カタツムリと悪癖 (2) オブラート・サンドウィッチ・パーティー
オブラート・サンドウィッチ・パーティー
午前中は歯医者へ行き、抜かなければいけないと恐々としていた親知らずが実は大したことがないのがわかって安堵しました。ひと足先に予定から解放されたので、また例の喫茶店まで歩きます。前回はカフェインを摂りすぎたせいか、夜になっても心臓がドキドキして寝つけませんでした。どうやら私はカフェインもアルコールも効きが良すぎる体質のようで、友人にそれを話すとコストパフォーマンスが良いじゃないか、実に羨ましいと言われました。価値観は多様です。
さて昼時です。私はオレンジジュースとサンドウィッチをオーダーして席につきました。この時間は客の出入りが忙しいです。がやがやとしています。私はゆっくりストローをかき回して、三島由紀夫の不道徳教育講座をテーブルに置いてみせました。これを読むぞ、という姿勢を周囲にアピールしておきます。愚かですね。
11時41分。ネイビーのスーツに身を包んだ男が3人ほど目の前のテーブルを囲みました。全員もれなく短髪で元気そうに見えます。先輩が後輩二人に筋トレの何たるかを説いています。
筋トレもさあ、フツーに運動してるだけじゃ落ちない
からね
ヤマモトさんも最近走ってるらしいですよ
いや走ってるだけじゃダメだから、総合的にやんない
とダメだからね
そうして先輩は自分のアイスコーヒーにシロップをたっぷり入れていきます。しっかり運動をして、しっかり糖分を摂っていくスタイルです。人間味があってなかなか素敵なセンパイです。
ショウタね、昨日の子供の迎えで来れなくて
やっぱ全然違うね、中盤以降の進みが
カワタさんは?
いやもう存在感ゼロ
全て違うってくらい修正ばっかしよ
てかさ、行った?新しいワーキングスペース
いやまだっす
短い会話を挟んだかと思えば、3人とも間髪入れずにドリンクを飲み干して、ドタバタと席を立って行ってしまいました。
11時56分。窓側のテーブルで女学生2人が勉強会を開いています。いっぱいに広げられた参考書のページとプリントで机は真っ白です。その上にお菓子とパンが点在しています。
まじわかんないんだけど
ねー
え、すごーい、めちゃいっぱい字書いてあんじゃん
今ね、40個、応用発展とその公式みたいなやつ
標準はまだやってない
やば、数学でしょ、わたし8割いかなかった
ウチは数理と、あとリスニングやんなきゃ
文法は?
あ、熟語はちゃんと並行してやってるから
すごーい
てかこの前ね、模試だったんだけど符号まちがえてて
ね、まだ時間あんじゃんって余裕かましてたら、公式
からまちがえてて萎えた
えーやば
てかすぐにスマホ見ちゃう
わかるー
突然おしゃべりが始まったかと思えば、すぐ静かにノートに向かい、また顔を上げてしゃべって笑って、そのせわしないリズムの繰り返しです。勉学に励んでいたらお腹も空いてきます。さらにオーダーを追加して、サンドウィッチにクロワッサンも机に並びます。これではもう勉強どころではありません。ちょっとしたパーティーです。店が開けます。何はともあれ美味しそうです。楽しそうなのは良いことでしょう。私も自分のサンドウィッチに手をつけます。
喫茶店で食べるサンドウィッチは、他で食べるより数倍ウマイと思うのは私だけでしょうか。昔、サンドウィッチを分解したことがあります。パンを剥がして中のレタスやトマト、ハムやタマゴのソースなんかを全部バラバラにします。分解されて皿の上に並べられた材料たちを見てみると、ひとつひとつは大したことはない食材たちなのです。しかし、それらがサンドウィッチとして一体となると話は別です。複数の食感が合わさった唯一無二の食べ物になります。食材の数式は足し算ではなく掛け算なのです。そしてこのサンドウィッチに、昼時の喫茶店というシチュエーションを掛け算してあげると、なんとも贅沢な体験が出来上がるというワケです。ちょっといいことをしているという錯覚に陥れます。人はかくも騙されやすく幸せなイキモノなのです。
12時20分。平日はこの時間がいちばん、人の出入りが激しい気がします。2人組の女が社員証を首からぶら下げて、しゃべりながらクロワッサンを食べています。横ではアイスカフェオレがグラスに汗をかいています。
ジンさんとあたしだんだん話し合い始めてきたよ
ジンさん相変わらず言い方ひどいけど
ふふふ
全然オブラートに包んでくれないんだもん
えっへっへ
そう言いながら目を細めてため息をついていますが、頬が緩んでいます。たぶん、これはまんざらでもない感じのため息です。聞いているほうは手を口でおさえてコンパクトに笑っています。
この前4人でミーティングした時も、みんな舵取んな
いから、これあたしがミュートにしたら終わるやんっ
てなって
ふっふっふ
みんな17時にはブレイクしたいから、今日はここま
で話そうって言ってるのに、全然ハナシ進まないんだ
もん
あー
でも、リサさんとはこないだランチ行ったよ
リサさんね、どうだった?
気使わなくてよくてラクだった
他の人とだったらあたしライフゼロになるわ
はは
マツシタさんと残った時も、あの人あーでもないこー
でもないって、なかなか片付かなくて
たしかにそういうとこあるかも
で、その日はけっこう残った
てか今日のユリさんのくつしたかわいくない?
ライトな愚痴と愛想笑いは、ほろ苦い社会人の味わいです。イライラには冷たいアイスカフェオレがよく効きます。カランと涼しい音があちこちでするのは、この蒸し暑い陽気のせいでしょう。誰しもがほどよい冷たさを欲しているのです。
私はというと、今じっと床を見つめています。実は、この店の間取りをぜひとも手帖に描き写したく思い、さっきから床に敷かれたタイルを数えているのですが、下ばかり見て首を動かしているので床にモノでも落とした風に思われています。それでもいっこうにモノも拾わず、下をのぞいては何やら必死に描いているので怪しまれかねません。気のせいか視線が冷たいような気がします。冷ややかなのはドリンクだけにしてほしいものです。いや失敬、見取り図ができました。満足のいく出来です。今日はもうすることもないので帰ろうかと思います。ずっと居座っていてはいよいよヘンですから。
(3)へつづく
※このnoteには文庫本『カタツムリと悪癖』の本文原稿の一部を掲載しています。マガジンからバックナンバーがご覧いただけます。この物語は実体験にもとづくノンフィクションですが、登場する人物名などは、すべて仮名にしています。
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