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発達障害のことを真面目に考えてみた

友人と発達障害について話をしていて、考えたことがある。

「発達障害YouTuberとか、発達障害同士で結婚しましたっていうカップルとか、テレビでやってたんやけど、何なんあれ!?」

何の番組かは知らないが、テレビで発達障害を扱っていたのを観たらしく、いつものように彼は怒っていた。

「ちゃんとした知識のない、まぁまぁの大学を出たしょーもないやつらがこんなふうに発達障害を広めよったせいや。こんなふうになると思てたわ。無責任すぎひんか」

『なんとか障害』をアピールする人間が急に増えた。ちょっと多すぎやしないか。
昔は障害者なんてそんなにいなかった。昭和では聞いたことがない。
タレントも一般人も、いちいち言う必要もないのに「私は○○障害なんです」とアピールする。そんな輩がやたらと増えた。

そして彼は、障害を「売り」にしていることが解せないのだと言う。

たしかに、「発達障害もどき」は近年で一気に増えたように思う。
ファッションのように発達障害が扱われている感は否めない。

あの人も、この人も、
私も、あなたも、
みんな発達障害???

えっ、本当にそんなにたくさんいるの??
…と、当事者としても困惑してしまうことがある。

彼は「本当に重度の発達障害を抱える人は1%いるかいないかで、それ以外は障害でもなんでもない」と言う。
「そもそも発達障害なんて、この世に存在しない」というのが彼の主張だ。どこかの医者が「発達障害」という概念をつくって、それを勝手に当てはめているだけ。医者はビジネスでやっているわけだし、医者としても患者としても何か病名がつくほうが楽だから。

たしかに、そういう「発達障害ビジネス」も蔓延しているんだろうなと思う。

1%という確率もかなり高いとは思うんだけど。
果たして、そのなかに自分が入っているのかいないのか、ちょっと気になっちゃうな。

私は40代で発達障害が判明したが、中等度だと診断された。決して軽くはないが、重度でもない。だけど、幼稚園から小学・中学・高校までの自分の人生を考えたら、私はその1%に入っていてもおかしくない子だったな、と思う。

高校生くらいのときのこと。家族でテレビを観ていて、自閉症を扱ったニュースが流れたとき、「これ、お前のことみたいやねぇ」と、父がお気楽な感じで私に言い放ったのをよく覚えている。
もっと早くに専門機関で詳細な検査を受けていれば、間違いなく重度の発達障害と診断されていただろう。

しかし、発達障害を診断できる検査は、現時点でもまだ存在しない。
ということは、発達障害であるかどうかなんて、医者にも誰にも本当はわからないのだ。

「発達障害は生まれつきのものだから治すことはできないし、治す必要もない」と言われているけれど、もしかしたら将来、発達障害の治療が可能になっているかもしれない。
実際に、京大でそういう研究が進められていると聞いたことがある。

過去の常識が、現在では非常識であるというのはよくあることだ。
医学もそう。誰もが常識だと思っていたことが、数年後に平気でひっくり返されたりする。
発達障害も、いずれそうなっているかもしれないのだ。


彼とは、この手の話をたびたびするのだが、この日は素直に「たしかに、この人の言うことももっともやな」と思った。
いつもは「いやいや、わかってないなー」と思うことが多いのだが、このときはなぜか、すとんと腑に落ちたものがあった。

私も、障害を売りにしていないだろうか?
そんなことを考えてみた。

「売り」という言葉には、セールスポイントという意味がある。
発達障害は私にとってのセールスポイント?……いやいや、そんなんじゃない!

障害のことを書いているけれど、私が書きたいのは、「障害のある私」のことじゃなくて「ありのままの私」のことだ。他の誰とも違う、いまここに生きている私。
その想いや生きざまを、誰かに知ってほしくて書いているんだと思う。

発達障害があることは、間違いなく私のアイデンティティーではあるんだけれど、それはあくまでオプションなのだ。私にとって絶対必須のオプションではあるけれど、他者の目を通して見れば、それほど重要なことではないのかもしれない。それがあろうとなかろうと、「私」という存在は変わることはないのだから。

「俺から見れば、お前は障害者なんかじゃない。お前が障害者なら、俺のほうがよっぽど障害者や。病院に行けば俺もきっと『なんとか障害』ってつけられるに決まってる」
と彼は言う。

この人はいつも、何のフィルターも通さずに、私自身を見てくれているのだなと思う。そのことは素直に嬉しいと思う。
だけど、私に発達の特性がなければ、この人ともモメたりすることなく上手くいってるだろうし、もっとスムーズな生活を送ることだってできているはずだ。
きつい言葉もさんざん浴びせられた。私に障害がなければ、それはきっとなかったことだ。
そんなことを思うと、めっちゃモヤモヤしてしまうんだけど。

もし叶えられるのならば、一度でいいから、一日でもいいから、定型の人と入れ替わってみたいな。
定型の感じがどんなのか味わってみたいし、私の普段の大変さを誰かに味わってほしい。こういうしんどさっていうのは、目に見えないから理解がむずかしい。自分の身にふりかからない限りは他人事なのだ。当事者でなければ、実感のしようがないのだ。


ともあれ、障害を売りにしないこと。なんでも障害のせいにしないこと。
このことは、私のなかでしっかり守っていこうと思った。

たまに、SNSなんかで障害を絶望的に捉えてる人たちを見かけることがあるけれど、私はそんなふうには生きたくない。
人によってしんどさは様々であることは承知してるけど、本当に苦しんでいる人は意外と泣き言を言ったりしないのではないだろうか。半世紀近く生きてきて、私はそんなふうに思う。

私は自分のことを「かわいそう」だなんて思わない。
障害があってこんなにも生きづらい私を憐れんでほしいとか、障害があってもこんなに頑張って生きている私を認めてほしいとか、そんなことも、まったくこれっぽっちも思っていない。

私は自分が「普通ではない」って自覚はあるけれど、「特別」だとも思っていない。
普通ではないけれど、普通ではないなりに、外からはよく見えないかもしれないけど、それなりに工夫しながら懸命に生きているんだよ。

とにかく、私は前向きに生きる!
どんなことがあっても前向きな気持ちを忘れず、明るく元気に生きる!
それが私のいちばんの強みであり、「売り」なのだから。

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