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エッセイ『カタツムリと悪癖』初稿

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文庫本エッセイ『カタツムリと悪癖』の原稿を掲載しています。 「喫茶店で他人の会話に聞き耳を立ててしまう」という自分の悪癖をもとに書いたノンフィクションエッセイ。全210頁の文庫… もっと読む
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記事一覧

カタツムリと悪癖 (9) あとがき

カタツムリと悪癖 (9) あとがき

あとがき
 はじめて喫茶店に足を運んだのはたしか、16の夏だったと思う。気になる人がいた。ドラムを叩いていて、名前を知らないようなインディーズバンドのファンで、自分はそれには全然興味がなくて、話す口実を作りたくて6月の放課後にアルバムを借りた。無理やりiPodに入れたいくつかの曲は通学時にたまに聴くようになって、会話の回数もそれなりに増えた。横浜のタワレコに行きたいと言う彼女に合わせて約束した日曜

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カタツムリと悪癖 (8) ドライメンソールな愛、リーズナブル人生

カタツムリと悪癖 (8) ドライメンソールな愛、リーズナブル人生

ドライメンソールな愛、リーズナブル人生

 翌週の土曜日。休日は人が多いです。目につく人はみんな、誰かとどこかへ行くために外へ出てきている人です。人が複数いるとどうなるでしょう。そうです。人はおしゃべりを始めます。おしゃべりは楽しいですから、どこか落ち着いた場所でゆっくり楽しみたいと考えるでしょう。考えることはみんな同じです。喫茶店の前に長い列ができるのはそういうわけです。駅前の店はどこも人でごっ

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カタツムリと悪癖 (7) 月の時代・下

カタツムリと悪癖 (7) 月の時代・下

月の時代・下

 こっくりこっくり船を漕いでいるところに、男男女の3人組が左隣のテーブルにやってきます。男たちは半袖から刺青の入った腕をのぞかせて、大きく両足を広げて座ります。女は全身にスパンコールをくっつけたみたいな服に、やたら高さのあるヒールを履いています。

  前回もここだった?
  そうですね
  え、マグロづくし
  何が?
  すませーん、カフェラテアイスで
  あとチーズケーキ
 

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カタツムリと悪癖 (6) 月の時代・上

カタツムリと悪癖 (6) 月の時代・上

月の時代・上
 アルバイトの業務が午前に終わったので、珍しく正午の段階で私は自由の身です。どこへだって行けます。駅地下の古本屋へも、足を伸ばして鎌倉へだって行けます。選択肢を持て余した私は1人で寿司屋に入り、サーモンビントロエンガワアナゴらに挨拶します。心持ち贅沢な昼食です。今日の稼ぎの3分の1とは、ここでお別れです。

 さて、空腹も満たされ、幸福に幸福を重ねるべく次の一手を黙考します。本屋でし

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カタツムリと悪癖 (5) 走らない雑木林

カタツムリと悪癖 (5) 走らない雑木林

走らない雑木林
 3日後の火曜日。もう夕刻とはいえ、からっとした日差しが後頭部を突き刺すような夏日です。そろそろセミが土から出てきて歌い出す頃合いでしょうか。彼らが土を掘って地上を目指すのと同じように、人並みをかき分けて喫茶店を目指す私は、本能に突き動かされる生物としての共通点があります。彼らが樹液を吸うように私もぶどうジュースをオーダーしてストローで飲むとしましょう。木造りのこの店だって、夏の雑

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カタツムリと悪癖 (4) 一滴の血は気休めである

カタツムリと悪癖 (4) 一滴の血は気休めである

一滴の血は気休めである

 その翌週は丸一日休みがあり、なかなかの陽気なので家に閉じこもっていてもしかたがないように思われて、外へ出ることにします。美術学校の先輩に、良い店があるから、と連れられて新宿の人の多い通りを歩きます。向こうから突き進んでくる人にぶつからないように、肩をすかしたり、首をすくめたり、目を細めたりするのでだいぶ神経を使います。心臓に汗をかきながら人混みを抜けて1つ角を曲がると、

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カタツムリと悪癖 (3) アクアリウムと梅雨前線

カタツムリと悪癖 (3) アクアリウムと梅雨前線

アクアリウムと梅雨前線

 雨です。雨が降っています。この時期には珍しい、ひんやりとした冷気をはらんだ雨です。アスファルトが濃紺に染まっています。折り畳み傘でなくて大きなのを持ってくるべきだったな、と右の肩をじわりと濡らしながら悔いています。こんな日は、温かい場所でゆっくり落ち着きたい。そう思う私の両足は歩く速度を早めて、気がつけば店の前に立っていたのでした。考えることはみんな同じなのか、いつもよ

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カタツムリと悪癖 (2) オブラート・サンドウィッチ・パーティー

カタツムリと悪癖 (2) オブラート・サンドウィッチ・パーティー

オブラート・サンドウィッチ・パーティー

 午前中は歯医者へ行き、抜かなければいけないと恐々としていた親知らずが実は大したことがないのがわかって安堵しました。ひと足先に予定から解放されたので、また例の喫茶店まで歩きます。前回はカフェインを摂りすぎたせいか、夜になっても心臓がドキドキして寝つけませんでした。どうやら私はカフェインもアルコールも効きが良すぎる体質のようで、友人にそれを話すとコストパフォ

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カタツムリと悪癖 (1) 頭文字Oの部屋

カタツムリと悪癖 (1) 頭文字Oの部屋

頭文字Oの部屋
 8時14分。朝です。私は静かにあくびを噛み殺します。後ろのテーブルに男が座っています。何も飲まずにおとなしくしています。何か本を読んだり、1階の売り場で何かもらってきたらいいものを、ただじっとしているので不思議がっていましたが、そのうち顔見知りらしい男が2人やってきました。どうやら人を待っていたみたいです。3人の会話は、まず仕事終わりの朝の挨拶から始まります。

  おお
  よ

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カタツムリと悪癖 (0) はじめに

カタツムリと悪癖 (0) はじめに

 本を書きました。『カタツムリと悪癖』というタイトルの文庫本です。210ページくらいです。ざっくりとしたあらすじを言うと、喫茶店で聞こえてくる他人の会話を書き留めて本にしてしまおう、という思いつきからはじまったお話です。これは自分にとっての新しい試みでもありました。

 取材をして原稿を書き、紙面デザインを決め、印刷や装幀までを全部1人でやってみました。6万字の原稿を2週間で仕上げ、編集を含めると

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