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「舟を編む」 三浦しをん


「どんなに少しづつでも進みつづければ、いつかは光が見える。」



「舟を編む」 三浦しをん


言葉とは、いったいどういうものなのでしょうか?


人に何かを伝えるとき、使用している手段ではありますが、特段、「言葉とはいったい何なのか?」なんて大仰なことを日常考えてはいません。


言葉はあくまでもツールであると認識していますが、使い方によっては、人を大いに喜ばせたり、感動させたり、反対に大いに傷つけたり、人を死に至らしめる凶器になったりもします。


いずれにせよ、言葉は大いなる力を秘めたものなのです。


そんな言葉の真髄に迫った辞書作りの現場の物語、「舟を編む」


大手出版総合会社「玄武書房」営業部の馬締光也(まじめみつや)は、辞書編集部の荒木公平に目をつけられました。


「辞書向きの人材」だと。


荒木は定年のため、最後の大仕事を辞書編集部に向いた人材探しのために力を注ぎました。そうして、馬締光也を辞書編集部に引き抜きました。


荒木は馬締の才能に惚れこみます。


馬締の言葉に対する鋭い感覚や律義さ。
それは辞書づくりのためにあるような才能だと。


名前のとおり馬締は、律義でドがつくくらいにマジメなんです。下宿しているアパートは本だらけ。辞書をつくる仕事は、まさに天職といっていいものでした。


僕はこの本を読むまで「辞書づくり」というのは、出版社の花形じゃないかと思っていました。でも全然そうではないのですね。いつも辞書編集部は存在が危機に瀕しています。


実際


辞書づくりの現実は、莫大なお金と膨大な時間がかかるのです。


だから


辞書編集部は人が少ない。「こんなに人が少なくて、あんなに分厚い辞書を作れるの?」と驚きました。


辞書編集部社員は


馬締と辞書づくりに不向きなチャライ感じの西岡。あまり愛想はよくないけど、実務能力の高い女性の佐々木さん。あとは、監修の松本先生と常駐ではありませんが荒木も引き続き辞書づくりに加わります。そのような、たったの5人だけなのです。


玄武書房の新しい辞書の名称「大渡海」の完成に向けて、5人は「言葉の海を渡る舟」を漕ぎだしました。


馬締は大学の頃から「早雲荘」というアパートに下宿しています。近頃は下宿がはやらないのか、空き部屋が増え、今は大家さんのタケおばあさんと二人で住んでいます。


馬締が辞書編集部に異動したあとくらいでしょうか。タケおばあさんが高齢だということで、心配した孫の香具矢(かぐや)が一緒に早雲荘に住むために越してきました。香具矢は、女性の板前で修業中。満月の夜に生まれたので名前が香具矢なのだそう。


馬締は香具矢を見て、ひと目惚れしてしまいます。


仕事に来ても、西岡にツッこまれるほどボーッとしています。眺めていた辞書のページが 


れんあい【恋愛】


ここでも自分の気持ちと同期した言葉を考察していたのです。

れんあい【恋愛】 特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。


そこにチャらい西岡がやってきて、馬締を茶化しますが

「たしかに個性的な語釈ではありますが、恋愛の対象を『特定の異性』に限ってしまうのは妥当でしょうか」


と馬締は言います。


馬締は、「れんあい」の用例採集カードに「外国の辞書も調べる」と記すのでした。自分の感情も含めて、馬締は辞書や言葉にすべてを捧げていました。


馬締は、香具矢を前にすると言葉が出てこなくなってしまいます。


口では言えないなら、文章にすればいい。


馬締は恋文を書くことを思いつきました。その日の仕事を超特急で終わらせて、便箋に向かって唸っていたところ、チャラい西岡が隣で見ていました。


「堅いんだよ、まじめは。企業のお詫び広告だって、そこまでしゃちほこばってないぞ」


たしかに冒頭から堅いし、漢文まじりだし、ラブレターというのかどうか。


午後八時をまわって、恋文は完成。


馬締は、西岡の席に恋文を置いて「講評をお願いします」とメモを付けて会社を出ます。どんだけ、律義なのか。


翌日、恋文を読んだ西岡は


「いいんじゃない? ズバーンと香具矢ちゃんに渡しちゃえよ」


と笑いをこらえるように馬締に言いました。


馬締は、深夜に帰ってくる香具矢を待って恋文を渡します。


「俺の気持ちです」


それから一週間経っても、香具矢からの返事はありません。香具矢はラブレターなのか、なんだかわからなかったのです。


馬締の「お返事をいただきたいのです」という言葉に、ようやく彼の想いに気づいたのでした。


「ところで、次からはもうちょっと現代風のラブレターにしてくれる?解読に時間がかかってしょうがないから」


と言われる始末。


でも


「あんなに丁寧で思いのこもった手紙をもらって、来ないわけにはいかないでしょ」


馬締は香具矢と結婚し、ますます辞書編集に邁進していきます。


反対に西岡は自分に迷っています。馬締の辞書や言葉に対する熱量や才能に劣等感と羨望が入り混じります。そんなときに宣伝広告部に異動を告げられたのです。その現実に辞書編集部や辞書づくりの仕事が自分にとってかけがえのないものだったと気づくのです。


西岡はその感情を、自分のあとに辞書編集部に入ってくる人に託します。 (入ってくる可能性は低いにもかかわらず)それだけ辞書の仕事に未練がありました。


西岡自身の仕事の蓄積、築いてきた人脈、それらの人への対処の方法などを「㊙辞書編集部内でのみ閲覧可」ファイルとして残して置きました。余計なことに馬締が講評を依頼した「恋文のコピー」もいっしょに。


そんな西岡の願いが叶うのは、かなり後のこと。


辞書編集部に異動でやってきたのが、玄武書房入社3年目の岸辺みどり。


岸辺は、玄武書房の花形部署・女性向けファッション雑誌の編集部にいました。岸辺が思うにファッション雑誌と辞書編纂は「地球」と「かに星雲」ぐらい距離があると感じ、不安でいっぱいでした。


あるとき、事務所の整理をしていたときに例の㊙ファイルを見つけます。


「まじめは、対外交渉はやや不得意です。辞書編集部に配属されたあなた!このファイルを参考にまじめをフォローし、『大渡海』を完成させよう。健闘を祈る」


岸辺は、辞書づくりという仕事に誠意と愛着を持っている西岡の思いに触れ、重圧を感じます。


岸辺には、辞書に対する愛着も何もありませんでした。


しかし


馬締たち辞書編集部に毎日関わっているうち、岸辺の気持ちが変わってきたのです。辞書の仕事にのめり込んでいくのです。


そのひとつが辞書の「紙」の選定でした。


あけぼの製紙の宮本が「大渡海」で使用する紙の見本を持ってきました。その紙はとても薄く、軽く、裏写りしないのです。


宮本は1年間試行錯誤して、自信ありげに岸辺に辞書の紙について語りました。馬締は紙を触ったり、撫でたり、指先でめくったりしていましたが、突然叫ぶのです。


「ぬめり感がない!」


馬締は岸辺に「広辞苑」を持ってきてもらいます。


「指に吸いつくようにページがめくれているでしょう!にもかかわらず、『紙同士がくっついて、複数のページが同時にめくれてしまう』ということがない。これがぬめり感なのです。

(中略)

辞書はただでさえ分厚い書物です。ページをめくるひとに無用なストレスを与えるようではいけません」


宮本もページをめくって確かめます。そして、「サンプルをつくり直し、必ず満足のいく紙をつくってきます」と言います。岸辺は紙ぐらいで「なぜこれほどまでに」と思う反面、宮本が本気で辞書のことを考えてくれている気持ちになんだか嬉しくなります。


しばらくして


宮本から「究極の紙ができました」という連絡が入りました。馬締は岸辺に紙の判断をまかせます。


岸辺はあけぼの製紙に出向き、紙をめくります。開発担当者は固唾を呑んで見守ります。


岸辺の「すばらしいです」という言葉に歓声があがり、握手や抱擁、男性同士が手放しに喜びます。岸辺は感極まって泣きそうです。宮本もワイシャツの袖で顔をぬぐっています。


岸辺みどりは、辞書編集部の頼りになる一員になっていました。


事件が起こります。


「まじめ君、大変だ!」


荒木が駆けつけてきて「これを見てくれ」と馬締に言いました。


校正刷りに【血潮・血汐】が抜けているというのです。それも四校目まで誰も気づかなかったのです。


他の見出し語も抜けているかもしれないという、まさに血潮が凍る緊急事態でありました。


学生アルバイトも含めた辞書編集部は一丸となって、自ら「激務」に立ち向かっていきます。


かなりの年月を要した「大渡海」は無事に完成するのか?出版できるのか?


後半はドラマチックな展開がつづきます。そのあたりもページを捲る手がストレスなく、ぬめり感を持って高速で捲られていきます。


松本先生は!
岸辺みどりは!
チャライ西岡は!
そして、馬締は!


結末は、熱い血潮が漲ります!


言葉の素晴らしさ、言葉の力を最大に感じた素敵な物語でありました。


巻末には、「馬締の恋文」全文が掲載されています。


西岡と岸辺のダブル解説が、恋文につっこみまくります!こちらも楽しいショートストーリーのようでした。


2012年本屋大賞


【出典】

「舟を編む」 三浦しをん 光文社


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