可能なるコモンウェルス〈26〉

 あらためて、人民主権を基盤とする近代民主主義国民国家が実際に形成されるに到る、その原動力となったものとは何であったかについて考えてみると、それこそまさにブルジョワジーを中心とした市民階級の存在と、彼らが中核的役割を果たして成立した市民社会だったのだというように、ひとまずは言っておいて差し支えはあるまい。そしてこの前提に立ってはじめて、「一般民衆=デモス」は「国民=ネーション」となり、彼らが構成する「国家=ステート」が「ネーション・ステート」と呼ばれうるところのものとなっていくわけである。
 ネーション=国民は、「市民階級だけ」ではけっして構成しえない。いくらその階級が層を分厚くして、数的・領域的に際限なく増大しようとも、彼ら以外の階級を含めた全ての人民が「国民」として共同化するのでなければ、その国家は「国民国家」とはなりえない。
 もしも市民階級が、ただ単に彼ら自身の階級の増大をもって「国家機能のヘゲモニー」を握ろうとすれば、それは必然的に「その他の階級との対立」を生み出すことになるだろう。いや、むしろ「階級」というものはまさしく、そのような対立においてこそはじめて見出されるものなのである。しかし一方で、そのような対立がより激しさを増していけば、下手をするとせっかく彼ら自身の手でようやく構築するに至った「国家そのもの」が、空中分解を起こしてしまうような危険さえ生じてくる。
 そのような危険性は、実際市民階級自身においても、事前にわかっていたことなのであった。そこで彼ら市民階級がとった、そのような階級対立を解消する手段とは、一体どのようなやり方であったのか。
 ブルジョア市民階級が選択したのは、彼ら自身が帰属する階級が増大し、その「数」をもってヘゲモニーを掌握しようという、いわゆる常套手段的な「力による独占的国家支配」という単純な手法ではなかった。むしろ彼らの帰属階級が醸成したある種の共同性、言い換えればその帰属する階級=人間集団固有の「イデオロギー」を、他の階級の「内部」に向けて溶かし込んでしまい、それによって彼ら自身の階級の「独自性」を解消してしまおうというような、ある種逆説的な方法なのであった。その主要な手段として取られたは、彼ら市民階級独自の生活様式が、彼らの「階級的独占」によるものであることを放棄し、国民全体に浸透する「一般的な生活様式」として、全ての人民=国民の生活の中に溶かし込んでいくという、これまたアクロバティックなやり方だったわけである。
 そしてこの、ブルジョア市民階級による逆説的な「階級闘争」において用いられた武器とは何であったかについては、もはやあらためて言うまでもない。それ自体としては何でもないがゆえに何にでもなることができ、それにより何とでもつながることができる「経済」であり、その主要な装置となる「貨幣」である。

 貨幣とは、それ自体としてはどのような「階級的特色」も持っていない。全ての人民=国民が「自分のものとして使用することができる」からこそ、それは全ての人々の間において流通しているのである。そして、全ての人々の間を行き交っているからこそそれは、全ての人々をつなぎ結びつける手段となる。そんな貨幣において互いにつなぎ合わされ、相互に結びつき合って成立している、経済的社会関係の共同性とは、それ自体としては何の色も持たないがゆえに、誰とでも共同化できる共同性として成立しているわけなのだ。
 さらに言うと貨幣とは、基本的に「国家が発行しているもの」である。貨幣において全ての人々がつながれ結びつくということは、「全ての人々が国家につながれ結びつく」ということでもある。
 また貨幣は、それを発行する「国家ヘの信用」にもとづいて流通し、使用される。つまりそれが全ての人々の間に流通し使用されるということは、「国家への信用が、全ての人々の間に流通している」ということにもなるのだ。

〈つづく〉

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