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カタツムリと悪癖 (3) アクアリウムと梅雨前線

アクアリウムと梅雨前線

 雨です。雨が降っています。この時期には珍しい、ひんやりとした冷気をはらんだ雨です。アスファルトが濃紺に染まっています。折り畳み傘でなくて大きなのを持ってくるべきだったな、と右の肩をじわりと濡らしながら悔いています。こんな日は、温かい場所でゆっくり落ち着きたい。そう思う私の両足は歩く速度を早めて、気がつけば店の前に立っていたのでした。考えることはみんな同じなのか、いつもより心なしかにぎわっています。そそくさと傘をたたみ、テーブルは満席なので奥のカウンターに通されます。この席は好きな場所です。目の前で店員がカップを拭いていたり、コーヒーを淹れているのが見えますから、喫茶店らしい景色と言えます。今日は温かいミルクティーにしましょう。なんというか、そんな気分です。

 14時12分。横のテーブルには既に先客がいます。女が3人。にぎやかに話しているみたいで、1人は電子タバコをのみながら脚を組み、ゆらゆらしています。揃いも揃って格好がギラギラきらめいていて店内ではよく目立ちます。例えるなら、メダカやドジョウのいる水槽にカラフルな熱帯魚がいる感じです。

  基本、月4日しか休みないのよ
  11時半はさすがに早いよね
  ゆっくりプール来てさあ
  仮免まだやってんの、そういえば
  あのヤマムラモモちゃん、百十何回落ちたって
  ヤバすぎだって
  やっぱ若い子のほうが覚え早いんだよね
  まあウチ一発でいったよ

 声が低いです。酒焼けなのか地声なのか、えらくハスキーボイスで話します。なんというか、ちょっとカッコいいんです。私はこの3人を「熱帯魚」と呼ぶことにしました。熱帯魚たちはずっと盛り上がっています。

  こないだも真っ白な服着てきてさあ
  アタシはアレだよ、全身脱毛だよ
  顔まわりとVIOとね、この前
  ワキの生えギワのとこ
  6ヶ月経ったらまただよ、また
  前もね、顔のやってもらったの、イタイのよーバチっ
  として
  ハグキに当たってイタイのー、光が
  どうやってやんの
  広げてやんの
  それで中に挟んで、ヤダねー
  もし1回やってイタかったら、VとIとOはね、アレ
  ねー、抜く範囲がかなり狭いから
  あんなの1回1回やってたらカラダもたないわ
  あ、そうそう、エステのほうが弱いから
  アタシは医療脱毛
  マキはもう終わったっつってた
  アタシはまだ2回目
  たしかに全然なかった、ツルツル
  女の人だった?施術
  男だった、ハズカシー
  やっぱVIOらへんはね
  女の人のほうがなんかいいわ
  スパン的にもさ、通いしんどくてさ
  完全になくなるのはさ、来年以降なワケ
  カミソリでやるっちゃやるけどさ、散らばるよね
  そんなの掃除機で取っとけばいいのよ
  きゃはは
  いやでもちゃんとやってる人すげーわ
  んね

 どうやら夜の仕事の合間のオフタイムらしく、次なる戦いのための英気を養っているかに見えます。オレンジ、パープル、ライトブルーの光沢を放つ長い爪は、さながら武器のように激しくハイライトを散らし、それらが木造りのテーブルやアンティークな照明とのコントラストを一層強めています。

  この前のアレ、どこの店だったっけ
  ラーメンコジロウ、忘れもしない
  店いたら「あの子いつもの子だ」って言われて
  挨拶したら、ハルさん外見てたの、外
  どうしたの
  呼んだの、「ハルさん!」って
  どうだった?
  全然、だから後でメールして
  え
  気づいた?って聞いたらダメだった
  やっぱお客さんだと気づかないのかな
  なんか周りをね、見渡してた
  そこ、いくらだっけ
  1800円、意外にね、けっこうウマイ
  すんごい並んでる
  あ、ね、ウマイ
  え、食べた?
  食べた
  ウマイのよあそこ、朝チケット出すから
  1200円で食べれんのよ
  でも朝早く並ばないともらえないから、20枚しかな
  いから
  十二時前に行ってももらえないし
  だからアタシは1600円で食べてる
  たかが400円しか違わないのに並ぶのヤダからさー
  雨の日も並んでっからね

 目の前に角砂糖の入れ物が置いてあります。私はさっきから手帖を出してそれを絵に描いているのですが、耳だけはしっかりと熱帯魚たちのほうに傾けています。店のガラス戸を叩く雨音が、少し大きくなったような気がします。

  完治ってないじゃん
  この前呼ばれてさー
  お父さんもお母さんもいてさ
  どうしたらいい、つって
  男だからさ、よけいヤッカイ、女だとさ、まだ
  ウツとかだとガーッていっちゃうとそのまま死んじゃ
  うから
  あーゆうタイプだとさあ
  そもそもみんなよく生活できるよね、ヒトリダチして
  実家暮らしならわかるよ、頼れるし
  アンタちゃんとやってるじゃん
  別にヤバくはないんだけど、もともとビンボウだから
  仕事がなくなったら、とかはあるよ
  みんなけっこう危機感ないから、あるイミすごい
  若けりゃまだわかるけどさー、だからすごいわ
  1人暮らしで自分でやってかなきゃいけないワケで
  のほほんとしすぎもすごいなって
  アタシ今の金額でも危機感あったからね
  でも夜やってんじゃないの
  やってないでしょ、さすがに
  単純に危機感ないだけでしょ

 熱帯魚はそう言って、手持ちのタバコをくわえて火をつけました。アイスコーヒーの氷はとっくに溶けています。

  あとイヌとかネコの動画とかね
  地雷女No.10とかね
  病み入っちゃうやつだ
  あ、私はあと2年ぐらいしたら替わるからね
  あのジジイ消えるし
  ゼイキン上がっちゃって服とか買っちゃって
  いま月2万
  なんか言いにくいのかなー
  合わないからじゃない
  ウチももうあんま笑ってない、面白くないし
  へへっ
  でもあいづち返すと喜んでる
  ウレシイんじゃない
  そろそろメンドイかも
  だよね
  でも、かといって多くつくとかメリットないじゃん、
  どうせ
  店長さんも同じだわ
  まあ実際、客もどっちもどっちなとこあるし
  早番のさ、締めあるけどそもそもシカツモンダイじゃ
  ん?
  本人じゃないから
  部屋は?
  広いよ、めっちゃ
  住んでるワケじゃないっぽいけど
  でもカワイんだよ
  あのね、ハマサキアユミ+ヒトミ+、えーっと
  わかるそのへん、あとユイとか
  思った、でも言うほど若くない
  たぶんアタシのちょい下
  ミナミさん見た?
  見たー、ブスになってたよね、なんで?
  うわ
  写真うつりじゃなくて?
  なんかミナミさんいわく、あえてそう写ってるらしく
  て、え、なんで?って思う
  でも北口店の典型はみんな顔イジってるっていう
  どうしたらこうなんのかなってヤツばっかよね
  アレはゼッタイやってるから
  まあ根掘り葉掘りガッツリつかんでんだったらね
  でもミナミさんが言うにはアンザイさんね、ちょっと
  ネガティブすぎて引っぱられやすいみたい
  ソッチ系ね
  でも、そんなバチバチではないらしい
  あ、そうなんだ
  アタシも悪意があるワケではないから
  へえー
  思ったこと言ってるだけだから、わかって?
  あはは
  天敵になってイジメ始まると思う、ゼッタイ
  店長とか
  いまだに自分がイチバンだと思ってるから
  あのへんのプライドすごいよね
  どっちもおんなじコト言ってるから、マジでウケるわ
  関わりたくねー

 私は自分のところにあるミルクティーを、ゆっくりとかき混ぜていました。さっきからタバコの煙がこちらにじゃれついてきます。熱帯魚のほうからです。おかげでシャツがすっかり香ばしくなりました。喫煙ができる店も現代は貴重になっていますから、一向に構わないのです。それより、ずいぶん長いこと話しているのを聞いてしまいましたね。もっとも、熱帯魚たちの声が大きいので、聞き耳を立てる前に内容が筒抜けなのですが。

 壁掛け時計はたったいま15時をまわったところです。中央の大きめの円卓がさっき空いて、ちょうどそこに今来たばかりの男が4人座りました。うち3人はラフな格好で、迷彩柄のカーゴパンツが見事にお揃いです。まるで兄弟みたいです。残る1人はかっちりスーツ姿で真面目な出で立ちです。迷彩とスーツが3対1。カジュアルとフォーマルの親睦会みたいになっています。

  1回はお会いしておいたほうがいいかなと思いまして
  まちがいないです
  早速なんですけど、内訳とかあります?
  オカダさんの紹介で30から40ほど
  なるほど、何か希望はあります?
  2年前くらいは人脈でやってたんで、そのへんは上手
  く噛み合うかなって
  だいたいイメージがわかりながらも、表面にとどめて
  おくっていう
  協業し合ったほうが上手くいく気しますね
  はい、まちがいないです、まちがいないです

 迷彩サイドの1人があいづちのたびに、まちがいないです、と言うので、聞いている私にも間違いがないらしいことだけはよくわかります。スーツの男は、出された飲み物にも手を出さずにスラスラしゃべっています。迷彩も前のめりに参加します。私はゆっくり水を飲んでいます。

  まあ、1ヶ月はどうなるかわからないですけど
  春までは16前後でやってますけれども、夏までにこ
  のくらい売り上げであればいくらでも
  逆に自信持って行ったほうがラクかなと
  そこらへんは安心してもらって
  どっちがどうとかじゃなく協力してやれるといいかな
  と思いますね
  まちがいないです、ええ
  他には、何か
  あ、こっちは窓口かLINEの通話のURLでやろう
  と思ってるんですけども
  ああ、はい、いま見ましょうか
  ええ、お願いします
  おお、なるほどなるほど
  まあ、できてれば即日から入金になるとは思います
  ただアカウント自体の、その報酬を受け取る申請がク
  リアされていれば即日受け取れるんですけど、何かそ
  のへんでお手伝いできればお力になれるかもしれない
  です
  ああ、ぜひお願いします、ありがとうございます

 気づけば何かしら話がまとまったらしく、お会計、という声がしてバラバラ席を立ちます。面白いことに迷彩の3人、それからスーツ、4人でジャンケンを始めます。何ごとでしょう。あのヘンなあいづちを打つ迷彩が負けて、財布を出します。スーツはスーツで、「ああ、払いたかったなあ」と笑っています。思ったより気さくなスーツでした。4人はそのまま笑いながら戸を押して店を出ていきました。店には静けさが戻ったかというとそうでもなく、またさっきの熱帯魚が話に花を咲かせています。なお客足は衰えず、ウエイターもさっきからあっちにこっちに飛び回っています。

  アイス好きだからさ、冷蔵庫ガリガリ君だらけ
  ソーダ味の
  朝入って、食べてカラダ冷やして出勤すんの
  関東の人ってカラダ慣れてるから寒くないのよ
  でも寝らんないからさー、暑くて、ほんと暑い
  アタシ寝るとこクーラーなくて、クソ暑いのよ
  ウッソでしょ、なんで?
  同居人に持ってかれた
  兄?
  兄
  へーえ、そうゆうこともあんのね
  そうだマイちゃん新居だっけ、間取りは?
  そう、ユニットバスの、シンクがウケるのよ
  洗い物もトイレの横でやんのね
  部屋はすっごい広い、窓も
  ただ扉がこっち側だから、ちょっと開けづらいの
  そっか
  今日帰りは?
  アタシ大宮で降りるからさ
  あ、たぶんね、来月の17には戻し入ると思う
  アレ、アンちゃん11の時にアレだっけ
  11はね、休み
  2日は?
  2日の水曜は仕事、水曜日でもいいよー
  水はね、アタシ池袋いるから
  あとウメちゃんが会うよーってなったらそこにしよ
  そだね
  今日寒いわ、雨降ってるし
  ヒダカヤの横に傘売ってたよ、マツキヨ
  じゃ、それまでウチの入ってきな
  やさし、そこらじゅうに自分の置いてっちゃうから
  さ、日本中にあるわアタシの傘

 熱帯魚たちは帰り支度を始めました。散らかったタバコやポーチやカードケースが次々に、毛の生えたゴージャスな鞄に食べられていきます。それから3人はビーチパラソルみたいな立派な傘を開いて、雨に煙る繁華街へ泳いでいきました。店の中も嵐が去った心持ちです。心なしか雨足も穏やかになった気がします。15時36分。私は一旦、店の奥で用を足そうと立ち上がります。


 席へ戻ると、読みかけの本の下敷きにしていた灰皿が消えていました。黒くて円い灰皿です。私はタバコをやらないので、おそらく店員がさげてくれたのでしょう。あの上へ本を重ねた時の、絶妙な高さ加減がそこそこ気に入っていたので少し寂しいです。面倒臭い客だなあと思います。話は変わりますが、この場所からは店員の所作がよく見えます。元々さほど広い店ではないので、いまは男と女の2人しかおりません。が、どうやらこの男のほうが女に好意があるようで、気を引こうとしきりに接点を持とうとしている様子を見物できます。ここは特等の観客席です。

  コノミさん、退勤何時でしたっけ、6時10分?20
  分?
  20って言ったじゃないですか
  え、ああ、そうだっけ、じゃあ今度あがる時にでも行
  きましょうよ
  その時になったら考えます

 女は淡々とし、あまり笑みも見せずに返答します。その乾ききった物言い、毅然とした態度はもはや芸術の域です。ここまで明快につっぱねられると逆に興味を惹かれるのが男というもので、私はいまこの男にわずかな同情の念を抱かずにはいられません。そしてこの状況の不憫さすらもどこか滑稽に思えてきて、男を気の毒がる心と喜劇的な感情が押したり引いたりしています。結局のところ私は、ことの一部始終など見ていないフリをしてミルクティーの色を目で追い始めるのでした。ミルクティーの色合いが好きです。以前ミルクティーを飲みながら、この色は雨上がりの公園にできた水たまりの泥水みたいで綺麗だねえと口にしたら、それは人前で言わないほうがいいと忠告を受けました。

 しばらくして、Tシャツに短パンの男が2人、ドカドカと店へ入って来て入り口に近いところへ座りました。

  ちょうどお盆だったんですけど、隔離期間だったんで
  絶対無理だろうと
  実家に電話して、一昨日着れましたよ
  あ、アイスでいいですか?
  ええ
  ウチに入ると、危険を冒すようなことさせなくなっ
  ちゃうんで
  何なんすかね、プライド高くなっちゃうんすかね
  ボクらと面白がってる部分が違くて
  基本的には、ちょっとコミュ障ですもんねえ
  そうそう、ナオキさんの、あのロマンスグレーのやつ
  ああ、ありましたね
  アレも結局、なしで
  ええ?
  だから、さすがに語気強めて、そうしたらかろうじて
  謝ってきて
  はあ
  もう遅いよって感じなんですけど
  なんか感覚がわかんないっていうか
  まあ良い意味でも悪い意味でも他人に興味ないってい
  うか
  自分の部下でもない人に口出ししないっすもん
  さすがにこの前、そこに触れたんですけど
  そしたら「だって、何を期待してるの?」って返って
  きて
  うわ
  天才的だわこの人、ってなって
  まあそうだよねえ
  ムトウさんの部署もたまにいますよね、そういう人
  あー、たしかに
  年代も年代なワケよ
  人間性を変えてかないと
  でもまあ、ぶっちゃけ、学校じゃないんで
  たしかに
  教育の場じゃないんで、そこまではさすがに
  言ったら言ったで人間性正面から否定しちゃうみたい
  になってムズカシイですもん
  だから別に何でもよくない?ってなって、いまに至り
  ますよ
  はあ
  お前は雇われてんだから、オレらと一緒にすんなって
  思って
  なんか勘違いしちゃってるんですよね
  はあ
  なんか簡単にできるとか捉えられてて
  はあ
  そういう文言で来るから、既に

 脱いだサンダルの上に裸足をのせて、貧乏ゆすりをしているのが見えます。その振動が伝わってテーブルが小刻みに震えます。私は瓶に挿されたドライフラワーの束を眺めています。

 ふわりと戸が開いて、また来客です。女が1人カウンターに歩いてきて、私の右隣にドサリと腰を下ろしました。シルバーの髪に泣きはらしたような赤い目元、これが噂に聞く地雷メイクとかいうものでしょうか。オーダーを済ませ、獅子の如き勢いでLINEの返信を返しています。驚くべき指さばきです。スマートフォンの早文字打ち王座決定戦が開催されればおそらく首位でしょう。膝にのせたバッグには何かのアニメキャラクターの缶バッジがびっしりと隙間なく取り付けられています。そのせいでバッグ自体が金属性の光沢を帯びています。これでは元々がどんな色かたちをしているか見当もつきません。

 時刻は16時を過ぎたところです。入り口のあたりからやたら声の大きい男の声が聞こえてきます。

  ちょっといま来てます
  いえ、すぐ終わりますよ
  はい、はい
  はあ、ほお、おっほっほ
  ええ
  プロトタイプですかあ

 腰に手を当てて仁王立ちをしている大柄な男がいます。頭にはサングラス、派手なフラミンゴが2匹描かれたポロシャツを着た、パンチパーマ男です。飲みかけのコーラを置いたまま、何やら話し込んでいます。私はその様子を絵に描こうと、ペンを握っています。横では地雷女がトーストを食べています。時おり、絵の出来栄えが気になるのか、チラチラと手帖を覗く視線を送ってきます。私はそれを手の甲で少し隠すようにしながら描いています。トーストを半分くれたら見せてやってもいいですよ。しばらくすると、彼女は化粧を始めています。道具の入ったポーチやキーケース、それからタバコ、スマホのライトは付けっぱなしです。あらゆるものが机に陳列され、領土を拡大してこちらへ侵攻してきます。いまが2021年以前で、机の上に感染対策のアクリルパーテーションがなければ、私の作業スペースはとっくに奪われていたでしょう。そろそろ交代の時間なのか、別な店員が店へ来ました。既にいた女のほうがもう帰るらしく、何やら慌ただしくしています。

  あの、フジタさん
  はい?
  レジに2500円あって、伝票は別になってて
  最後に伝票見たら気づくんですけど、2500円って
  打ってなくて
  売り上げが合わなくなっちゃうんで
  ああ、最後に先週言ってた気がする
  見ときますね
  ありがとうございます
  雨は?
  もうすぐ止みますよ、めっちゃ降ってたけど
  じゃ、お疲れ様です
  お疲れ様です

 女が店の裏から帰っていくのと、ほぼ入れ違うように別な女が来て仕事を交代しました。男のほうも、その少し後で出ていったので、さっきまでとは違う男女2名が店番をしています。店はいま、心地よい騒がしさに包まれています。

  ケーキすごいね、評判いい
  ね、ウーバーのでしょ
  ここ最近そうじゃない?同じ方かと思ってた、注文
  6500円でしょ、2日連続
  そんなに使ってるってことだよね、ケーキに
  7000円近くね
  なんか、その、それはもうケーキ屋さんで買ったほう
  が安いよね
  はは、それはそうでしょう
  こんな喫茶店のちっちゃいケーキ、嬉しいけど
  そういえば来週からリーダーなんだボク
  6月からでしょ、ヤマダさんから聞いた
  そうそう
  あの、その悪気はないんだけどさ
  うん
  リーさん、言ったこと忘れちゃうから、時が経ったら
  また教えたげて
  うん、この前少し教えた
  ホットラテのプリンは真ん中にポーンと入れちゃうと
  か、アイスティーのやつ洗い忘れたりとか
  ラテはこの間少し怒っちゃった
  まあ、その都度ね、覚えていくしかないから
  この前パスタ、初めてだったらしいね
  誰から聞いたの?
  ええと、チョウさんから
  そっか、この皿どうしたの?
  それ、ちょっと欠けてて、チョウさんが見つけて
  あ、危ないのもあるけど
  お客さん用は、分けておかないとね

 お会計お願いします、という客の声が聞こえ、女のほうが700円になりますと答えます。店員同士のやりとりがよく聞こえる席です。先ほどのフラミンゴ男のところに女の連れが来ていて、何やら食べながら話しています。チーズトースト二つとチーズケーキ、アイスラテ。じつに4分の3がチーズです。

  すごいね池袋は、駅の近くだから
  やっぱり歯抜かなきゃダメって言われて
  穴を貫通して、そこまで進んでたんだって
  ワタシも毎週歯医者行くよ
  治してんの?ケアしてんの?親知らずのやつ
  いやもう全然終わんないの
  オレもさあ、歯医者嫌いだからさ
  行く時決めないと大がかりになっちゃうから
  先週の月曜日もそう、5年ぶり

 冷えた空気の漂う今日は、客が逃げ込むように店へ入って来ます。平年より早い梅雨の入りは、水分を多く含んだ大気を運んできます。外に比べて、ここはコーヒーの香りが温かいです。

  ウチのお兄ちゃんはさ、そんなにガーガー言う人じゃ
  ないからさ
  のんびり屋さんな印象だな
  痩せてるし、ガミガミ言うし
  ワガママ全開だしね
  いや、だから悪いことしたなあって
  ウチの父もスイゾウガンで死んじゃった
  でもさあ、不安だったワケじゃん
  何回も言われてたんでしょ
  うん、何回ももう、お医者さんにダメですって
  お母さんが気の小さい人で
  死に対してってこと?
  そう、もう何回もダメですって言われて、涙を流して
  たよ
  人はこのくらいで死ぬのよ、結局
  あなたがサバサバしすぎなんだってば
  で、1回入院して
  もうどうするかってとこまでいって
  だけどお父さんは、他の病院では手に負えないけど、
  望みがあるっていうもんだから
  お母さんは今のとこが最後まで診てほしいって言って
  はあ
  最後まで泊まり込んで、映画とか観ててね
  すばらしいね
  お母さん、お仕事は?
  いや、やめて、観光業のほうだったんだけど、退職に
  なっちゃって
  その時同僚の人に面白い人がいて、いやもうお母さん
  が辞めるならオレも辞めるよ、って言って
  辞めて、今朝もその人に電話してた
  で、おいくつだったの?
  63
  じゃ、十何年間?
  10年間闘病してたの、こっちいるほうがラクだから
  って
  で、年明け従兄弟に電話して
  はあ、そうだったんだ
  カラダは正直なのかね、まあでも良かったけど

 雨が止み始めて、地雷女がバッグを抱えるようにして店を出ていきました。もう17時です。裏口から外に、段ボールか何かを捨てにいった店の女が戻ってきました。

  めっちゃ寒いです
  来る時暑かったのに、いつもボク暑いって言うじゃ
  ん、寒い
  今日寒い、風も強かったし
  あ、そっち、アイスコーヒーお願いします
  はい
  紅茶用の小さいカップにミルクもお願いします、アイ
  スラテも1つ
  ええ
  あれ、あそこの卓の
  あら、お客様、道具忘れちゃってる
  来るかな
  たぶんね

 見ると、さっきの地雷女のポーチです。おおよそ化粧道具か何かでしょう。角砂糖の瓶やメニューが置かれた卓上の風景に溶け込んで、あたかもはじめからそこの一部であったかのように佇んでいます。たぶん大事なものなので、気がついてまた店に戻ってくるだろうと、店員も私も予想します。

 はたして彼女は戻ってきました。店員に低めの声ですんません、と申し訳なさげにポーチを受けとって、また急ぎ足で出ていきました。なんだかほっとしました。店員の会話は続きます。

  フジタさん
  ん?
  学校行きたくない
  学校?
  学校行きたくない、働くほうがいい
  働くほうがいいか、まあ、ボクもだよ
  学校楽しくないの?友達できた?
  学校友達いないから、特に何もないんです、学校楽し
  くない
  何の勉強してるの、いま
  えと、ホテルとか、あとは英語、チェックインプリー
  ズ、502プリーズ
  すごいじゃん、ボク英語わかんないから
  そうなんですか
  自分の年、選択になくて、あ、いらっしゃいませ
  いらっしゃいませ
  入り口でアルコールお願いします

 私は、幼い頃に作ったビオトープをぼんやりと思い出していました。ベランダに置いた素焼きの鉢に砂利と水を入れて、水草、小石、そこにメダカやタニシ、エビの子どもなんかを住ませます。水草は太陽の光を受けて光合成を始めます。メダカは水にわいたボウフラをパクリと食べます。タニシやエビは、砂利の中の有機物を口にします。素焼きの中には一つの生態系の流れが生まれて、ゆっくり循環していきます。その生命の循環は、小さな地球を見ているようです。これがビオトープというものです。人間がそれ以上手を加えなくても、あとは中の生き物同士でうまくやっていくのです。そして、ビオトープには、鉢の外からも様々な生命がやってきます。トンボが翔んできて卵を産みつけます。風に乗ってプランクトンが運ばれてきます。アメンボが水面を泳ぎだします。そうやって、新しい生き物がやってきたり、生命が産まれたり、食べたり食べられたりしても、ビオトープの中は終始おだやかに循環しつづけます。来るものを受け入れ、そこにいる生き物と共に、静かに調和を保ちつづけているのです。

 なぜこんな話をしたのかとあなたは不思議がるでしょう。それは、喫茶店というものが、ビオトープなんじゃないかと思ったからなのです。店にはいろいろな人間がやって来て、生きかたも見た目も様々です。会話が飛び交い、テーブルでは陽気な笑い声や悲しそうな表情なんかもあったりして、すべての感情が空間に溶け込んでいくようです。いつも店にいる人間の種類は違うのに、何曜日何時に行っても店はほっとするような温かさです。その理由は、喫茶店があの素焼きの鉢の中の世界と同じように、調和と循環の小宇宙だからなんじゃないかと私はその日思ったのでした。

 その中で私は、他人の会話なぞに耳を傾けて、何の役に立つのかもわからない文章を書いている奇妙な生き物にすぎません。そして、そのようなヘンテコな生き物にも、ここはたいへん居心地がよいのでした。



(4)へつづく

※このnoteには文庫本『カタツムリと悪癖』の本文原稿の一部を掲載しています。マガジンからバックナンバーがご覧いただけます。この物語は実体験にもとづくノンフィクションですが、登場する人物名などは、すべて仮名にしています。

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