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アメリカ・ボストンに密集する近代プロスポーツの聖地〜ワールドシリーズ発祥の地と世界最古のアリーナ

ボストニアン(ボストンに住む人)は熱狂的なスポーツファンが多い。だから、ボストンのスポーツは熱い。スポーツの話題は職場でも私生活でも頻繁に出くわすので、これらを完全に無視して過ごすことは難しい。いや、できるが、できたほうが友好的な関係が築けるのは間違いない。19世紀末から20世紀初頭、ボストンは製造業で賑わう工業都市となり、娯楽としてのスポーツが花盛りだった。野球のボストン・レッドソックス(Boston Red Sox)のホームである、メジャーリーグ最古のフェンウエイパーク(Fenway Park、1912年開場)、バスケットボールのボストン・セルティクス(Boston Celtics)のホームであるTDガーデン(TD Garden、1995年開場)などが聖地としては有名だが、それ以外にも20世紀初頭由来の近代スポーツの聖地がここボストンにはある。そんな忘れられた?聖地を訪れてみたい。

アメリカの人気スポーツは?

アメリカの花形スポーツといえばアメリカンフットボールだ (1)。高校、大学のスポーツとしても日本の野球のように花形だ。この辺の大学生、高校生を見ていても、やはり学校でも人気があるのはアメリカンフットボールで、甲子園のように試合も盛り上がるし、スター選手もチヤホヤされる。

ジレットスタジアム(Gillette Stadium)。現在の建物は2002年に開場。ニューイングランド・ペイトリオッツ(New England Patriots)と、サッカーのニューイングランド・レボリューション(New England Revolution)のホームだ。
アメリカンフットボールの試合は熱狂的に盛り上がる。

職業柄、さまざまな国籍の人(スペイン、オランダ、フランス、ロシア、イギリス、ベラルーシ、中国、韓国、インド、マレーシア)が職場にいる。ワールドカップの盛り上がりを見れば一目瞭然かもしれないか、ワールドアトラスによれば、2024年現在、やはり世界共通のスポーツはサッカーということになっている (2)。他の国の人と話すときにはヨーロッパのリーグの話をすれば大体波長が合う。アメリカでもサッカーはジワリと人気が出ている (3)。

さて、野球はどうだろう。デジタル化時代の到来で、アメリカでの野球ファンの高齢化、野球離れなどが伝えられて久しい (4,5,6)。同様の傾向はアイスホッケーにも言える。野球に比べれば凋落傾向は小さいが、これはもともとファンが少ないからだろう。ファンは老いる傾向にある (7)。2018年のギャロップの調査だと、アメリカ成人のイチオシのスポーツは、アメリカンフットボールが37%、バスケットボールが11%、野球が9%、アイスホッケーが4%となっている (8,9)。野球は年々低下傾向にある。

ボストンの人気スポーツは?

だが、野球の人気はボストンでは依然として高い。ニューヨークなどの超巨大都市と違い、ボストンにはメジャーリーグのチームはレッドソックス1つしかなく、この地域(ニューイングランド)の大切なチームだ。また、アイスホッケーのボストン・ブルーインズ(Boston Bruins)も熱狂的なファンが多く、ファンベースが小さいとはいえ、私の周囲でもアイスホッケーファンは最も熱い人たちで構成されている。2023年のボストンのイチオシのチームの調査では、ニューイングランド・ペイトリオッツ(New England Patriots、アメリカンフットボール)が43%、レッドソックス(野球)が30%、ブルーインズ(アイスホッケー)が10%、セルティックス(バスケットボール)が7%、なので、野球とアイスホッケーの比重が他の地域より高い(10)。

アメリカ全体としては、動員数、ファン数ともにニューヨークヤンキース(New York Yankees)が1番であるが、それはニューヨークの人口が圧倒的に多く、ヤンキースタジアムが大きいからだ。ニューヨーク市近郊の人口は1800万人ほどで (11)、ヤンキースタジアムの収容数は50,287 (12)なのに対して、ボストン近郊では490万人ほど (13)、メジャー最古のフェンウエイパークの収容数は37,755 (14)と、圧倒的に違う。この要素を考慮すると、実際のところメジャーリーグで最も人気があるのはレッドソックスであると言われている (15,57)。

フェンウエイパーク

ボストニアンにとって、フェンウエイパークは聖地だ。左翼に聳え立つグリーンモンスター(Green Monster)や不規則な球場の形が、慣れない相手チームを悩ませる。1912年開場以降、現在もレッドソックスのホームとして使われており、創設まもないニューイングランド・ペイトリオッツも1960年代に使用していたこともある。ベーブルースがピッチャーとして1919年まで活躍したり (16)、最後の4割打者と言われるレッドソックス伝説のスラッガー、テッドウイリアムズなどがプレイした伝統ある球場で (17)、日本の誇る二刀流、大谷翔平選手が「プレイするのを楽しみにしていた (18)」球場だ。人気の証左として、レッドソックスの試合は、2003年5月15日から2013年4月10日まで、近代プロスポーツでは最も長い820試合チケット連続完売の記録を持つ (19)。

2022年5月5日、試合前にブルペンでウオーミングアップする大谷翔平選手。

フェンウエイパークはファンと選手の距離が近い球場であることも知られる。

開場前のフェンウエイパーク。1912年開場時のレンガ建の構築が残っている。
古い球場のため、座席が狭い他、席によっては柱が視界を邪魔する可能性があるため、チケット購入時には座席の視界を確認してから購入しなければならない。グランドスタンド(外側の席)は、昔ながらの樫の木でできている。古い球場のため、座席が狭い他、席によっては柱が視界を邪魔する可能性があるため、チケット購入時には座席の視界を確認してから購入しなければならない。グランドスタンド(外側の席)は、昔ながらの樫の木でできている。

TDガーデン

アメリカ北東部のニューイングランド地方では、その寒冷な気候もあり、アイスホッケーの競技人口も多い。北米のプロリーグNational Hockey League (NHL)は1917年にカナダの4チームで創設されたが、1924年に創設されたボストン・ブルーインズも1926年までにはNHLに加わり、以降数十年プロリーグを構成した6チーム(オリジナルシックスと言われる)に数えられる伝統あるチームだ。2024年に100シーズン目を迎えた。現在でも、カナダのモントリオール・カナディエンズ(Montreal Canadiens)やトロントのメープルリーフス(Tronto Meple Leafs)とライバル関係にあり、試合も非常に盛り上がる (19)。

ファンの層も、老若男女に広い。
アイスホッケーの熱狂的なファンは健在だ。

現在のブルーインズのホームであるTDガーデン(1995年開場)の場所には、昔ボストンガーデン (Boston Garden, 1928年11月17日開場)という名物アリーナがあり、これは主にボクシングに適したように建てられていた室内競技場だった。ジョン・F・ケネディのラリーが1960年に開催されるなど、多目的アリーナだった (20)。この昔のボストンガーデン、特徴的なのは、「空調」がなかったこと。ブルーインズの試合の際には氷上に霧が立ち込めていたという。バスケットボールのセルティックスはNBAで17回と最多のチャンピオンシップを誇るが、ボストンガーデンの劣悪環境がホームチームを有利にしていた。相手チームのロッカールームのお湯を止めたり、暖房をわざと上げたりして、相手のコンディションの妨害行為をしていたのだ (21)。1984年6月8日のNBAファイナルでの対レイカーズ戦では、気温36度に達し、審判が気絶したり、虚脱したレイカーズの選手には酸素が与えられたりしたという (22)。ここも、ボストンファンの熱狂さで世界に知られるアリーナだった (23)。建物は変わったが、今も熱いスポーツ愛の伝統は引き継がれている。

TDガーデン。右の端はZakim Bridgeで、国際色豊かなボストンを表す意味で船のマストをモチーフにした陸橋になっている。
ボストンガーデンは1995年に現在のTDガーデンに建て替えられたが、ボストンガーデン時代のボクシングリンクの中心地を示す印を入り口に見つけることができる。
"ボビー"・オア(Robert Gordon "Bobby" Orr)はカナダ出身で、ブルーインズの黄金期を支えた選手。史上屈指の好選手の呼び声も高い。ポジションはディフェンスだが得点力もあり、2度のポイント王タイトルを獲得している。1970年5月10日、スタンレーカップゲーム4で、ホッケー史上最も有名なオーバータイムでのゴールを決めて勝利した時の写真はTDガーデンの入り口に置かれている銅像のモチーフになっている (58)。
イタリア人街ノースエンドの入り口にあるボクサーTony DeMarcoの像。かつてボストンではボクシングが盛んだった。今でもボクシングジムが多数近辺で活動している。

近代スポーツの夜明け、19世紀末のボストン

今では想像できないが、1900年ごろ、ボストンはアメリカの製造業、特に繊維工業の中心地で、最も活気があった頃だ。1790年に18,000だった人口は、1920年には748,000人となる(1920年のアメリカの人口は1億人ほど)。1790年には総人口の4.7%がボストンに住んでいたが、1880年には7.2%に到達し、ボストンに人が集まってきていた (24)。食料や原材料搬入、市内や近郊の工場で生産された製品を鉄道で輸送するため、現在のTDガーデンのあるノースステーションの周辺は家具などの倉庫が並んでいた。いうまでもなく、アメリカの産業構造の変化により2024年では製造業や倉庫は今や完全に0だ。ここにかつてあったノースユニオン駅は当時アメリカで最も混雑する鉄道駅だった (25)。

ボストンのノースステーション。TDガーデン(右の建物)の地階に鉄道駅がある。左のレンガ造りの建物はかつて倉庫だった。今ではホテル、銀行やアパートになっている。

多数のブルーカラーの労働者の娯楽は、「スポーツ観戦」。テレビもネット配信もないので、チケットを買い実際に観戦するので、スポーツの試合は盛りに盛り上がった。特に、野球、ボクシング、アイスホッケーの人気が高かった。ボストンの人口はその後も増え続けていくが、1950年代をピークにだんだん下降してくる。製造業はコストの高いボストンから他の都市に移ってゆき、やがてアメリカ全体の製造業は中国をはじめとした諸外国に次第に移転して行き、アメリカ全体の産業の空洞化が進むと同時に、ボストンの人口も減少期に入った (26)。

2000年前後より、アメリカではバイオテックが一大産業として成長してきたのに合わせ、ボストンではもともとあったハーバード大学やMITなどの学術と融合し、スタートアップエコシステムが形成され、現在のボストンはバイオテック企業を中心とした医療研究の中心地に変貌を遂げ、ボストン近郊には多数のホワイトカラーの人材が住むようになっている (27)。

ボストンに佇む3つのプロスポーツの聖地

アメリカプロスポーツ黎明期の1920年代、活気溢れるボストンには野球のレッドソックスとボストン・ブレーブス (Boston Braves)、アイスホッケーのブルーインズがあった (28)。フェンウエイパーク、TDガーデン以外に、これらのチームに関連した野球、アイスホッケー、バスケットボールの聖地がボストンにはある。しかも、その聖地のうち2つは1つの大学が所有している。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地が密集するエルサレムではないが、スポーツの聖地が密集する場所が確かにここにある。筆者は仕事柄この近くを通過する機会が多い。フェンウエイパークやTDガーデンに関しては、すでに多数の方々がカバーされているので、ここでは他の聖地を紹介してみたい。

1. ハンチントンアベニュー・グラウンド (ワールドシリーズ発祥の地)
2. マシューズ・アリーナ (世界最古のアリーナ)
3. ブレーブス・フィールド (当時世界最大の球場)

1. ハンチントンアベニュー・グラウンド (Huntington Avenue Grounds)
400 Huntington Ave, Boston, MA 02115

19世紀後半にそれまで様々な形態で存在していた野球のプロリーグを整理し、ナショナルリーグが1876年、アメリカンリーグが1901年に創設され、両者の協定で正式にメジャーリーグが発足したのが1903年だ。これを受け、アメリカンリーグに現在のレッドソックスが1901年に創設された(1908年まではボストンアメリカンズというチーム名だった)。レッドソックスのホームとして1901年に建設され、1911年までそこにホームが置かれていたのが、ハンチントンアベニュー・グラウンドだ (29)。初期は9,000人ほど、その後17,000人程度の収容人数があったという (30)。

それまでも「世界一」を決めんとするワールドシリーズは存在していたが、1903年、両リーグを勝ち進んだチームによる直接対決という現行のワールドシリーズが初めて開催されたのがここだ。アメリカンリーグ1位だったのが、現在のレッドソックスだったため、ナショナルリーグ1位のピッツバーグ・パイレーツとここで初めてのワールドシリーズが開催されるに運びとなった。現在は7回戦の4先勝だが、1903年は9回戦、5先勝なので結局8回戦まで行なわれた。1912年、レッドソックスのホームはフェンウエイパークに移動したため、このグラウンドは1934年には解体され、現在ではノースイースタン大学(Northeastern University)に1954年に購入され、この大学の学内施設が置かれている (31)。

1903年、ハンチントンアベニュー・グラウンドでのワールドシリーズ。Wikipediaより引用 (39)
ハンチントン・アベニュー沿いのかつての左ファールラインには、ノースイースタン大学の室内運動施設(Cabot Center)が建てられており、その外壁にはハンチントンアベニュー・グラウンドがあったことを示す記念銘板が掲げられている。

当時のレッドソックスには、最強のプレーヤー、サイ・ヤング(Cy Young)が所属しており、1903年の初ワールドシリーズでも3回の登板をしている。第1試合に登板しているので、つまり初めてのワールドシリーズで初めてのピッチをしたのが彼だ。彼の本名は、デントン(Denton True Young)だが、サイとは、サイクロンのようにピッチがうなりをあげていたことからくるニックネームだ。彼は、セントルイスやクリーブランドのチームにしばらく所属していたが、1901年新設のボストン・アメリカズ(レッドソックス)に加入した。彼はすでに34歳であったが、その年から3年間最多勝利投手となり、レッドソックスの黄金期を支えた。1908年を最後にクリーブランドに移籍、1911年に45歳で引退を迎えるまで、815試合に先発、749試合を完投、511勝を挙げ、この最多勝利の記録はいまだにメジャー歴代1位の記録となっている (32)。

ちなみに、登板が異様に多いので、負け数も歴代最多の316だ。1901年から1908年までのレッドソックス時代には、36から45試合に登板し、13から33勝と驚異的な成績を残している。1901年のシーズンは4月18日から10月6日の172日間に140試合が開催されたが、このうち43試合371.1イニングに登板している。1908年には4月14日から10月14日の184日間の154試合のうち、36試合で299イニングを投げている。この数字から、ざっと計算すると大体中3日で登板、登板すれば8回半(ほぼ完投)ほどを「毎年故障もなく」投げ続けていたことになる。防御率は1901年の1.62を筆頭に、大体2前後で高くても1906年の3.19なので、驚異的なピッチャーといえよう (33)。この偉業を讃え、彼の死の翌年の1956年、最優秀ピッチャーに送られるお馴染みのサイ・ヤング賞が制定された。

クーパーズタウンのアメリカ野球の殿堂にあるサイ・ヤングの肖像。1937年に野球の殿堂入りした。ニューヨーク州クーパーズタウンにある野球の殿堂に掲げられるサイヤングの肖像。188センチの高身長だ。

さて、そんなエキサイティングな1903年の初ワールドシリーズだが、それを記念したスペースが大学内にある。ハンチントンアベニューからCabot Centerの角を曲がると、ワールドシリーズウェイ「World Series Way」という標識にあたる。

ワールドシリーズウエイを示す標識。
少し奥に入っていくと、小高い芝生スペースがある。

そこを少し奥に入っていくと、かつてのホームプレート、ピッチャーマウンドの場所が小高い芝生となっており、周囲にはベンチがおいてあり学生たちがリラックスできるスペースになっている。かつてのピッチャーマウンドには、初めてのワールドシリーズで初めてのピッチを投げたサイ・ヤングの銅像が立てられている。

職場のインターンのノースイースタン大の学生に尋ねてみたが、このサイヤング像は、スポーツファンの学生でも大体知らないようだ。

かつてホームプレートのあった部分には刻印とともに石のホームベースが埋め込まれている。この銅像、芝生スペースと道は、初めてのワールドシリーズを記念して1993年に整備され、設置された (34)。

ホームプレートより、サイヤング像をのぞむ。
ホームプレートには、最初のワールドシリーズを記念した銘板が置かれている。
ここでワールドシリーズが行われたことを説明する記念碑が立てられている。

大学といても、柵があるわけではなく、地下鉄の地上部と道路の走るハンチントンアベニューの脇にある建物群の間にあるため、誰でも訪れることができる。1903年当時、この周囲には主に工場や倉庫が立ち並んでいたが、かつて小澤征爾も指揮していたボストンシンフォニー(The Boston Symphony Orchestra) (35)のシンフォニーホール、ニューイングランドコンサーバトリー(New England Conservatory)のジョーダンホール (36)など今も残る著名な建物はすでに存在していたので、当時の様子を少しのぶことができる。

ニューイングランドコンサーバトリーのジョーダンホールを超えると、次の聖地マシューズ・アリーナが見える。
ハンチントンアベニューを上がってゆくと、ボストンシンフォニーの煉瓦造りの建物がある。マシューズ・アリーナはそのすぐそばだ。

2. マシューズ・アリーナ (Matthews Arena)
238 St. Botolph Street, Boston, MA 02115

さて、上に紹介したハンチントンアベニュー・グラウンド跡地のすぐ近くにあるのが、現役で使用されている多目的室内競技場としては「世界最古」のマシューズ・アリーナだ。人工氷のアリーナとしても世界最古。1910年にボストン・アリーナ(Boston Arena)として開場している。それまで、寒冷なカナダやニューイングランドでは、外の凍結した湖や沼など屋外でアイスホッケーをするのが主流だった。この頃、カナダや一部のアメリカの都市では既にアイスホッケーの室内への移行が始まってきていたが、ボストンにもその流れが来た頃に建てられた初めての屋内競技場だ。現在は、1979年にノースイースタン大学がアリーナを購入し、大学アイスホッケーとバスケットボールのホーム施設として使用している他、コンサートなどのイベントにも使われている。何回ものリノベーションを経ており、内部は快適だ。バスケットボールで5,066、アイスホッケーで4,666が収容できる (37)。

入り口のレンガ造りのアーチは、昔のボストン・アリーナ時代のアーチを包むように建てられている。
1920年のアリーナ。Wikipediaより引用 (38)。
アーチの入り口。1985年にリノベーションの資金援助をした卒業生マシュー夫妻の名前が冠されている。
アーチを抜けると、昔ながらの木製チケットカウンターをすぎ、19世紀の工場を彷彿とさせるデザインが保存されている廊下にあたる。

開場してしばらくは、大学や高校のアイスホッケーの試合、ボクシングの試合の他、プロのアイスホッケーの試合もカナダのチームをホストして行われていた。2024年に創設100年を迎えたボストン・ブルーインズは、創設時にはここをホームとし、1924年12月1日に最初のレギュラーシーズンの試合をここ行っている。1928年以降はボストンガーデン(現在のTDガーデン)をホームとしている (40)。キャロライナ・ハリケーンズ(Carolina Hurricanes)の前身であるニューイングランド・ホエーラーズ(New England Whalers)も、ここに1971年から1974年までホームを持っていた。また、1946年創設のボストン・セルティックスもここをホームとして活動を開始し、1955年にボストンガーデンに移転している (41)。今のメジャースポーツのメジャーなチームのホームがいくつも置かれていたわけである。

大学の中にあるため、授業が終わったらすぐに見に行くことができる。
学校の帰りに、アイスホッケーを熱く観戦する学生たちが羨ましい。

応援は熱狂的だ。

2021年11月の対ハーバード大学戦。試合前には国家の斉唱が行われる。
2021年11月の対ハーバード大学戦。ノースイースタン大学は現在では大学ホッケーの強豪だ。

職場でインターンをしているノースイースタンの学生に聞いたところ、たまにアイスホッケーは応援しにいくが、最古のアリーナだとは知らなかったという回答がほとんどではあったが、長い歴史と伝統、それにまつわるエピソードを持つアリーナでプレー、観戦ができる学生たちが羨ましい限りだ。

3. ブレーブス・フィールド (Braves Field)
1010 Commonwealth Ave, Boston, MA 02215

現在、アトランタで人気の高い球団アトランタ・ブレーブスも、元を辿るとボストンブレーブス(Boston Braves)として1871年から1952年まではボストンに本拠地を持つナショナルリーグのチームだった。1871年より継続的にプレーしている伝統あるメジャーリーグのチームはブレーブスだけで、1871年にレッドストッキングス(Red Stockings)として創立され、その後81年間ボストンでプレーすることになる(42)。レッドストッキングスは、1871年より上記のレッドソックスのハンチントンアベニューグラウンドと線路を挟んだ向かいにあった、サウス・エンド・グラウンズ(South End Grounds)をホームとしていた。1901年にレッドソックス(当時はボストンアメリカンズ)が創設されると、ボストンはメジャーリーグの2チームを抱えることになる (43)。

1912年にはブレーブスの名前になっていた球団も、1912年のレッドソックスの新球場(フェンウエイパーク)に触発され、1915年にここブレーブスフィールドを開場し、新しいホームとした。フェンウエイパークから北東に1.5キロほどの場所にある。鋼鉄とコンクリートをふんだんに使った大規模な野球場で40,000人を収容したという。当時としては、アメリカ(つまり世界)で最大の球場だった (44)。

1915年のブレーブスフィールドのオープニングデー。ウィキペディアより引用 (45)。

このフィールドはフェンウエイより収容人数が多かったため、レッドソックスが1915、1916年のワールドシリーズに借りて使用している。このワールドシリーズには、ベーブ・ルースも出場しており、2回ともレッドソックスが勝利、黄金期を迎えていた。1948年には、ボストンブレーブス自身のワールドシリーズのホームゲーム3試合が開催されている(ボストンブレーブスが敗北)。

レッドソックスよりヤンキースに1919年にトレードされたベーブ・ルースが現役最後の1935年にプレーしたのもここだ。他にも1936年のオールスターゲームや、メジャーリーグで最も長いイニングの試合(26イニング)である1920年5月1日のブルックリンロビンスとの試合もここで開催された。この試合では、今では考えられないが、双方のスターターが300球以上完投したが勝負がつかず1対1で引き分けた。高いフェンスがあること、すぐ近くにチャールズ川がありセンターに向かい風がいつも吹いていて、ホームランが非常に出にくい球場だったこと、ファールグラウンドが非常に広くピッチャーに有利な球場だったことなどが、これらのエピソードに絡んでいるのが面白い (42, 44)。

また、現在NFLのワシントンコマンダーズは1932年にボストン・レッドスキンズ(Boston Redskins)として創設され、ここにホームを置いていた(1933年にフェンウエイに移転)。他にもペイトリオッツを始めとしたいくつかのアメリカンフットボールのプロチームが短期間ではあるがホームを置いていた (46)。

ボストン・ブレーブスは1952年ミルウォーキーに、その後アトランタへと移転してゆく。1952年当時、メジャーリーグは10の都市に16のチームがあったが、大きい球場を抱えるブレーブスの移転は人々を驚かせたという。1946年には観客総動員数で100万人を超えたブレーブスだったが、1950年よりボストンの人口減が進み、人気の点でもレッドソックスに水を開けられ始め、ファンの動員数が減少してきたことから、オーナーが移転を決意したと言われている。開設当時はBoston & Albany Railroadという鉄道の横にあり、地下鉄開通後も交通の便には恵まれ、近くを走るコモンウェルスアベニューは「ボストンの5番街」とも呼ばれていたが、車社会に移行し、ボストンの製造業の衰退とともにビジネスとしても落ち目になっていった (47)。

ブレーブス転出後は、1953年にボストン大学(Boston University)がこの球場を購入した。1955年に解体され、現在ではニッカーソンフィールド(Nickerson Field)と呼ばれる多目的の屋外競技場として、ラクロスやサッカーの大学チームによって使われている (48)。オリジナルの建造物のうち、壁の一部が競技場の一部として、また特徴あるチケットオフィスの建物はボストン大学警察が使用しており、今も残されている。かつて客席だった部分は、大学の寮が立てられているが、かなりの部分はかつて客席があった配置そのままに現在の競技場の観客席が置かれており、ブレーブスフィールドの遺構が残されている貴重な競技場でもある (49)。

グランドは広く、昔の観客席のあった場所には現在の客席が設置されている。
入り口にあるブレーブスフィールドの記念銘板。1988年に設置された。
ブレーブスフィールドウエイという道をはいると競技場だ。
特徴あるかつてのチケットオフィスには、ボストン大学警察が入っており、現在でも使用されている。
昔の客席の跡地の一部は大学の寮が建てられている。
夕刻には、大学生が寮に戻ってくる。

ボストンスポーツの余韻

ボストンのファンは熱い。筆者はフェンウエイパーク、ヤンキースタジアムで数多くの試合を見てきたが、音量からいったら収容人数の圧倒的に多いヤンキースタジアムが上だ。ただ、観客の試合への注目度、野次のおおさはボストンに勝るところはないであろう (50)。また、ボストンはファンの目が厳しく、大金で契約した選手のパフォーマンスが悪いと批判される、選手にとっては厳しい都市でもある (51)。

20世紀の初頭、さまざまな熱狂的ファンがいた。イザベラガードナー美術館(Isabella Stewart Gardner Museum)(52)で有名なイザベラ・ガードナー夫人も(変わり者で)熱狂的なレッドソックスファンだったという。フォーマルなボストンシンフォニーのコンサートに、「Oh, you Red Sox」という赤い文字を入れた帽子をかぶって登場し、ゴシップ記事になってしまうほどであった (53)。現在はやっていないようだが、かつてイザベラガードナー美術館にレッドソックスグッズをきてゆくと、割引になるという制度があった (54)。夫人は1912年のワールドシリーズをまめにフォローするなどしていたらしく、日記などが詳細に残されている (53)。

通称「ナフ・セッド(Nuf Ced)」とあだ名されるマイケル・マグリービィ(Michael T. McGreeby)はローヤル・ルーターズ(Royal Rooters)と呼ばれる熱狂的なファン団体を率いており、レッドソックスの試合に毎回出没し、ブロードウェイ・ミュージカルで歌われていた「Tessie」という曲を相手のチャンスやピンチに合わせ大音響で演奏、ダグアウト上でアイリッシュダンスを踊るなどしていた。この行為は敵チームの注意を逸らすのに相当効果的だったようだ。1903年のワールドシリーズでは、彼らがピッツバーグまで遠征し熱烈応援したため、4戦中3勝とレッドソックスが不利なはずのアウェーの試合で華々しい成果を挙げることとなった。相手チームは、「これじゃうるさくて何も聞こえない」と不満を漏らしていたそうである (54)。この「Tessie」はドロップキック・マーフィーズ(Dropkick Murphys)がアレンジし、現在でもレッドソックスが勝つとフェンウエイパークで流される (55)。彼の営業していたレッドソックスファンの集う三塁サロン(Third Base Saloon、1894年開業)に由来するスポーツバー「マグリービィズ(McGreevy’s)」は、ドロップキックマーフィーズのメンバーによって、2008年よりボストンバックベイで営業していた。中は、三塁サロン同様、レッドソックスにまつわる記念品や写真の展示で別世界、ファンにとっては天国のような場所であった。が、残念ながら、パンデミックの最中に経営上の問題で2020年に閉鎖されている (56)。

マグリービィズ(McGreevy’s)はかつてボストンバックベイの911 Boylston Streetにあり、人気のスポットであったが、残念ながら閉鎖された。

現在でも、ボストンのファンは熱狂的なものの、ホワイトカラー系の人材の増加により「スポーツ都市」というイメージは薄れてきている。1950年代以降の人口減少、ブレーブスの転出などを経て、スポーツはアメリカ全体に広がっていったが、ボストンのスポーツは希釈された。かつて集中していたスポーツのメッカという雰囲気は失われているのかもしれないが、まだまだ熱いボストンファンは相当数健在で、その伝統は脈々と引き継がれている。

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