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カタツムリと悪癖 (5) 走らない雑木林

走らない雑木林


 3日後の火曜日。もう夕刻とはいえ、からっとした日差しが後頭部を突き刺すような夏日です。そろそろセミが土から出てきて歌い出す頃合いでしょうか。彼らが土を掘って地上を目指すのと同じように、人並みをかき分けて喫茶店を目指す私は、本能に突き動かされる生物としての共通点があります。彼らが樹液を吸うように私もぶどうジュースをオーダーしてストローで飲むとしましょう。木造りのこの店だって、夏の雑木林の樹液あふれるクヌギの幹みたいに思えてきます。こうなったら何もかもセミの真似事みたいです。まったく暑い日です。注文を終えるとウエイターは私に、灰皿いらなければお下げいたしますか、と声をかけてきました。もう何度かここへ足を運んでいるので、私がタバコをやらないことが暗黙のうちに伝わっているみたいです。繊細な気遣いには感謝を示しつつ、ええ、と返すと、灰皿は店内奥へと消えました。

 真後ろのテーブルにカブトムシみたいに大柄な男が2匹、陣取って押し相撲、ではなく何やら話しています。

  川越からなんで車で来たほうが早いんすよ
  朝霞もなんで、基本的に
  2人ぐらいいるんで
  かぶっちゃう可能性ありますね
  1人には話通したんですけど、もう1人は完全にいっ
  ぱいいっぱいで頼めなくて
  なんでしたっけ、なんかのサイト
  最悪、そのどっちかにアタってみて
  そこまでいいのを提供できるかはわからないすけど
  ボクはヒマだからなあ
  だから言ったんすよ
  お互い上手くないなら、いいじゃん一緒に行ったって
  車出しますから
  ないんすか?大会とか
  いまは緊急事態宣言なんでないすけど、ありますよい
  つもは
  明らかにストレート低めで、もうターンの段階で
  へえ
  ボールがキング、エース、あと、ええと、クイーンかな
  んかを
  で、ボクがたしかスタートして3ベットくらいだった
  んすよ
  ほう
  SBかなんかで、チェックで回ってきて
  ターンでジャックが降りて、嫌な予感するなと思った
  ら、向こうが3ベット打ってきたんすよ
  これもう向こうには揃ってんな、と
  ほお、ターンは?
  ターンも入れてたんすよ
  向こうが悩んでて、うーん、とか言って
  結局、サイズリガーでジャック落ちて、向こうがスト
  レートになっちゃったんですけど
  ボタンのやつが3ベット
  ボクがさらに4打って
  向こう取るじゃん、そしたら
  1プレイ目みたいなカンジで、結局負けて
  7回やってるから、相手の読みがわかってきて
  でもこれ、降りてよかったんかな、ってなって
  麻雀とかと同じだな
  そーです、そーです
  スタートけっこういいカンジだったんすよ
  あれで優勝ってウソでしょってカンジですよね
  いやほんと
  ほとんどブラフで、こっちすげー押してて
  勝ち目ないだろ、みたいなカンジで

 テーブルの上には今朝、6月1日の朝刊が無造作に積まれています。「感染拡大状況」「政府方針」「自宅療養情報」などの文字列がグレーの紙面を席巻しています。その朝刊と重なるように、「五輪まであと52日」と一面に大きく見出しのついたスポーツ紙が肩を並べていて、この日いちばんの混沌が卓上に展開されています。男たちはもう帰るそぶりを見せます。

  最近は忙しいすか
  いや、忙しい日もあるってカンジっすね
  あ、今回は、いいっすよ、ボク
  あざっす、ゴチなります

 肩を揺らしながら退店した2人を目で送って、私の興味は前方に移るのでした。いま、店員は3人。つい先日、雨の降る夕方に訪れた時と同じ3人です。何度かここに来てわかったのは、この店は昼から17時までが最も忙しいこと、したがって17時までは3人、17時以降は2人で店を回すというオペレーションシステムがあるらしいことでした。

 いまは16時07分。ゆったりと時が流れるかに見えるこの喫茶店でも、店の人間は常に仕事という名の慌ただしさの渦中にいます。

  カンナさん締めのやつー
  あ、はい
  レジ締めた後のでしょ
  だったら真ん中の一面はレジ打てないから変えてない
  わけよ
  その日付を明日に書いて、値段は一緒
  そうなんだけど、いちばん最後の伝票が
  レジ締めた後だったら、値段が決まってるから
  これ、1500円だけど変更できない
  んー
  あ、で、また15万に戻ってる
  本当だ
  その差異なんだろって思う
  これ、10枚じゃないすか
  レジには9で、AとBに書き直して
  これもBにすれば、明日に繰り越して精算できるじゃ
  ないですか
  だからコレを使って
  でも、元々入ってないとね
  元々、中間にあった伝票は?
  あ、それは中間のを最後に持ってきて
  伝票はP書く
  つまりさ、間違えた数字を書いたわけじゃん
  じゃあコレ前のパターンですよね
  この伝票1枚を空白で考えて
  最後の1枚を空白に入れるわけですよ
  それで、明日のぶんをその空白に書けばいいんですよ
  ええ、そうなの?
  そうですよ
  それなら帳尻合いますもん
  で、この番号も調節できる
  えー、ちょっとわかんないです
  ちょっとあっちで説明してください
  ええ、いいですよ、えーっと
  最初からやればよかった
  ボクも忘れてた
  カンナさんに言われて、そういえばってなって

 そこに、スーツの男が入ってきて、カンナさんと思しき店員を呼び止めて何か一言二言、喋ります。そして、何かを告げると男は店を出ていきました。カンナさんはメモに筆記をしています。

  予約?
  ええ、17時半から
  オッケーしました?
  しました
  誰です?
  あー、あの、よく来てる、ちょっとめんどくさいあ
  の、女の人のお連れさんです
  ああ
  マスターの知り合い関係で
  そうだったの、どうりで

 キッチン中央にある真鍮製のポットから白い煙が濛々と立ち上っています。その様子は、まるで荒々しい活火山の噴煙を見ているかのようです。私の左手にある円卓に、男が2人座っています。それぞれ、赤と白のシャツを身につけていて、ちょうど山の話をしています。

  山火事の原因5割それだからね
  そもそも登山家がそうやって吸ってることあるから
  そのへんがダメだね
  基準がもう、さ
  いや、あそこだって山削ってるじゃん
  日曜日あたりで、1日曇りでさ
  川の流れがいつもよりキレイになってた
  山の説明も、なんかアレ、ゆるキャンみたいな
  そう、ゆるキャンみたいな
  がんばれば登れるよ
  だってYouTuberでビーサンで登ってる人いたし
  でも、下りるのが怖いよね、富士山
  下山ね
  そう、オレらはあの、裏山口のほう
  タクシーかなんかで
  いや電車だよ
  登山口のあたりまで行って、門前払い
  だからホントに命の危険があるようなコンテンツなワ
  ケよ
  もし1人で行くなら、自分で持ってかないとダメだよ
  ちっちゃいポーチとか
  初日、そういうマップとかもらってかないとね
  ガイド雇うとか
  あー
  まあ人多いし、コンクリート敷かれてるとこもあるか
  ら、初心者的にはそっちからだとは思うけど
  時間余ったら余ったで良しとして、だから朝早く出て
  こういう段階で不安がってたら、登れるもんも登れな
  いよ
  朝行って昼までには下るってことか
  いやそれはベストだね、ベスト
  余ったら釣りすればいいし
  5時に起きて6時くらいに出て、9時とかに着いて設
  営してってカンジ
  だから延べ竿持ってったらいいんじゃない

 赤シャツは右の中指と薬指で、円卓の天板をトントンとさせながら話します。白より少し山には詳しい様子で、左手でカップを持ち上げてクリームココアを飲み干します。

  まあミミズとか
  ウネウネしてるけど
  取れなかったらどうしよう、ミミズ
  あの、アカムシだっけ、その、フナムシみたいな
  フナムシは海にしかいないだろう
  なんか名前が思い出せないんだよ
  あ、そうそう、こいつこいつ
  こいついっぱいいるよ
  なんだっけ、名前
  それ、売ってるやつだね、ブドウムシ
  こいつで釣れるよ、ミミズより、正直そっちのほうが
  いい
  たしかに売ってた、渓流に行く時のいちばん最初の
  店に
  家のは?
  あるけど、家にあるやつに1回洗ってつけるの嫌だ
  取ればいいのに
  こういう虫は、どこにいんのかちゃんと調べないとね
  だね
  放流してる場所で釣ったことない
  難しいのかな、やっぱ
  こいつはなんか、見たことあるよ
  食えるの?
  食えるよ、オイカワとか
  川魚の骨なんて煮込んじゃえばいいでしょ
  基本的にはさ、釣りってさ、稚魚はダメじゃん
  どのくらいか知りたい
  食べられないくらい小さければなんじゃない
  でもほら、15センチ以内だってまあまあ大きいよね
  ほんとだ
  まあでも、店の人もこのぐらいで釣れると思います、
  って
  でもあれじゃない、長い竿、キャスティング難しいと
  思うよ
  タテはさ、対岸までいっちゃうでしょ
  こうやってハの字とかにして
  チョー難しいよ、アレ
  昔、動画でチョー上手い人いてさ、何回も観てたソレ
  ハエみたいなの付いてるやつ’?
  そうそれ、先っちょに
  まあ、20から30くらいあるから
  20釣れたら最高だね
  オレのやつってさ、来たらフツーに持ち上げて、上げ
  るやつだから
  自分も後ろに下がりながら、下のレールを滑らせ
  てって
  たしかに返しがあるからな
  アレだとさ、なかなか取れないよね
  ブラックバスだとね
  あの口の横を持つんだよね
  あそこだとね、皮膚が薄いから
  流れの下のほう行くんだよ、上のほう行っちゃいけな
  いから
  そんな嫌がらせする人いる?逆に
  でもさ、フツーの平日だし、オレらしかいないんじゃ
  ない
  たぶんね、ソレを狙って行くワケだし
  まあ隣にいたら話せばいいと思うけど
  どっからですか?とか聞かれるのよね、たぶん
  親切な人だといいな
  そん時は、埼玉です、ってね
  意外と近いな

 赤シャツのほうはやたら太い木製のパイプをふかして話し、白シャツは片肘をついて聞いています。

 山といえば、私は数年前に登ったことがあります。友人と私、合わせて五人。そのうち1人がとても体力に自信のない人で、登り始めこそ元気でしたが、次第に口数が少なくなり、息も絶え絶えになっていたので、ある者は彼のリュックサックを代わりに持ち、またある者は彼の背中を押し、またある者は水を飲ませ、登山用のストックまで貸し与えて、それはもう総出で彼を援助し鼓舞したのでした。とうとう彼は登りきりました。しかし、彼自身のあり余る体重により、借りたストックをへし折ってしまったのです。ストックが真っ二つに折れるのを見たのは後にも先にもそれきりですが、彼はそれなりに豊満な躯体をしていましたから無理もありません。
「このストックはボクのカラダを支えるのをやめたみたいだよ」

 申し訳なさからなのか、バツが悪いのをごまかすためなのか、肩で息をして今にも死にそうになりながら彼がそう言うので、私たちは山頂で声を上げて笑ったのでした。

 時計は16時43分を指しています。店員の男が洗い物をしているところに女の店員がやってきて、洗った食器を拭いていきます。まだ少し濡れたカップを真っ白なタオルで包んで、キュッと音を立てて磨くようにして、終わったものから順番に並べていきます。並んだ食器たちは以前よりも一段と輝きをましたように白く、整然と佇みながら次の出番を待ちます。その様子を見ているだけで、なんだか気分が良くなります。店員同士の会話も時折聞こえます。

  それじゃあ、肉ないってこと?アイスも
  手持ちが朝来たらなくて
  土曜日に使い切ったっけ
  2つしか使わなかったの?
  いや、3まで
  じゃあ、元々取れてるんじゃない
  両方ともベラベラになって
  そんなことないし、したことないし
  アイスなら、コンビニでなんとか
  でも、河童橋の
  河童橋?地名?
  うん、だから明日行こうと思って
  すみません、アイスお願いします
  はーい
  パスタ、アイス、ロイヤルです
  はーい、おっとと
  あらら、大丈夫?
  失礼いたしました

 女の客が1人、カウンター前まで来て奥を覗き込んでいます。店員の女の知り合いのようで、私の横で会話を始めます。

  あら、ハネダさん
  あ、もう帰るところだったの
  ううん
  店の中は業者呼んでるからいないけど
  灰皿は?
  いや、いらないの
  ちょっと寄っただけだから、アイスある?

 さらに、右端のテーブルでは中国人のおばさん2人が、もうすごい勢いでおしゃべりをしています。聞き耳を立てても内容はわかりませんが、まくしたてるような早口なことだけはわかります。事情を知らないと、喧嘩をしているのかと早とちりしてしまいそうです。

 なんだかとてもにぎやかになってきました。店の雰囲気というものは、常に一定ではなく、そのムードと言いますか、にぎやかさ具合みたいなものに緩急があります。どこの席もおおいに盛り上がってざわついているかと思えば、表通りの風の音が聞こえるくらい静かになる時があり、また再び喧騒に包まれるというリズムです。まるで音楽です。曲の旋律です。Aメロからのサビの絶頂にかけてを聴いているみたいです。また別の見方をすれば、それは喫茶店という空間自体が大きな演奏ホール、客はもれなく交響楽団の一員で、それぞれに奏でられる音を集約して、ひとつの課題曲を演奏しているような気持ちです。ただ音楽を聴くのではありません。自分もその音を奏でる一員としてそこに存在しているのです。喫茶店のざわめきはは1つの交響楽です。客はもれなく全員、音楽的共犯者です。そういう解釈を、いま思いつきました。

 先ほどの赤シャツと白シャツは、依然として会話を続けています。

  今日中には買う気あんの?
  じゃあ、欲しいものとか
  ううん、なんだろ
  いいなあ、遊びたいなあ
  ふっはっは
  消費税で5000円かかります、だって、200%
  ははは
  20日で間に合うの?
  間に合うよ、6日だよね
  一応母親とかに連絡入れて、このくらいには帰る、っ
  て言ってある
  必要な物リストみたいなの作って
  お、いいね
  バーナーと、クッカーと
  何分?
  40くらい

 17時をまわり、客足は少しに前にピークを過ぎたところです。ほどよい混み具合で、この空間がもっとも喫茶店らしく存在しているのは、このくらいの時間帯だな、と思ったりもします。店員が、私に聞こえるか聞こえないかくらいの声で鼻歌を唄いながら食器を洗っています。

 1組の老夫婦がやってきて窓際に荷物を置きます。何をオーダーするか2人で話していますが、いかんせんおばあさんのほうがおしゃべり好きといった感じで、ずっと会話のペースを握っています。くわえて、おじいさんはほとんどしゃベらず、声も小さいので、実質おばあさんの1人芝居のように聞こえます。私は明後日の予定を手帖に書き記しながら、耳だけはこの2人に預けています。

  ねえあなた、前もここ来たんだったわね
  隣がいいわよね
  あ、すみませんアイスコーヒー二つくださる?
  あら、あなたそのズボン
  暑くないの、ムレるわよねそれ
  雨の時よさそうだけど
  すみません、あのすみません
  シロップもいいかしら
  こういうのも麻がいちばん涼しい
  え、なに?
  これ流行ってるの?
  あたしにはもうそういうのわからないけど
  すごい昔にパンツも流行って、今もまたそれが人気み
  たい
  流行りって戻るのね
  え?なにを?
  うん、そう
  3日前にね
  これもそうよ
  あたしは気をつけることができるけど
  あなた疎いから
  あたしが気をつけてあげるから
  あ、あの、おしぼりだけちょうだい
  ええ、おしぼりだけ
  そう  
  コンドウさんが嫌がるから
  やっと言ってくれたの
  ね、嬉しい
  いつもみたいに、お店にね
  ふふふ
  あら、自分で好きなもの選びなさいよ
  安くて美味しいものいっぱいあるから
  優しいわね
  あたしが選ぶわ
  ええ、そうだわね
  あそこよりいいわね
  あそこ人が忙しくって
  すっきりしてるわね、ここの

 2人ともマスクをつけたまま、顔の横に引っぱるようにズラしてストローからアイスティーを飲んでいます。しかし、互いに耳が遠いのでえらく顔と顔を近づけて会話しています。その様子がなんだか可愛らしく、内緒話をしてるみたいです。

 歳をとった人について記述する時、おじいさん、おばあさん、という書きかたを私はしているのですが、これは心の中にほんの少し含まれた、年長者に対する敬愛によるものだと自覚しています。そういう前提のもと、いざ私が彼ら彼女らと同じくらいの歳になった時、私は自分と同じように年老いた人間を一体どんな感情で見ることになるのだろうかということを、ふっと思いました。その意味では、歳をとった自分に早く尋ねてみたいなとも思います。

 2時間前のぶどうジュースはとうに氷が溶け、ただのちょっと酸っぱい雪解け水の味がします。私は今晩の献立をまだ考えていなかったことを思い出しました。この朗らかな老夫婦を横目に、鞄に押し込んだスマートフォンを右手で探しながら早歩きで店を出ます。街はまだ煌々とした輝きを見せています。



(6)へつづく

※このnoteには文庫本『カタツムリと悪癖』の本文原稿の一部を掲載しています。マガジンからバックナンバーがご覧いただけます。この物語は実体験にもとづくノンフィクションですが、登場する人物名などは、すべて仮名にしています。

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