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カタツムリと悪癖 (8) ドライメンソールな愛、リーズナブル人生

ドライメンソールな愛、リーズナブル人生


 翌週の土曜日。休日は人が多いです。目につく人はみんな、誰かとどこかへ行くために外へ出てきている人です。人が複数いるとどうなるでしょう。そうです。人はおしゃべりを始めます。おしゃべりは楽しいですから、どこか落ち着いた場所でゆっくり楽しみたいと考えるでしょう。考えることはみんな同じです。喫茶店の前に長い列ができるのはそういうわけです。駅前の店はどこも人でごった返しています。2リットルの梅酒瓶に詰められた南高梅みたいに、ガラス張りの建物の中はぎゅうぎゅうの満員です。もうこれ以上入らないんじゃないかと思われる店の中へ、新たな客が果敢にも突進していきます。その勇気には敬服せざるをえません。

 とは言っても、こういうことが起きるのは比較的リーズナブルなチェーンの店です。これは私の個人的な調査に基づく研究結果にすぎませんが、喫茶店はその価格帯によって、大まかな客層と平均的な滞在時間、客が出入りする頻度などが予測できます。単純に価格が安いほど滞在時間は短く、客が頻繁に店を出入りする傾向にあります。そこから価格が上がるにつれ、客たちはゆっくり長く居座るようになり、人の循環はよりゆったりしたものになっていきます。もちろん、立地条件をはじめ、チェーンか個人経営かによっても状況は様々で例外もありますが、価格が店の空間における環境をある種決定づけているのは面白がるべき事実と言えるでしょう。

 そういう見方でいくと、私のよく訪れるあの店は中の上くらいでしょうか。安くはないけどよほど高すぎるということもなく、経営は個人でやっています。中は狭いですが居心地は良く、立地に関しても、駅からほどよい距離で近くには繁華街もあります。外観はおよそ地味で初めて入るのには少し勇気がいるでしょう。以上が店のざっくりとした状況で、この絶妙な諸条件のバランスを私はすこぶる気に入っています。今日は土曜ですが、あそこはチェーンみたく人が殺到するというほどでもないはずです。人は好きですが人が多いのは嫌いです。仮に私が魚だとして、美しい清流を目指すよりは、ほどよい濁り具合の流れを探すでしょう。少し淀んでいて身を隠す暗がりのある水域が性に合っています。喫茶店選びにつけても同じことが言える気がします。ですから、いつものあの店へいきます。

 いざ行ってみると、思った以上の盛況です。危うく外で待たされるところでした。ちょうど2人連れが店を出たのと入れ替わるかたちで、私は席に通されました。先日と同じ大きな円卓で、店内がぐるっと見渡せます。14時49分。今まででいちばん混んでいます。もはや他へ行く気力もありませんし、いまはどこも同じ具合ですから諦めます。ちょうど私の後に3組ほど新たな客が来たのですが、あいにくの満席です。座れただけで運が良いはずです。店員が店の奥から椅子を出してきて、表通りに置きます。コーヒーサイフォンは相変わらず一定のリズムで滴っています。向かいの男が、スパゲッティをフォークで器用に巻きながら、スマホを横にしてネットフリックスを観ています。昭和な店内で平成生まれの男が令和な休日を過ごしているのは、どこか粋にも感じられて、私は緩くため息をつきました。

 隣のテーブルに男の集団がいて、ワイワイと盛り上がっています。

  でも全然歌えるようになってますよね
  やっぱ5人のアレンジって難しいですよね
  1人のアレがうすくなっちゃうっていうか
  高いから出しにくいですよね
  ファースト楽しいっすけどね
  曲どうする?
  バンドのコンセプトも決まったし
  これでしぼりやすくなったっていうか
  誰も共感できない解釈をしていく
  カレーとか
  やっぱ肉じゃがじゃないですか
  いやボクは塩派です
  MCとの解釈の差はあるじゃないですか
  それに対するアンチテーゼとか
  藤井風は全体的にムズそう
  藤井やっぱスゲえな
  青春病けっこう推し
  なんかさ、男だけで青春病歌うの良くない?
  わかる
  これ以外とフツーにできそう
  音数が少ないほうが、アレンジしにくい気がする
  プロがこんなにシンプルに作ってるのに、オレらが音
  足す?みたいな
  まあ結論やってみんとわからん
  サイアクお蔵入りすればいいから
  青春病に1票
  じゃ、オレも1票
  うん、まあ
  すぐ決まんじゃん
  ほんとに
  じゃあ、いいすか?
  もう喉元過ぎれば、議論する気もなくなりますよね
  小銭ある?
  小銭ね、ないや
  音源のほうがいいね
  今ソレ聞いて思った
  3500円で
  ごちそうさまです
  ありがとう
  ほい

 アイスティーをストローでかき混ぜる時の、ガラスと氷のぶつかり合う音が好きです。氷の寿命はそう永くはありませんから、ひとときの悦楽です。人は時に飲み物を液体としてではなく、音として楽しむのです。

 女が2人、左側のテーブルに座ります。髪の長いほうはグレーとパープルのビンテージサテンの服を身にまとっていて、もう1人はサングラスを胸元から下げて脚を組みます。サングラスのほうが、女が使うにしては重厚感のある、ごつめのジッポーライターでタバコに火をつけました。

  えー、ユイさんにLINEしようかな
  でもくだらないな、やめよ
  今日のとかログインしてないから
  消しちゃったかもしれない
  はあ
  契約、してきたよ
  あ、契約ってアレか、家の
  家のだよ
  いいなー
  代々木上原で申請出すけど、公園のほうが近い
  上原、芸能人多いらしいよ
  え、そうなん?
  でも前のとこもいたわ
  そっか
  アイスコーヒーかなあ
  すいません、水出しのコーヒー二つで
  あと灰皿もらってもいいですか
  ふう
  あ、これあげるよ
  スゴー、顔入るんだ
  展示会とかでも今マスクだからさ
  顔入るといいですね、って話してたの
  めっちゃ捻らされた
  なんか肩幅が広いからさー
  はは
  もうちょいイケる、とか言われて
  ギリギリ入らないのよね、ごめん
  いいよ

 組んで上に乗せた脚をぶらつかせながら気怠げに吐き出した煙が、換気扇に細長く吸い込まれていきます。その様子は何か別の意思を持った生き物のようで、クネクネと胴体をくねらせながら店の上空にたなびいています。もう1人の女は、サテンの袖元を外側に折り返しながら、アイスコーヒーのストローをくわえています。

  いろいろ勘違いされてる
  アルちゃんと家行った時に「コーヘイって誰?」とか
  言われて
  いや全然知らないし
  リエさん狙われてますよ、って、さっきアヤから連絡
  来た
  アイツか
  そうよ
  仕事以外の仕事があるのよ
  だから10時に寝た
  疲れすぎて
  肌のこと、カヨさんに話してくるから、って言って
  バイバイして
  なんか、エクセルが機会にあって、わかんなくて
  エクセル、マジでやったほうがいいよ、ほんっとに
  じゃないと業務時間外にやることになるよ
  2万件近くデータがあるからさ
  全部、アレ、関数とか
  営業?
  そう
  営業か、キツイぞー
  ましてや地方なんて、アタシの倍はあるよ
  1日70件でコレだかんね、この顔の死に具合
  ひたすら書きまくる、そういう世界だから
  バイトも、ワーポとかのバイトをやっといたほうがイ
  イと思う
  しゃべりかたがジョウゼツなだけで違うから
  最初の1ヶ月はマジでキツイよ
  それはそれでキツイけど、ミス何も咎められないし、
  自分の練習だと思って
  あと、イシイさんがさー
  ワタシは仲良いとは思ってないんだけど
  酔っぱらってめちゃ口軽い同い年の子に言っちゃって
  その子が言っちゃったの
  えー、ヤバイじゃんカナ!
  で、その子がイジメられたっていう
  マジやっちゃったね
  やっちゃった

 私は傍らで、何の気無しにインスタグラムを開きます。たいして見もしないのに画面をスクロールしながら、指先の運動とは脈絡のない思案に暮れています。

 喫茶店に来る2人組の客、というのはたくさんいます。ですが、その2人の関係性というものは一様ではないようで、親密な者同士な場合もあれば、それほど仲は良くないが所属を同じくする者同士、商売のパートナー同士、はたまた敵同士なんてこともざらにあります。それぞれがそれぞれの目的で時間を共にする場所として、この店は機能しているのです。そして、人間同士の関係性というのは会話を聞いていると面白いようによくわかってきます。この2人は何を人生の優先事項とし、何に共感し、誰に敵意を向けているのか、そういった最大公約数的な人間模様の一致から、あらゆることが推測できます。もちろん、直接真相を尋ねて答え合わせをすることはできませんから、あくまで妄想の域を出ないのですが、ここで繰り広げられる会話には、各人の思っている以上にその人自身の行動傾向や心理的特性が溶け出しているような気がするのです。

 そんなことを考えながら、もう一度スマートフォンの画面に目をやります。タイムライン上に流れ続ける誰かと誰かのツーショットには会話はないですから、写真の2人が本当はどういう関係性なのかを紐解く手立てがありません。そういう点で言えば、喫茶店での会話は、写真よりも写実的に人間の現実を映し出す面白い題材なのかもしれません。女たちはまだ横で話しています。

  銀座はどう?
  まず、めちゃくちゃ高いヒール履くから歩けないワケ
  客層も高すぎて
  話すことねえよな、ジジイと
  気疲れしそう
  でも、チップだけで、15万とか
  いやー、もう働けないよ?フツーの会社で
  でも年取るとやっぱり、アレやコレやもらえなくなる
  から
  若いうちにしんどい経験しとかないと
  何十年後かを考えた時に
  うん
  だから、ワープロとか、エクセルとかもね
  テキーラだけでも飲んで吐いたし
  やべーな
  そろそろ死ぬ
  いろいろ金作って辞めたら?
  店の男もヤバイ
  アレはヤバイ、ミスター独占欲
  早く辞めないとほんとにマズい
  ナオ先輩に言ったの?
  いや、どこがつながってるかわからないから
  たしかに
  意味わかんないとこから漏れるよね
  マテ茶とか言ったら終わるよね
  向こうが何も知らないパターンもあるじゃん
  そうなったらもう、何話すかわからないから
  てかトイレ行きたいんだけど
  行ってくれば?

 ビンテージサテンの女が席を立ったのを横目で見送ると、奥の壁に能面と扇子が飾られているのが見えます。その壁一面だけが室町時代のテイストを醸しています。隣にはゴシックな柱時計があります。文字盤はギリシャ文字で記され、荘厳な木造りの装いは、大きなノッポの古時計を思わせます。どちらも店主の趣味でしょうか。和洋折衷がレトロな内装に収まっているのも、人種のるつぼみたいなこの店の性格と重なります。般若の能面と目を合わせていると、まもなくして女が戻ってきます。

  はあー
  なんか、いいとこないかなー
  きしし
  てか、わざわざ見せてくるあたり、もうまんざらでも
  ないよな
  好きとかそういうハナシじゃなくて、こっちのプライ
  ドの問題
  コケにされてる感じ
  変な番号から電話かかってきたと思ったら保健所から
  でさ
  なんか納税の医療費分がどうたらこうたらで
  そしたらあの男がまた、「仕事どうなの?」とか来て
  うわ
  DMも全ブロックして
  ほんとに、どいつもこいつも
  そういう優しさいらないから、失せろ
  コロナ退院して1週間で聞いてくるあたりだよね
  日本人でもないし
  もうなんか、怒涛だったわ
  まちがいないね
  はあー、クソが
  クソしかいねえよ
  なんか、カッコいいエンジニアの人いねーかなー
  ウチの知り合いにCさんっていう、プログラマー?っ
  ていうのかな、役員の下だからけっこう偉いらしくて
  えー
  カッコいいの顔、でも背低いの
  外人?
  たしかシェルビーさん、だったっけな、名前もカッコ
  いいじゃん、なんか
  顔はワンディーのゼインに似てる、でも背がな
  そこ、引っかかるんだ
  そこは譲れない
  妥協すんのは30代入ってからかな
  日本人ならアレだけど、外人で低いのは無理
  身長くらいはこだわらせて
  180で、経済力あって
  ワタシはそのへん妥協してるわ
  いいじゃん、一生レンコンで
  はは
  農家人気じゃん今
  言いかた
  なんか食料がアレじゃん、自給自足的な
  それはウケる

 窓ガラス越しに、隣のつけ麺屋の暖簾が見えています。昼過ぎなのもあって、次から次へと客が吸い込まれていきます。そろそろ冷やし中華が食べたくなる時分です。さっきの話の、背の低い外国の男のことを頭の片隅で想いながら、私は冷やし中華のことを考えていました。

 昔、友人と冷やし中華を食べた時のことです。場所はたしか横須賀でした。彼女は無類の麺類好きで、面食いならぬ自称麺食いなどと豪語している無邪気な人です。その日、店の壁には大きな赤い字で「冷やし中華始めました」とあったものですから、我々は勇んでこれを頼み、はたして見事な色合いの立派な冷やし中華と顔合わせを成したのでした。目を見張るばかりに輝く黄金の錦糸卵に、瑞々しく青々としたきゅうりの細切り、柔らかに佇むハム、そして鮮やかに視線を釘付けにする真っ赤なトマト。その色彩のどれか1つでも欠けてしまえば即刻アイデンティティを失いかねない、そう私に言わしめるほど完璧な調和を保った、それはもう美しい冷やし中華でした。彼女は割り箸を2膳取って1つをこちらによこし、軽快な箸捌きで最初の一口を演出するかに思えました。が、実際のところそうではなく、箸の先端で器用にトマトだけをつまみ上げ、私の冷やし中華の頂に載せて、こう言ったのでした。
「あたしトマト無理なんだ」


 そのことをどうしてか思い出しました。たしかあの時、トマトが少し気の毒に思えたような気がします。この世にはトマトを受け入れる人間と受け入れることのできない人間がいる、私は自分たちがそういう淡々とした事実の世界で生きているということを思い知り、その記憶をさっきの会話で呼び起こしたのかもしれません。サテンの女は白い箱からもう1本タバコを抜きます。

  昨日もタバコ吸って、テキーラ飲んで
  ヤベーなおまえは
  吐かなきゃと思って手突っ込んだら血出てきて
  ほぼ原液だから水分量足りないでしょ
  その時も吐けなくて
  うわー、キツイね
  そのまま帰って、化粧落として寝た
  夜中にパッと起きたら、めちゃめちゃ酔っぱらってて
  アタシはもう一滴も飲んでない
  おつまみと水だけでいい
  いやそう、マジいらない
  具合も悪くなるし、サイアクな気持ちになる
  酒飲める人たちと一緒にいるのしんどいな
  マジでいらん、お酒の雰囲気は好きだけど
  カシスオレンジとか、1杯でいいな
  この前も遊んで、大手町の
  飲みたそうにしてて
  なんかかわいそうになっちゃって
  一緒に3杯くらいやって
  帰ってすぐ水飲んで、ゲロ吐いた
  すぐ吐けるならまだいいよね
  完全にお父さんの血を引き継いでる
  でた、アヤコパパの
  もう全部、肝臓とか、弱いのとか
  いいよ、酒はもう
  自我を失うのが怖い
  それな
  金欠になっちゃう
  梅酒ってさ、壊れない?
  よくやってたわワタシ、12時から飲んで翌朝まで、
  とか
  湘南まで行って夕方までだよ?アホねえ
  だから若さってすごいなって
  今10時には寝てんだよ、考えられる?

 15時57分。私の横で、黒縁の眼鏡にキャップをかぶった男がワイヤレスイヤホンをつけながらスマホで囲碁を打っていて、顎の下でウインナーコーヒーが湯気を立てています。テーブルはどこも埋まっていて、その間を飛び回るように店員の男が行ったり来たりしています。右斜め前のテーブルに女が2人いて、そこへモカトルテとティラミスが運ばれます。ダークブラウンと抹茶色の三角柱を前に女たちがはしゃいでいます。椅子の下には大量のグッズが入ったピンクの紙袋が置いてあります。

  インカメにしてた
  めっちゃ自分映る
  いいね、ここ
  ねえ
  おいしそー
  よいしょ
  ん、おいしい
  いいねえ
  どこまで行ったんだろうね
  いいなー
  年季の入ったプリン屋あってね
  固めでね、おいしそうだった
  柔らかさ具合も
  外で待ってるね、人が
  人気なんだね、ここ
  あのさ、土曜日なんだけどさあ
  フジが「明日仕事かー」って
  え、今日土曜でしょ、何言ってんの
  あ、雑草
  ネーミングセンス良すぎるよね
  ただ、あそこまでいくと観るのに勇気いるんだよね
  選択できないよって
  でもめっちゃ好き
  めっちゃ好きなんだ、ウケる
  なんでだろうね、ワタシの推しは早々に死んだ
  なんでだろ、でもいちばん最初に死んだのはミシマ先
  生だよ
  ウチも昨日、観るの怖くてキヨの動画に逃げた
  なんでよー
  怖すぎとかじゃなくて、よくコレをやったなって
  このサムネ無理、ホントに無理なんだが
  ワタシはこのテイスト好きだよ
  えー、この時点で怖いよ
  1回観てみ

 どちらの女もゴシックアンドロリータ調のフリルのある黒服を着ています。街中で歩いていたら目立ちそうですが、この懐古趣味な空間ではかえって統一されたファッションスタイルが映えています。場面に合わせた服装を着るという発想はもはや前時代的で古い価値観なのかもしれませんし、彼女らを見てそんな情が湧いたのでした。今の時代に、好きな格好をして好きな場所に赴くのはもはや当たり前だということです。それに今日は土曜日ですから。

 この、「好きに生きる」という行動指針は服装だけにとどまらず、あらゆる場面において反映されるべきものでしょう。言われてみれば至極当然のことなのですが、かくいう私はどうしても、まだ何かに対して遠慮するような恥じらいや、その振る舞いが他人の目にどう映るのかを、無意識のうちに考えてしまいます。己の自尊心を臆病にかわいがるあまり、なるべく自分の言動が他人のセンサーに反応しないように、最新の注意を払ってしまうのです。物語の主人公でありつづける勇気はなく、ことあるごとに村人Aとしてその場をやり過ごす狡猾さです。その目的のためなら、多少自分の欲求をないがしろにしてもかまわないという不思議な覚悟すらあります。その能力はこれまでの人生でかなり役に立った、というのもまた事実です。バランスをとる能力とでもいうのでしょうか、波風を立てずに世の中を渡り歩く平衡感覚、その器用さの一切を捨てずに生きてきました。

 私は喫茶店で他人の会話を聞きつづけて、会話に溶け出した各人の価値観みたいなものに数多く触れてきました。その中で否が応でも明らかになった1つの事実が、
「人は他人にどう見られるかを気にして生きている」
ということでした。年齢性別生まれ関係なく、ほぼ全ての人間が他人の目に映る自分を気にしていて、その自意識が会話の端々に溶け出しているのでした。そして、はたしてそれは私自身に対しても同じことが言えたのです。聞き耳を立てつづけることがこんな重大な発見となって自分に跳ね返ってくるとは思いませんでした。みんな、人目を気にしているのです。同時に、この2人のように、その自意識の縛りから遥か遠くで生きている存在がいかに珍しく、特異なことであるかがはっきりとわかるようになったのです。これまでの自分ならきっと、彼女らを見ても、あんな格好を人前で堂々として恥ずかしい、などと思ったはずです。しかし、今私はそれまでとは明らかに違った方向から彼女たちをどこか羨望の眼差しで捉えていて、自分を含めた多くの人類共通の恥部を前より愛おしく感じていたのです。後で、こんなことを書き連ねた自分を恥ずかしく思うのでしょうが、この時たしかに私は新鮮な驚きをもってこの発見を受け取ったのでした。

 16時14分。向かいの席が空いて、そこに男が2人通されます。金髪で眼鏡をかけた細身なほうが、もう1人の太ったマッシュヘアに預金通帳を見せられています。

  金儲けたいとかではないんだよね
  どっちかっていうと、そこの人たちの話が面白くて
  50万入れたし
  こういうのも就活に役立つらしい
  ここ4日ぐらい、オレの家に友だち呼んで、飲んで 
  ベランダで吸って、ゴミみたいな生活してた
  将来役に立つわけじゃないけど、楽しいじゃん
  メンツが面白いし
  ドロドロはするけど、まあ、人いる以上不安にはなる
  じゃん
  あるでしょ、そういうの
  ああいう飲みの席でグチるくらいがいいと思うよ
  オレは、飲みの席でグチャグチャすんの嫌いだけどね
  飲みくらい楽しくいこうぜって
  オレは逆にそれ見てんのが好きなんだけどね
  性格悪いな、おまえ
  これあんま言わないでほしいんだけど
  アイツ、この前来なかった
  キレた?
  いや、それ以降会ってなくて
  今は?ぐったりしてる?
  別にピンピンしてるよ

 カウンターにある黒電話がけたたましく鳴って、同時に入り口のドアチャイムが音を立てます。店員が早歩きで往来して、時折テーブルを除菌して拭いたりしています。向かいの2人は大学生らしく、手元にアイスコーヒーと灰皿が見えます。

  最初は決まんない時に迷走するくらいだから
  オレもはじめは迷走したし
  ハマっちゃうとよくない
  ドライメンソールだけで生きてる
  この前やらかしたから、吐いちゃって
  あれ以降、行きづらくはある
  迷惑かけて帰っちゃったからなあ、ゴメンな
  タイガとコウキが残って金払ってた
  アレ、1万で足りた?
  いや全然平気よ
  ていうか大丈夫?時間
  5時半って言ってたっけ
  いや、大丈夫よ
  ぶっちゃけ今、現状に満足しちゃってるから
  就職決まってるわけじゃないけど、ないこともないし
  サイアク、自衛官っていう手もあるし
  オヤジが自衛官だからさ
  大変そうだな、自衛隊
  まあ最初はね
  でも年功序列で、だんだんラクになるし
  2年勤めたら退職金出るからさ
  へえ
  オレは2年後には起業して、塾みたいなの作りたいか
  らさ
  オオハラとかトウシンとか、そういうので金取りたく
  ないから
  無償でやりたい
  教育もかじってるんだけど、やっぱり収入格差がある
  からさ
  儲かんないだろうね
  金はレジャー施設かなんか建てて、他で作って、そう
  いうのやりたいな
  コンサルとも話す予定だけど
  あの詐欺師っぽい人?
  いや、騙してる人に飯奢ったりしないでしょ
  ユウタみたいなのは明らかだけど
  オレは利用するだけ利用して、辞めようかなと
  まあ期待しといてよ、1年後
  成功したほうが酒奢ろ
  働くのは金があるから、あとはアレだよね
  人とコネクションと自分のためだよね
  いいな、オレもそういう立場にいたら迷いない気が
  する
  コロナ明けだと思うよ、やるとしたら

 この2人の吐き出す煙を顔に浴びながら、私は財布を広げて、レシートの整理をしているところです。窓際には青い眼をした外国人の男と日本人らしい女が座ってケーキを食べています。女はほぼ全ての髪の毛を後頭部におだんごでまとめあげ、腰から頭の先までを一直線にして、お手本のような良い姿勢で座っています。その姿勢を保ったまま、すっと手を挙げて店員を呼びます。この店のテーブルには角砂糖やミルクの容器をひとまとめに置いておくための銀の受け皿があるのですが、その受け皿に水がたまっていたらしく、そのことを申立てているようです。私が思うに、おそらく原因は前にいた男たちがお冷やをこぼしたせいでしょう。女の物言いがハキハキしているので、聞いているこちらが縮こまってしまいそうな圧を感じます。申し訳ございません、少々お待ちくださいませ、と奥に店員が引きさがり、タオルを持ってきて新しいのに取り替えます。それを見てもう1人の店員が、あらら、やってるねえ、と呟きます。サテンとサングラスの女2人は、まだ延々と話しつづけています。私は財布に挟まっていた覚えのない領収書を目の前に置いて、これが一体いつどこで迷い込んだものなのか、頭を捻っています。後ろの席では関西弁の男3人がやたら大きい声でしゃべっていて、私の興味を領収書から奪っていきます。

  ほんで、売ってるお寿司2人で食ったからな、400
  0円の赤字や
  皮算用的なアレやな
  ちゃんとバトルするってことは、カードゲームにはよ
  くある
  けど、あの何やら
  エネルギー的なアレな
  先行ワンターンキルがあって、それを防ぐためのカー
  ドを召喚して
  巨大化ってゆうカードもあるで
  だから結局、その段ごとに強くならな、売れへんのよ
  もはやインフレというか、途中でルール変えないと営
  業もようしていけんの
  と、思うやんか
  遊戯王だけは違うんよ
  ほお、どないやねん

 全身にコーギー犬の絵が描かれた黄色いポロシャツを着て、首にタオルを巻いたおばあさんがカウンターに腰掛けています。伊東屋のトートバッグも合わせていてお洒落です。手に持って読んでいる雑誌の背には「おうちで楽しい布ぞうり」と書いてあります。時計はもう17時15分を指していて、朝から活動していた私はうとうととしてテーブルに突っ伏します。気を抜くと眠りこけてしまいそうです。ここの円卓の天板は厚みが15センチはあるでしょうか。ずっしりとした木の温かみもあって寝心地は申し分なさそうです。

 うつ伏せに眼を閉じていても、周りのしゃべり声は耳から淀みなく流れ込んできます。今は視覚のほうを休ませているからか、かえって音に注意が向けられるのかもしれません。左耳の穴が、サングラスとサテンの女の話し声を拾ってきます。

  ちゃんとしたシルバーとか、ステンレスとか
  リングだったら安そうだよね
  サイズわかんないと、アレ
  インスタ最近カワイイのさ、流れてくるよね
  あ、そうこれこれ
  この人のやつ、ちゃんとした純金なんだよね
  出せない金額じゃないし
  チョーカー、5800円
  あ、パールいいなー
  まってワタシも欲しい
  パールネックレス
  えー、このサーモンピンクもカワイイ
  ヤバイ腹へった、どうしよ
  え、カワイイ、このブレスレット
  あ、すいませーん
  すいません、チーズトーストってありますか
  お願いします
  カワイイ、これ
  持ってそうだけど
  2700円?やっす
  2つくらい欲しい

 装飾品をはじめ、往々にして服の見た目と値段は比例しないことがあります。自分にとって高そうに見える物が安く、安そうに見える物が高かったりする世の中です。

 以前、ある食堂で定食を頼んで事務作業をしているところに、その店の亭主らしい老年の男がやってきて、
「お兄ちゃんその服イケてるね、ヨウジヤマモト?」
 と声をかけてきました。私はと言えば上下ともにブラックの取り立てて特徴もないような装いをしていましたから、それをイケていると評されたことと、この年齢にしてトレンドの先端をゆくブランド名を挙げてくる感覚の若々しさに心底驚いたのを覚えています。さて、お褒めにあずかった当時の私の格好ですが、恥ずかしくも全身がユニクロで統一されていたのでした。それを初対面のこの人に打ち明けるわけにもいかず、適当に会釈をしてやり過ごした記憶が軽い火傷の跡みたいにヒリヒリとします。そういうわけで私はファッションとは今でも疎遠です。互いのスマホの画面を見せ合うようにして、女たちはファッショントークを展開中です。

  テッちゃんのブランド
  めっちゃ似合いそう
  胸元あいてるやつとか
  でも高いよ、たぶん
  え、見てみる
  わー、たーかー
  でもカワイイなー
  機会がない
  パールつけてた気がする
  でもアイツ、意味わかんない安い300円くらいの
  だから、あったら、もう買いに行く
  GIVENCHYとかだったら2000円であるよ
  それ本物?
  てかさー、3000いくらで名前入りのネックレスっ
  てやつあったの
  でも全然いいやつじゃない
  いいんじゃない
  時間かかるんだよね、でもまあカワイイ
  14金ってどういうこと?3098円
  いいじゃん
  ユリノがなんか、仲良いアクセサリーショップ
  見せて
  あー、でも高い
  高い高い
  聞いたら、2万くらいかなー、って
  いや高い高い
  あの人AB型だっけ
  でもABっぽくないんだよね
  常識あるし、変ではないし
  ママとサホはAで、めっちゃお金の使い方は合うの
  ワタシは全然違くて、誰かに管理してもらわないとで
  きない
  それ、わかるかも

 焼き立てのパンの香ばしい匂いがして、私は顔をあげます。すみませんお待たせしました、と店員がチーズトーストを持ってやってきたのでした。ひとしきり写真を撮る音が聞こえます。

  うま!
  マジうまい、食べてみな
  パンがフカフカ
  うまい、パン
  ん、うまい!
  アタシ腹へってたんだ、食べて気づいた
  このパンうまい、なんてやつだろ
  朝食べたい
  どこのパン?
  おいしい
  この辺じゃない?知らんけど
  うわ、うま、なにこれ

 その声があまりに大きいので、店員の男が少し顔を綻ばせて、それに気がついた女2人も声を上げてキャッキャと笑います。それほどまで言わしめるチーズトーストがどんなものか気になりますが、それはいつかの楽しみにしておくことにしましょう。食べ終わった2人はもう店を発つらしく、畳んでいた上着を広げて袖を通したりしています。

  2000いくらだっけ
  ウチ、1100円あるから、足して
  コーヒーもったいないから爆飲みしよ
  ちょっとトイレ行ってきていい?
  はーい
  お待たせ

 会計のお釣りを受け渡しているのはさっきの店員で
「ごちそうさまですパンおいしかったです」「はは、ありがとうございます」
 などとやりとりをしているのが聞こえてきます。もうだいぶ外が暗くなってきているのがわかります。窓から覗く空の色を通して、時間の移ろいを感じ取ることができます。もう少しで夜が来るでしょう。

 私は意味もなく、深くため息のようなものを吐いて円卓でじっとしていました。このまま眼を閉じても、店のテーブルの間隔や、テーブルに置かれた小物たちのこと、その上を飛び交う人の声、あらゆるディティールが鮮明に再現できそうなくらい、長いことこの店にいたような気がします。なんだか、疲れました。肉体的な汗の疲労ではなく、もっと別の、精神がいろんな方向へ引き伸ばされたことによる疲弊、水を入れすぎて膨らんだあげく元の小ささに戻れなくなったゴム風船のような、擦り減るような心労です。私はこの喫茶店で、周りを取り巻くあらゆるエネルギーに神経を研ぎ澄ませてきました。一方的に情報を取り入れるために、聞き耳を立てていたつもりでいましたが、同時に私自身の内からも、取り入れたものと同じくらいの量のエネルギーが漏れ出し、空間に溶け出していたようなのでした。その現象は、美術館で数々の作品と対面し、観賞し、すべてを観終わった後に残るぐったりと死んだような感覚と限りなく近く、たかだか他人の会話、などと軽んじることのできないたしかな重量を実感したのでした。そして、その1つ1つが興味深く、温かく、俗にまみれていて、寂しく、腹立たしく、懐かしく、激しい共感と、羞恥と笑いにあふれているということも、また途方もない事実なのでした。

 帰ろう、と私は思いました。居心地の良い場所です。ですがずっと居座るわけにはいきません。帰る場所は別にあります。ここは喫茶店です。私は客です。いつでも来たい時にここへ来て、出たい時にここを出ていきます。他の客もみんなそうです。ここは、店であると同時にひとつの流れみたいなものです。外から内へどんどん流れ込んでくる流れ、その一方で外へもどんどん流れ出ていく流れです。店の中で渦のようにいろいろなものが巻き込まれて組み合わさって溶け合って一体化していく流れです。その流れを作っているのは人です。客です。店員です。私です。あなたです。みんな、この流れを好んで集まる魚です。コーヒーなんかはきっと口実です。この流れに身を任せるのが心地よいだけです。それが喫茶店なんだと私は思います。

 ふわっとした微かな冷気とともに店を出ると、もう日は暮れはじめて、空が1日を終わらせにかかっているかのような暴力的な夕焼けです。夕焼けを見ると悲しくなります。理由もなく美しいものを直視していると、どういうわけか切なくなります。だから反対側の半分夜になりかかった重たい色の空を見ながら帰ります。ズボンの内側に少しだけ汗をかきながら、車の音だけはうるさい往来を駅と反対方向へ歩き出します。そんなに早くは歩けません。そういえば私には悪癖があったのでした。まるで取るに足らないような、どうしようもない悪癖です。つまらない、と一蹴した後に、駆け寄って抱きしめたくなるような悪癖です。もう夜が来ます。沈みゆく最後の太陽に左半身を焼かれながら、自分はいつかこのことを本に書こう、と愚かにもそう思ったのでした。(おわり)


(9)あとがき へつづく

※このnoteには文庫本『カタツムリと悪癖』の本文原稿の一部を掲載しています。マガジンからバックナンバーがご覧いただけます。この物語は実体験にもとづくノンフィクションですが、登場する人物名などは、すべて仮名にしています。

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