タダの天然氷を世界中に売り大儲けした男〜元祖「ボストン・イノベーション」
ビジネスにも色々な形態があるが、元手が「ただ」のものを売るほど儲かる商売もないだろう。こんな夢を叶えた人が19世紀初頭のボストンにいた。その名をフレデリック・トゥーダー。彼は「寒いこの辺りにふんだんにある氷を、暑いところに売ったら大儲けになるんじゃないか」と思いついたアイデアマンと思われている。が、実際は、失敗に次ぐ失敗、借金まみれで監獄に行くなど苦難のビジネスだった。収益が上がるまで20年、そこには、「無理」とみんなが思っていたことを、自分を信じて努力を惜しまず、発想から実行に移した、というありきたりのストーリーがあっただけではなかった。彼は、このビジネスを、単純に氷を運ぶという運送業ではなく、時間と労力をかけて人の氷に対する意識を変えるという彼ならではの戦略によって、次のレベルに引き上げることに成功した。その結果、彼の長年の努力は、単に贅沢品の氷を売り儲けたという話にとどまらず、医療や食品衛生に多大な影響を与え、人の暮らしを改善するまでに至った。そんな彼を、人々は「アイスキング」と呼んだ。
アイスキング、フレデリック・トゥーダー
アイスキング(Ice King)と呼ばれたフレデリック・トゥーダー(Frederick Tudor)は1783年9月4日、アメリカ・ボストンの裕福な家に3男として生まれた。父親ウイリアム・トゥーダー(William Tudor) (3)は、独立戦争時代にハーバードで法学を学び、第2代大統領のジョン・アダムス(John Adams) (4)にも師事、ジョージ・ワシントンの軍の法務を担当し、除隊後はマサチューセッツ州の行政や立法にも関わる一方、法律事務所も運営し、富を築いた。
兄達、そして弟もハーバード大学で学び、彼は成績も上々で、ハーバードで学ぶチャンスがあったにも関わらず、兄を詳らかに観察した結果、勉学に何の価値も見いだせないでいた。次兄のジョン(John Henry)を訪れたとき、彼のルームメイトのワシントン・オルストン(Washington Allston、後の画家・詩人) (6)の絵を描く服で部屋がひどく散らかっていたのを見て大いに幻滅したという。1793年にボストン・ラテン学校(Boston Latin School)に10歳で通い始めたが辞め、13歳時には父親がヨーロッパに滞在している隙に、商売の徒弟として勝手に働き始めた。成人した後も、彼は小柄で、体重も60キロほどしかない痩せ型の人物だったという。早熟で独立心が強く、好奇心に溢れ、先見の明がある反面、非常に感情的かつ頑固で、こうと決めたらとことんやり抜く性格だったともいう。彼のモットーは"I have so willed it"(私がそう望んだのです)だ。
さて、フレデリックは徒弟を数年勤めた後、一家の持っていた農場で自ら手を動かし、農業技術の開発をしながら、タバコや糖蜜の貿易などのビジネスも手掛けていた。この経験は、のちにアイスビジネスをする上で役に立つことになる (7)。
オムニパーカーハウスとディケンズについては、拙著を参照していただきたい。
17歳の時に次兄ジョンの怪我の療養で、ビジネスで関わっていたキューバのハバナに一緒に赴く。現地で兄が亡くなってしまい、ボストンに戻ったフレデリックは、父の友人であるサリバン氏(William B. Sullivan)のところで農作物や雑貨の貿易のビジネスに関わっていたが、21歳の時に、父親に独立してビジネスを始めるように言われることになる (12)。
アイスビジネス、始動す
こんな生活を送っていたフレデリックだが、1805年(22歳時)に人生の転機が訪れる。妹のエマ(Emma Jane Gardiner)の結婚後のパーティーで、長兄のウイリアム(William Tudor Jr.)が、飲み物の氷を指して「この辺りにはふんだんにある氷、これをカリブに送って売れば、暖かいところの人は欲しがるだろう、これをビジネスにしたら大儲けだな」とさりげなくいった。その頃、寒冷なアメリカ北東部のニューイングランド地方の裕福な家庭では、1-3月の冬季に氷を切り出し、倉庫にしまっておいて、夏に使うのは当たり前の習慣だった (13)。ただ、南に船で氷を運んだら溶けてしまうに決まっていると誰もが思ったし、また当時は、ジャマイカの第二次マルーン戦争(1795-1796年)やハイチ革命(フランスの植民地統治からアフリカの黒人奴隷の反乱、1791–1804年)など政情も不安定だった上、カリブの海賊や、各国の海軍などがうろつく南洋で2週間以上航海、貿易などは危険でできない、というのが常識だった。だが、フレデリックは、これに飛びついた。彼の中で何かのスイッチが入った。1805年8月1日に彼は日記帳を購入。彼はこの日から、後にアイスハウス日記(Ice House Diary)と呼ばれるようになる日記に行動や思考を全て綿密に記録し始めた。ここからも彼の人となりを伺うことができる (12)。
というわけで、このアイデアを出したのは実はフレデリックではない。兄のウイリアムは、フレデリックが大学に行ってないことを常に家族の恥と公言していたので、その兄からアイデアを取ったとも言えなかったのかもしれない。フレデリックは生涯「これは俺自身のアイデアだ」と主張していたという (12)。兄のウイリアムとの会話を聞いていた、エマの夫で義理の弟のロバート・ガーディナー(Robert Hallowell Gardiner)とは仲が良かったものの、彼がそのことを指摘したことを、生涯許さなかったという。いずれにせよ、これを境に彼は本格的にアイスビジネスに乗り出してゆくことになる。
タダの天然氷を湖沼から切り出し、船に載せる
ディズニーの「アナと雪の女王(Frozen、2015年映画)」は、湖より氷を切り出すシーンで始まる。
フレデリックは、このようにしてボストン周辺の湖沼から切り出した天然氷を、かんなクズに包んで船にのせ、目的地で倉庫(アイスハウス)で保管し、そこから売ろうと考えた。自分は積荷の管理をし、兄のウィリアムと従兄弟のジェームズ(James Savage)をカリブのフランス領マルティニーク(Martinique)に送って、現地のアイスハウスでの保管と顧客のリクルート(販売促進のため、最初にタダのサンプルを配布する人を募った)をさせることにした。フレデリックが最初からこだわったのは、氷の専売権だった (12)。おそらく、氷自体はありふれたものなので、自分が成功すれば他人が簡単に真似をしてしまう、というこのビジネスの本質を、成功する20年も前から見抜いていたのだろう。
兄と従兄弟にはフランス語の教養があり、専売権を確保したものの、ビジネスの才能がなかった上に、ジェームスは黄熱病にかかり、アイスハウス設置や販売促進は遅々として進んでいなかった。そうとも知らずフレデリックは、130トンの氷とともにボストン・チャールズタウンを1806年2月13日に出発。そして1806年3月5日、彼はこの最初の天然氷と一緒にカリブのマルティニークについた。
アイスビジネス、困難の船出
現地の人は、着く頃には氷なんぞ溶けてなくなっているだろうと思っていたが、かんなクズの断熱材はうまく機能し、氷は溶けずに運ばれていた!氷を見せると現地の人はようやく信じ、氷を配布することになった。アイスハウスの場所がまずく、結局船から直接販売する許可を得たが、氷を見たことのない現地人は渡された氷をどうしたらいいか分からず、水や塩に漬けるというようなとんでもない間違いをしてしまっていた。そこで、マニュアルをつけて(それも、毛布にくるめと言う簡単なものだったが)販売するに至った。フレデリックはこの最初の出荷に10,000ドルを投資したが、この最初の商売では氷を乗せてくれる船が見つからなかったため、4,750ドルは氷を載せる帆船代だった。氷を格納するために、木製のコンパートメントを改造して足したそうである。結局4,500ドルのほどの赤字を計上して、怒涛の初アイスビジネスは終わったが、彼はこのビジネスの行方に確信をもったであろう (12)。
1回目のビジネスの後、兄のウイリアムとジェームスを宗主国のイギリス、フランスに派遣し、カリブの国々で氷を売る専売権をまとめて得ようと、法的な準備を整えていくのと同時に、アイスハウスや断熱材の改良も進めていった (14)。フレデリックは、手広くビジネスを手がけてはいたが、語学の習得には熱心ではなかった。スペイン語の初歩的な会話程度はできたようだが、40歳の時のアイスハウス日記には、「他の言語を学ぶと、母国語に悪影響がある」とさえ記している。一方、淡水に塩水魚を飼ってみたり、白マツで紙を作ろうとしてみたり、アイスビジネス以外にもいつも好奇心は旺盛だった。1830年にニューイングランドで初めて蒸気機関車を使ったのも彼だ (15)。
その成果か、1807年には、改善されたアイスハウスの効果もあり、多少の利益を上げた。ところが、ここで大事件が起こる。ナポレオン戦争のあおりで、当時の大統領のジェファーソン(Thomas Jefferson) (16)は自国の商船の保護のために1807年12月にアメリカの輸出を完全凍結してしまう (17)。このビジネスへの投資のために彼自身も借金がかさんでおり、父や兄も不動産投機の失敗で家族も財政的には困窮し、彼を取り巻く経済的状況は悪い方向に向かっていた。フレデリックはしかし、このビジネスの成功を固く信じ、なんと言われようと自ら手を動かし、断熱材や保温の研究に注力していたという。彼は、おがくずを氷の間に挟む方法が高い断熱効果があることを見出していた。前回までの教訓から、現地でのアイスハウスによる保管が商売の鍵であることがわかったので、こちらのデザインも念入りに改善策を練っていた。
降りかかる困難の連続の中に、活路を見出す
1809年、輸出禁止令が解かれると、翌1810年、フレデリックはボストン近郊のフレッシュポンドやウォールデンポンドから切り出した天然氷240トンをキューバに送りだす。渡航先のハバナでは黄熱病にかかったが、改善されたアイスハウスは4月から9月まで氷を保管することができ、さらにスペイン政府より6年間の専売権を受けたこともあり、氷の商売は9,000ドルの利益を上げた。しかし、代理人が売り上げをチョロまかしたため彼には1,000ドルポッキリしか渡らなかったという。1811年には、彼のジャマイカ向けの氷を積んだ船が沈没し、父親は経済的援助を必要としており、フレデリックは穴埋めとして炭鉱ビジネスなどにも手を出しなんとかしようとしていたが、1812年3月19日、28歳の彼は負債者としてついに監獄に収監されてしまう (12)。
6ヶ月後、監獄から出たのも束の間、1812年、イギリスとアメリカは北米の植民地をめぐり1812年の戦争に突入、輸出はまたもや難しい時勢となってしまう。負債は増える一方で、債権者にしつこく追われていたフレデリックであったが、彼は諦めない。戦争が終結した1815年、ハバナでの専売権があと1年残っていた時、フレデリックはチャンスをつかむ。1,400ドルを氷の輸送とハバナのアイスハウスの予算に入れた2,100ドルをかき集め、11月1日ハバナに向けて出発する。ここ数年の自らの試行錯誤の成果として、おがクズ、かんなクズ、籾殻などを使用した断熱材が効果的で、アイスハウスのデザインも改善されており、スピードと効率を上げることができていた (17)。
天然氷は、切り出す人の人件費ぐらいで元値はタダ。当時、この地域の主要産業は材木であった。なので、断熱材のおがクズは、大量に出る産業廃棄物と考えられていたのでやはりタダ。この頃、ボストンに西インド諸島から来る船舶は、砂糖などの積荷をボストンで下ろした後は空になり、バランスをとるために石をバラストとして積んで戻っていっていた。天然氷をボストンから積荷として入れることは彼らにとっても都合が良かった。こんな条件で、フレデリックが安い運賃を交渉できたことが、ビジネスには有利に働いた。全てが画期的なビジネスだ。ハバナのコーヒーショップには、アイスクリームの作り方を教えた後、氷を売ったので、9割の売り上げはアイスクリームや冷たい飲み物関係だった。10年目にして、キューバへの積荷が儲かり始め、専売権も更新でき、商売はなんとか上手く回り始めたかに見えた (17)。
氷を使う文化を南国に拡げる
西インド諸島でのビジネスは、ハバナ以外では必ずしも楽ではなかったため、1816年、フレデリックは氷の販売先としてアメリカ国内に目を向け、サウスキャロライナ州のチャールストン、ジョージア州のサバンナ、ルイジアナ州のニューオリンズに新たに拠点を設けた。皮肉なことに、兄のウイリアムは、もともと作家志望であったが、金銭的なトラブルからバカにしていたフレデリックのビジネスに合流し、1820年からニューオリンズを任されることになる。ここでアイスビジネスは最大の収益をあげることになる。
フレデリックの偉大さは、人々の意識を変えたところにある。氷なしで普通に生活していた南国の人に、氷は贅沢品ではなく、当たり前の日常、つまり「氷は生活必需品」という意識改革をし、氷を売った点だ。彼は、バーを開き、バーテンダーに1年間、氷をタダで配布した。氷の保存法を教え、スマッシュなどのカクテルの作り方を教えた。1819年のアイスハウス日記には、こう書かれている。「同じ値段で1週間冷たい飲み物を提供されたら、2度とぬるい飲み物に戻ることはできなくなる」と (12)。そこで、人は、生ぬるい飲み物を飲むべきじゃない、という意識をまず植え付け、その後3年間かけて、冷たい飲み物の値段をだんだん釣り上げていった。これらの南部の州は、当時は奴隷州だったが、しまいには、奴隷達も普通に冷たい飲み物を飲むようになったのを見て、人の意識が完全に変わり、自分が成功したと確信したそうである。
1821年、ビジネスが好転し、ついにこれまで嵩んでいた借金を返済することができた。ここからはビジネスは上がり調子になる。今までは、南国からボストンに帰ってくると、債権者から逃れるために近郊のサンドイッチ市に逃げていたが、もはやそうする必要もなくなった。彼のビジネススタイルは完全なトップダウン。判断は素早く、部下は言われた通り、確実に仕事をこなさなければならない。また、細かい細部まで自分で管理するマイクロマネージングのタイプだったという。これがよく転ぶことも悪く転ぶこともあったというが、ついにここにきて成果を出し始めた (20,21)。
1923年、ナサニエル・ワイアット(Nathaniel Jarvis Wyeth)をビジネスパートナーに迎えたことがさらなる追い風となった。1826年、アイデアマンのワイアットはそれまで人力で行っていた切り出しを、馬力を使った氷切断機を発明し、切り出し効率が飛躍的に向上した。さらに1929年には、天然なら9-12インチの厚さにしかならない天然氷を重ね、ブロックを20インチほどに厚くする工夫が生み出し、輸送の効率を上げたのも彼だ。
いつまでも波瀾万丈なフレデリックの人生
1833年、彼の人生にはまだまだイベントが起こる。フレデリックは49歳、19歳のユーフェミア・フェンノ(Euphemia Fenno)と恋に落ち、翌年結婚する。今までビジネスに明け暮れた彼は、ここにきて経済的にも落ち着き出し、ようやく家庭を持てたのかもしれない。夫婦は、その後6人の子供に恵まれた (23)。だが、彼は結婚の計画を家族には秘密にしていたという。トゥーダー一族と彼の間には、軋轢があったことが、彼の手紙や日記から伺われる (24)。
フレデリックには、どうしてもトラブルがついて廻るらしい。1834年、前年からコーヒービジネスに乗り出し、大量の投資を始めるが、コーヒーの価格が暴落し、投資家の$210,000ドルを失った。彼はアイスビジネスで補填すると債権者に約束し切り抜けるが、この負債は、やがてインドの氷ビジネスで埋め合わなければならないことになる。そんなこともあり、1833年より、ボストンの商人サミュエル・オースチン(Samuel Austin)と組んでインドへの輸出に乗り出した (24)。しかし、今回ばかりは誰もが「できっこない」と思った。ニューイングランドからインドまでは船で4ヶ月はかかるし、赤道も2度通過しなければならない。氷なんぞ、溶けて跡形もなくなるだろうと。
フレデリックにしてみれば、氷保存の技術は確立しているし、インドにはイギリス人の人口も多く、氷を使う文化はすでにあるので、氷がありさえすれば売れるだろうと考えていた。ここでは、ヒマラヤなどから細々とした氷の供給はあったが、全く足りていなかった。暑い気候にも関わらず、氷は常に不足しており、医療用の氷の入手には医師の処方が必要であった。カルカッタのアイスハウスを建設する募金がされたぐらい、氷は切望されていた (25)。
インドで見出した活路とアイスビジネスの拡大
1833年、フレデリックは180トンのニューイングランドの氷を積み、4ヶ月、22,000kmの航海に乗り出した。2回灼熱の赤道を通過し、目的地のカルカッタに1833年9月6日に到着した時には、80トンは溶けたが、大きな需要がすでにあったことで、残りの100トンの氷をすぐに売りさばき莫大な利益を計上。イングランドの東インド会社を通して多くの免税措置を受けたこともあり、誰もが最初はジョークだと思っていたビジネスが、その後20年余にわたり莫大な収益を上げることになる。その後、ボンベイとマドラスにもアイスハウスを作り、インドでの氷ビジネスは拡大していった (25)。1834年にはリオに、1845年には香港にもアイスハウスを作りビジネスを拡張していった。1849年、14年かかってコーヒーの負債をついに返し切り、晴れて自由の身になったのである (24)。
彼の成功で、アイスビジネスの競争は激しくなっていった。1855年までにはニィーイングランドにはメイン州などに12の氷会社が生まれ、1856年には全体で150,000トンの氷を43カ国に輸出する大産業に成長していた (26)。1850年までに、ノルウェーやスウェーデンも氷を輸出し始めた。特に、イタリアのアルプスはインドに近く、厳しい競争相手となった。マサチューセッツ州の氷は近代化によって汚くなってゆき、切り出しの馬の汚物もあって質が落ちてくる。このため、この頃から氷の生産の中心はニューヨークに移ってきていた。
19世紀中頃からのボストンの製造業の発達については、以下の拙著を参照していただけると幸いである。
ニューイングランドの氷輸出量 / 年 輸出合計量(トン)(26)
1806 / 130
1816 / 1,200
1826 / 4,000
1836 / 12,000
1846 / 65,000
1856 / 146,000
取引先は、国内ではチャールストン、サバンナ、キーウエスト、ニューオリンズ、国外ではハバナ、ジャマイカ、カルカッタ、ボンベイ、シンガポール、マニラ、香港などに及んでいた (27)。
アイスキング・フレデリック・トゥーダーの功績
1864年2月6日、ボストンの邸宅でフレデリックは80年の生涯を閉じた。1200億ドルの遺産(現在で1兆9千億ドル相当)を残したそうである。尤も、彼の資産は、すでに競争の激しくなっていた氷のビジネスの価値というよりは、彼が買い付けた方々のアイスハウスの不動産によるものだったようだ。フレデリック・トゥーダーの話は、単に彼の儲け話になってしまうかもしれない。だが、当時の世界情勢、航海、通信技術を考えた時、インド、香港、サンパウロなど、当時としては大規模な世界的マーケットを築いたのは驚きといわざるを得ない。また、彼の業績は、食品衛生や医療を変え、食文化を変えたことにもある。氷によって、食品の保存が可能になり、食中毒が減少しただけでなく、食物の長期保存が可能になったことで遠方への輸出が可能になり、各地域の食文化を変えた(ただし彼自身の南国の果物の輸出は事業としては失敗している)。
医療においては、氷嚢を使い、熱を下げるなどの用途があるが、1837年に独立戦争で南部の綿の輸出が縮小すると、氷はアメリカの大きな輸出項目になったのと同時に、氷は戦争での医療に使われるようになった。ボストンはこの中心となったことから、彼はローカルビジネスの維持にも貢献したことになる。だが、南部の州が氷が北部より手に入りにくくなったため、製氷機の開発が進んだと言われている。1851年には、ジョン・ゴリー(John Gorrie)医師によって、製氷機が発明された。フレデリックは、人工氷は健康によくない、などのネガティブキャンペーンに投資もしたそうである (29)。
製氷機の本格的な普及は1920年まで時間がかかったので、氷の採取は20世紀の初頭まで続けられたが、やがてテクノロジーの進歩とともに終焉を迎えた (30)。氷がすでに食品や医療の分野で生活の一部となっていたため、新しい技術への移行もスムースであったと思われる。天然氷の役割は終わったが、氷を使う文化を日常に根付かせ、人々の生活を豊にしたのは彼の消えない功績だろう。