫にあったとは明言しとらん。日常生活の出来事など、記憶が曖昧なのが普通だ」
 城島は、休憩時間に入った捜査会議室を見回した。最初に現場に到着した、守山署の袴田穂高の姿が目に留まった。
 城島は事件当日、袴田から現場で直に報告を受けた。理路整然として手際の良い報告に、好印象を持ったことを思い出した。
 袴田は持参したノートを眺めながら、少しだけ右に首を傾げて怪訝けげんな表情をしていた。(つづく

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