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カタツムリと悪癖 (6) 月の時代・上

月の時代・上


 アルバイトの業務が午前に終わったので、珍しく正午の段階で私は自由の身です。どこへだって行けます。駅地下の古本屋へも、足を伸ばして鎌倉へだって行けます。選択肢を持て余した私は1人で寿司屋に入り、サーモンビントロエンガワアナゴらに挨拶します。心持ち贅沢な昼食です。今日の稼ぎの3分の1とは、ここでお別れです。

 さて、空腹も満たされ、幸福に幸福を重ねるべく次の一手を黙考します。本屋でしょうか。いいえ、これは悪手です。立ち仕事の後の立ち読みは足にこたえます。鎌倉でしょうか。いいえ、食後の電車は気分が悪くなっていけません。これも悪手。となると、この局面は——。ピンときたあなたは聡明です。ここはやはり食後のコーヒーが最善手でしょう。とまあ、来るべくして、またもや馴染みの喫茶店のドアをくぐるのでした。

 14時41分。カウンターテーブルで店員の男女と客の男が話しています。女は中国の生まれらしく、中国語を少ししゃべります。

  你来了!坐坐!您点什么?
  お姉ちゃん、発音きれいだねえ
  ありがとございます
  どっちも勉強してるんだ?
  一共是四〇元
  よっ、本場、さすが
  この人が日本語も教えてくれるんですよ
  お兄ちゃんも練習したらいけるんじゃない
  でもヘンな言葉ばっかり教えるんです
  またまたあ
  どのあたりなの
  上海です
  そうなの、すごいね
  ちょっとエグチさん、これ言ってみて
  很自恋哦~
  これどういう意味?ボクのこと?
  教えない
  ははは
  あはは

 頭の中を、くるりの「琥珀色の街、上海蟹の朝」のイントロが駆け抜けます。東京は琥珀色なんかじゃありませんが、この店はまた別な趣があります。原宿のヒップホッパーは、こういうのをチルいとか言うのでしょうか。私の座っているのはこの店で最も大きな円卓で、天板の真ん中には立派なコーヒーサイフォンが2台、鎮座しています。コーヒーサイフォンとは、水の蒸気圧を利用してコーヒーを淹れるガラス製の器具のことです。大きなガラスのフラスコが2つ、砂時計のように互いに向い合うかたちで縦に連なっていて、抽出されたコーヒーが上から下のフラスコへ少しずつたまっていくという仕組みです。この店は自家焙煎の水出しアイスコーヒーを売りにしていて、このサイフォンからおよそ8時間かけてゆっくりと抽出されます。ぽたり、ぽたりと一滴ずつ落ちるそれは黒い水面に波紋を作り、そのリズムは規則正しく、淡々と店内の時を刻んでゆきます。

 奥のテーブルに男と女がいます。サイフォンのガラス越しなので顔はよく見えませんが、女は若く20代、男は40代くらいです。店内は静かで、女の声ばかり聞こえます。

  え!ウソ、やめんの?
  だからあきらめてて
  くじけてんのか
  アレ、期間あるから応募するのに
  それでも会社を経営できるから
  まあまあまあ
  で、大前提があるわけで
  貸す人より借りる人を見つけましょう、っていう
  内定、医療系の
  健康保険組合の人たちと
  なんか、血液検査の結果で、こういう生活習慣したら
  いいよ、っていうような
  会社?
  で、2ヶ月くらいで辞めて
  わたしがいろいろやりすぎて引き継ぎがしんどいです
  それはもうシステムがパンクしてるんだから
  上の人との取り次ぎも
  そうすると関係が途切れるじゃん
  そりゃあね
  それが嫌なの
  で、結局、辞める前に有給消化して
  2ヶ月して7月中旬に辞めましょって話になって
  それを会社に言ったら、5月末までに辞めてもらった
  ほうがよさそう、って
  たしかGW明けに言われて
  急すぎて困って
  でも、そうやって言うってことは会社のほうでもいろ
  いろあるのかなって
  波風立てるのも嫌だし、了承して5月末に辞めた
  だけど引き継ぎが残ってて
  今いる子が教える側にまわるのも、負担がしんどいし
  結局、納得できる理由でダメです、ってことにならな
  かったから
  なんだかな、ってことになって
  わたしもいま、商社の内定もらってるから、落とさな
  いように
  だから、授業もやんないのよね

 アイスコーヒーのほのかな香りが漂います。グラスを唇に当てると、そっと冷たい塊が喉の奥へ流れ込んできます。酸味の少ない柔らかな口当たりと、その奥にある濃厚さ、後味は心地よいほろ苦さで、別れを惜しんでしまうような、ほどよい余韻を残して消えてしまいます。

 2人の男がスーツのまま入ってきて、入り口近くに腰掛けます。片方は低音のガラガラ声で、もう片方は髪をポマードできっかり7対3に分けた男です。

  なんだよ、これっぽっちかよっていう
  そうそう
  それを良しとするのか、良しとしないのかっていうね
  やっぱりそのへん理解して会わないとダメかな
  もしくはもう1人のパートナーに名前書いて申請して
  個人に任せるとダメなんで
  あの、やっぱり上手く借りられるならアレですけど
  なんか足並みを揃えてくっていうか
  ケツまくられちゃうとさ
  そうそう
  例えばもう、広告で名前が出過ぎちゃってるから、新
  しい月で、とかね
  そのぶんエイジさんが後ろ下がってっていうのも、
  こっちが忍びないし
  まあね
  で、意外と真面目に計画書とか持ってきてくれたんだ
  けど
  7ヶ月って言ったら、14ヶ月まで裾野を広げて、
  200万円くらいまでやりますってさ
  ちなみにH社の案件で
  みんなでトンズラするっていうより、いわばステイで
  結局、HさんとTさんの間のお金のやりとり
  それってその、ウチでも普通に雇われで来るんで
  その時に「Tと変わんねえじゃん、ウチ」って
  なっちゃわないように資金繰りだけは失敗できないわ
  けで
  そのためにボクも頑張りますし、取り巻きも立てま
  すし
  でも、いかんせんまだ経験したことがない領域の話で
  で、T社も個人的にお金出してて、それでも足りない
  くらいなんだけど
  350万でトントンくらい、ちょっと余るくらいかな
  でも間違いなく、資金繰りだけは
  黒字だとしてもきちんと計上しないといけなくて
  そういう意味でウチが、新しい風になれればいいのか
  なっていう

 どちらもスーツに比べるとずいぶん派手な時計をした腕で、タバコの煙を吸ったり吐いたりしています。あの銘柄はおそらくかなり重たいやつです。

  もうT社は3年ちょっと、H社は2年なわけでしょ
  で、達成した月のカバーしたお金を取っておくくらい
  それはかわいいんですよ
  良い人材に関しては社会保険まで入ってますし
  彼自身がノリさんを評価してるし
  打ち合わせとかも成り立つし
  自分は、リークっていう言葉が正しいかはわからない
  ですけど、人を扱う、キレイゴト抜きで判断するって
  いう仕事なので
  Nさんの仕事はさ、タケーえんだわ
  2万3万の仕事をいっつも取ってくるでしょ
  オレのはさあ、もうザコなんだよ

 この店は、東京の中でも乗降者数が多いターミナル駅の、ひときわ活気のある繁華街に面して建てられています。近くには大学もあります。夜の店もありますし、デパートも保育園もあります。そのため、年齢性別職種遍歴、ありとあらゆる人間が訪れます。客層入り乱れて、混沌とする空間。実はこのカオスがいちばんの魅力と言えましょう。なにせ、こっちは店にいるだけで、あとは入れ替わり立ち替わり次から次に新鮮なネタが来店するのですから、聞き耳の立てがいもあるというものです。ガラガラ声とポマードの話はまだ続きます。

  つまりさ、そのへんがさ、まあ悩ましい問題ではある
  んだよ
  ウラを返すと、近代化されてないんだよ
  出勤率がいいとか、たしかにすごい
  それを「すごいっすね、みんなして」って言うんじゃ
  なくて
  メーターを抑えてくような
  営業マンを打ち合わせ要員に配置して「お世話になり
  ます」なんて、絶対必要ないでしょ
  現場の技術力も大事だし、その25、25ってオレ、
  一回も早く行かないしね
  コウさんなんかは事務所にあぐらかいてて
  若い子らにここ行けあそこ行けって、やらせてるって
  言ってた
  はっは
  でもそのくらいのほうがね
  外国人とかだと、カラダおっきいじゃん
  T社は、違法まではいかないけど、予算的に受け入れ
  てもらえないって
  建設現場の解体とか
  錦糸町でも飲食店のオーナーがたくさんいて、人材を
  削って営業時間帯との兼ね合いとか
  そういう意味でも外国人はいろいろ引く手数多なんだ
  よね、っていう話をしてたよ
  でもねえ、なんつうかその、側面的な人材育成の中
  で、待遇がいいとか給料が高いとか
  そこをオレが立ち入るつもりはないっていうか
  そこがブレるのは反対かな
  いわば旧態依然、根こそぎ持ってくような成り行きで
  もあって
  だから調子になるなよって、てめえの身の丈以外のこ
  とをやるなよっていう時には、自分は言うけど
  こっちが対等な関係で付き合えたら、未来は明るいの
  かな、っていう
  イトウさんにとってもオウさんありきの師弟関係とい
  うか
  ボクらの業界だと無意識下の判断って多いんで
  だからあんまり、そこは

 15時35分。女が1人、暑そうに顔を手で仰ぎながらやってきました。自分のことをアメリカ人だと言うこの女は、常連らしくカウンターに席を取り、店員にウインクして話しかけます。

  おはよ、ロイヤルで
  あ、こんにちは
  なんか今日、ゲーセンでね
  うわすごい、取ったんですか?
  ナイショ、まあ朝から張ってたんだけど
  わ、タオルだ、大きい
  ここが邪魔なんだけど、一応イケてた
  キメツじゃないですか、すごい
  300円で取ったから
  え、一発?
  一発
  え、すごい、安上がり
  でしょ
  あの、大きいやつとかすごい欲しいやつとか、ある
  じゃないですか
  うん
  でもあれワタシ、全然つかめないし、たどりつけない
  んですよね
  手前に寄ってる時は、大抵イケる
  でも、機によってはムリだけど
  へえ、難しそう

 カフェインが効いているのか、こころなしかトイレが近くなり、ハンカチを持って席を立ちます。個室の角には大きな陶器の水瓶が置いてあり、黄金色のドライフラワーがあふれんばかりに挿されています。それがあまりに綺麗なので、私は集中して用が足せませんでした。花を見るとハッとします。植物としての生命を終えてもなお美しいものとして、こうして人目のつく所に装飾として珍重されているのを見るたびに、人間の営みの花に対する残酷さと、それでもその美しさに真っ向から貫かれてしまっている自分の感受性の浅はかさにハッとさせられるのです。

 円卓へ戻ると、ガラガラ声とポマードがまだビジネス談義の最中です。

  ホントにパチンコ業界もマジでヤバイんすよ
  マジでヤバイ
  開発案件もマジでないんですよ
  開発決まっても、最低2年かかるんで
  今やってるのはメダルです
  業態が悪化するんで、ホッパーからメダルが出てくる
  のもやめますし
  査定方式が変わらないとIR通らないですし
  今がドン底前なんです
  チェーンが営業して、そこにオレらみたいなハイエナ
  が集まるわけですよ
  お盆お正月除いたら、正直ヒマですし
  その短期、3ヶ月の回転以外の案件を考えなきゃいけ
  なくて
  で今、付き合ってる36のコがいるんですけど
  そのコのオヤジさんが東南の方で石油商の仕事かじっ
  てて
  それで、考えてたの
  今さらなんだけど、石油
  石油を掘り出して、それを貯蔵して
  タンクローリーみたいな、ガソスタみたいなやつに補
  充して
  それが決まるか決まらないかなんですけど
  決まればウハウハ
  申請通して、投資対象になるらしくて
  で、オレは興味なさそうにしてるんですけど、鼻の穴
  ぐわーんってなってて
  わはは
  やっぱオレは短期的な売り上げを作るのに特化してて
  それと同時に人材を見つけたり、その過程でやっぱり
  自分は人と会うのが好きなんだな、って思ったり
  日当30万で、30日で900万
  そんなにお金使えないけどね、人って
  ちなみにYさん手取り41、Mさん額面30、手取り
  20なんですよ
  渋谷の一歩手前
  でもあの、県民税は引かれますよね
  ええ
  で、月の経費が4.5万
  Mさんに「引き上げます、その代わり」って言っても
  いいかなって
  どっか県外に住居移さないかぎりキビシイはずなん
  すよ
  だからこっちで穴埋めしといてあげたんですよ
  4月の2便で来たんすよ、出社で
  すごくないすか
  だから、練馬もそんくらいだと思いますよ
  にしても、粗利が少ないなあって
  2社で割ったら、カスカスで残るのかなあって
  こないだも居酒屋でベロンベロンになっちゃって
  これでくっついちゃったら嫌だな
  はは
  トイレって奥でしたっけ
  ええ、そこ左に
  どうも

 ポマード頭がトイレに行き、ガラガラ声のほうは座ったまま電話を始めたので、私の耳は一旦の暇を与えられました。

 アメリカの女はさっきから、店員の男にかまって欲しそうに話かけています。彼のほうも暇を持て余しているのか、この女の他愛もない話に付き合います。はたから見ると学校の友達同士の会話みたいに聞こえます。

  あのさ、ハロウィン行った?
  ハロウィン?いつだったっけ?
  10月31日の
  あー、3年前に行ったっけな
  ウチ、去年行った、ハーレイクインのカッコウした
  かっこいいじゃん
  なんか着いた瞬間シャシン撮られた
  ボクたしかね、ゾンビのカッコウした気がする
  意外
  あ、やってんの?ポケモンGO
  やってたけどやめた
  ボクも10日ぐらいやってたんだけど、そこの彼と
  ポケモンじゃなくて、ドラクエのやつもあるよ
  ドラクエ?
  FFとかモンハンもある
  モンハンとか、めっちゃ難しいじゃん、スマホで
  ウチもやらないけど観るのはする
  でもスイッチ欲しいな、ポケモン好きだったなあ
  何が好き?
  金銀
  あー、ケッコウ古いね
  ウチも金銀赤緑とか
  ボクもそのへんだった
  じゃあ世代なのかも、そんなに年近かったんだウチら
  面白かったなー、人生の全てだった気がする
  イーブイ、いちばんカワイイな
  わかる
  進化のやつがあって、だんだん増えてきて
  多くない?アレ
  炎と水と電気と、ピンクのやつとか、あと悪
  どんなのだったっけ
  あの、頭がちょんちょんってなってるやつ
  あー、わかった
  新しいやつも出たよね、あの、リボンついてるやつ
  名前忘れちゃった
  これじゃない?
  あ、それだそれだ、懐かしいなー
  ねー
  どれもカワイイよね
  実際いたら暮らしたいもん
  ライオンのたてがみなのかな
  でもこれいらなくない?
  炎を表現したかったのかな
  ふふふ
  でも、ネコっぽいよね
  全部ネコっぽい
  最近は多すぎて、金までしかやってなかったから
  ね、ウチやっぱりコレ好きよ
  久しぶりにやりたくなってきたな

 昔、公園で友達と遊んでいた小学生の頃、パトロールに来た警官に話しかけられたことがありました。当時、任天堂のDSが爆発的な人気を呼び、ちょうど小学生だった私や友達の間ではその話題で持ちきりでした。親に必死にねだって手に入れた2年生の冬、ワクワクしながらそれを公園に持っていって、友達と同時通信でプレイをしたのを思い出します。その日もたしか何人かでベンチに並んで、夢中になって遊んでいました。警官は私たちの手元の画面を覗き込みました。とっさに私は、さっきそこの、植え込みの草をむしったのが悪かったのだ、と思いました。ほんの少しですが悪さは悪さです。きっと逮捕される、もうダメだと観念して縮こまっていると、
「ポケモンかい?懐かしいなあ」
という声が頭の上から聞こえます。
「ボクが君らくらいの時はねえ、まだ白黒だったんだよ。よくやっていたよ。今日はちょっとこのあたりを巡回したらもう行くからね。暗くなる前にうちに帰るんだぞ。いいな?」
警官はそう言って自転車に乗って行ってしまいました。警察のお兄さんもゲームをやるんだということを、その時初めて知りました。人はゲームについて話すのが好きです。好きだったゲームソフトの話をすると、その人の世代といいますか、だいたいの年齢が割り出される現象があります。自分と同じ世代のゲームについて懐かしげに語っている人を見かけると、時に大人は胸を熱くさせてしまうのです。

 ガラガラ声とポマードの話は一向に途切れることがなく、聞き耳を立てつづけるこちらの忍耐力に先に限界が来て、しばらくは別なことをして耳を休ませていました。天井から吊り下がった電球を左から順番に数えたり、目の前のティースプーンの向きを180度ずらしてみたり、グラスに映り込んで歪んだ自分の顔を絵に描いたりしていました。そのうちにどうやら、この2人はパチンコ店を経営しているオーナーか何かで、しかもガラガラ声の持つ店舗はこの喫茶店から通りを1つ隔てたすぐ近くにあるらしいことがわかってきました。ポマードのほうも、都内に何店舗か持っている風です。

  関係としては、上下じゃなくて横だよね
  横だね
  ライバル的な
  案が立ち上がって、それを売るまでの実務
  ウチの事務のコがいるんですけど、今度一緒に伺いま
  すよ
  出社すんの?
  しますよ
  来てもらうのはありがたいですし、机も用意します
  けど
  秋葉原?
  秋葉原っていうか御茶ノ水、八王子か1時間くらい
  です
  彼、待ち合わせの時間、すっごい早いんですよね
  だから、いつも待ち合わせ早いから、15分前くらい
  に行こうかなって行ったら、すでにもういるんです
  もん
  でも思った以上に気に入られてるんですよね
  思った以上に
  ま、かわいがられるタイプですよ 
  だから今、建設業の許可をどうやって取るかっていう
  話を
  仲間内で1回合わせれば打ち解けられるかな
  18時に八王子行く、って言って
  じゃあそん時に引き合わせしようってなって
  あとは採用の話、ちょっと先のことだけど
  池袋のクランチを起点にしつつ、本社はこっちで
  それは掲載上、問題ないんですか
  ええ、まあそれも含めてね
  大丈夫なんですか
  うん、まあオレは心配性だからこう言うけど
  嗅ぎつけられちゃ困るわけだよね
  看板出さないと、面接者見つけられないからね
  だからE社を介して、上手く
  それもバレたらアレだけれども
  とりあえずMさんには流しときます
  ええ、じゃあ、ありがとうございます
  ごちそうさまです

 この2人の話もとうとうお開きになり、勘定を済ませて店を出ていきました。コーヒーサイフォンにたまったアイスコーヒーが満杯になり、店員が回収しにやってきます。16時36分。店に来てから早くも2時間余りが過ぎようとしています。東京のどこよりも時間がゆっくり流れていそうなこの場所ですが、居心地の良さにかまけてボーッとしていると、気がついた頃にはあっという間に時間が経っていることがよくあります。温かいダージリンに入れた角砂糖みたいに、みるみるうちに溶けてなくなっていくような感覚です。喫茶店はそういう空間です。私は少し、うとうとしてまどろみます。


(7)へつづく

※このnoteには文庫本『カタツムリと悪癖』の本文原稿の一部を掲載しています。マガジンからバックナンバーがご覧いただけます。この物語は実体験にもとづくノンフィクションですが、登場する人物名などは、すべて仮名にしています。


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