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カタツムリと悪癖 (1) 頭文字Oの部屋

頭文字Oの部屋

 8時14分。朝です。私は静かにあくびを噛み殺します。後ろのテーブルに男が座っています。何も飲まずにおとなしくしています。何か本を読んだり、1階の売り場で何かもらってきたらいいものを、ただじっとしているので不思議がっていましたが、そのうち顔見知りらしい男が2人やってきました。どうやら人を待っていたみたいです。3人の会話は、まず仕事終わりの朝の挨拶から始まります。

  おお
  よう
  おお
  わっはっは
  おほほ

 そうして、日雇いの仕事について話し始めます。その後しばらく聞き耳を立てていたのですが、話の内容からして、3人は日雇いの仕事を近くで終えたばかりのようでした。1人は酒の飲み過ぎか、まるで舌が回っておらず何を言っているのか見当がつきません。

  刑務所のアレ知ってるか、1人10万ずつ集めてるら
  しいよ
  そうなの、俺んとこ電話してきたら変更したとか言っ
  てたの
  ピンクの?横浜か?
  いや違う、オンラインじゃない

 仕事の話はたいてい人伝いに渡ってくるようで、朝の喫茶店は、主に仕事の求人情報や、何か変わったことはないかという情報交換の場になっているようです。月曜の朝8時。店内は閑散としていて、聞き耳を立てる私の他にはまだ客がありません。

  ねむてえー、4時間くらいしか寝てねえから、5時か
  と思ったら2時40分なんだもん
  昨日さ、テレビ観ながら、10時間くらい観て
  3人くらいで観たよ
  イグチさんかわいいスタイルしてるよね
  イグチさん?
  昔、1億5千万だったんだよね
  ホストかよ、ホステス
  うふふふ
  あの人、4年前にボクシングやってたんだよ
  こないだ教室でさ
  ハンデがあるからね、思いっきり

 基本的にそれぞれが思い思いのことを口走っているので、誰の話に誰が返答をするとか、そういう細かいことは気にしないんです。メインの仕事の話題もひと段落して、3人とも自分のスマホを見始めたりしています。時々、そのうちの1人が自分の画面を見せて

  似顔絵描いてたんだよ、すごいでしょ
  すごいね
  4コママンガみたいなね

 という風にちょっと話しかけたりしています。声はわりと大きく、話し声だとか笑い声とかが朝の店内を震わせます。そのうち、もう家へ帰るのか、次の仕事へ行くのか、3人ともそう長居はせずに席を立って行ってしまったのでした。1日が始まります。


 8時19分。私のいる2つ右隣の席に、サラリーマンと思しき男女が腰を下ろしました。出社前に2人で立ち寄った感じでしょう。男の方が女の機嫌を伺っているような空気が座席を挟んでこちらにも届いてきています。男が口を開きます。

  最近もゴルフ打ってんの?
  ———
  この前言ってたやつって、スタバとか?
  そう

 ゴルフの話題を華麗にスカした後も、必要最低限の返答で済ますのを見るに、この2人の間には何かあったなと私は思うのです。女の機嫌を著しく損ねる何かです。それは思うに———。いけないいけない。妄想はこのあたりでやめておきましょう。私の領分はあくまで聞き耳を立てることですから。男の出社後の健闘を祈りましょう。

 9時29分。この時間はスーツを着ている客が多いようです。出社後でしょうか。こちらまでオフィスにいるような気がしてきます。左隣りに会社員の男が2人来ました。座席に鞄を置いて、片方がタバコのジェスチャーをします。まずは一服。店内奥の喫煙室へ消えていきます。

 しばらくして、荷物の残された座席に女が来ました。若いのでおおよそ部下なのでしょう。無造作に置かれた鞄たちを少し整えてから自らも席につきます。喫煙室から男2人が帰ってきました。

  おはようございます
  おはよう
  ササキさん、修正してくれてたやつ
  ええ
  悪いね
  1時間かな、とか言っといて、終わってみたらこんな
  時間じゃん
  選手村とか会場とかで、今WiFiのアクティブ系やって
  るっぽいすよ
  大変すねぇ

 そこにもう1人、男が来ます。全身に汗をかいています。見ているこっちまで暑くなります。これで4人、全員がそろった模様です。

  おはようございます、暑いすね
  おはよう
  今日はテレワークですか
  ええ
  この間の話ですけれど、どうなりました?
  いやわたしもね、決めかねてるんですよ
  もしそうなったら誰が責任を取るか
  そのために我々はやりたくないですしね
  でもまあ、どういうアレになるかわからないものねえ
  ですねえ
  じゃ、ちょっと失礼して

 なにやら企画の話をしています。社内ではややこしい問題も多そうです。

 そうこうして、男3人はまた喫煙室へ行くようです。今来たばかりの男はまだしも、残りの2人、あなたがたはさっき吸ってきたばかりでしょう。そうやって連れションみたいに、固まってタバコをやりたがりますよね、人は。女はやや笑ってから1人で律儀に待っています。

 10分経ったでしょうか。3人はタバコツアーから帰ってきました。着席しながら1人が女に訊きます。

  今、50くらい?
  ええ、50分くらいです
  そういえば、ユウタロウさんどうなった?
  いつ?
  こないだの
  いや問題ないよ
  でも仲良しじゃんか
  カワグチさんも顔見知りだって言ってたっす
  カワグチは、そうだね
  今なにしてんだっけ
  商品系かデバイスか、どっちかやってるよ
  そっか
  まあ、優しくしてやってよ
  してますけど
  害はないから
  まあ、クリーンな人がたくさん来ればいいけどね
  ええ
  会議場がクリーンじゃないとね
  あはは

 ひとしきり談笑したのち、女が時計を気にしながら、じゃあそろそろ、と促して全員席を立ちます。


 10時52分。昼が近づいてきました。この時間になると、太陽の明るさが店の中にも入ってきます。活気のある感じになってきました。客層も少しずつ変わっていきます。さっきからスーツはどんどんいなくなります。さて、奥のソファに2人組のおばあさんが座りました。

  前向きにいかないと病気になっちゃう
  私もね、病院に行かないと、吸収が悪いのよね、胃カ
  メラで診てもらわないとね
  そうよね
  でも倒れたくないのよ
  だよね、あたしも最近食べれないのよ
  食事ね、でも一生でしょ、あたしは最近肉がダメ
  先生が肝臓がどうのって、あたし気になっちゃって
  あたしはすぐにいっぱいになるんだけど、またお腹空
  いちゃって、夜中2時半くらいにさ、起きちゃって
  ね、わたしも3時くらいまで寝れなくて起きちゃう
  の、主人は寝ちゃうから、わたしだけなのよ
  おっほっほ

 こういうおばあさん方の会話の瞬発力はなかなかのものです。席に着くや否やおしゃべりがスタートしますから、ぼやぼやしているとこっちが置いていかれます。聞き耳を立てるのにもそれなりの技量が求められるというわけです。こういうことをかいている間にも、すでに話題は切り替わっています。家で使う掃除機のことを話しています。

  うちの母はね、吸引に負けちゃうの、すごいのよ吸引
  力がね
  うちもね、一緒なの、重く感じるのかしらね
  やっぱりそうよね
  引っぱられるのよね、こっちが
  あらやだ
  もうダメなのよ
  わたし、50になったときにヤマダで電動のやつ買っ
  たのよ
  あのビリビリするやつ?
  ヤマモトさんも言ってたのよ、なんか背中にバッテン
  に固定してたみたいなのね
  ええ
  この間も午前中にお買い物に行ってたんだけど、もう
  心臓がバクバクして、救急室に運ばれるくらいになっ
  ちゃって
  そこで14時に医務室来てくださいって言われて、で
  もそれまで時間があるから通りをウロウロしてたんだ
  って、倒れても誰かが助けてくれるだろうからって
  あら、やだわ
  でも弟さんがすぐ迎えに行くって言って、血液採っ
  て、それから麻酔よ、3本もよ、それから点滴も
  そうなの
  そうやって全部やってもらったみたいよ、それで主人
  もちょっと安心したみたいだからさ、いいのか悪いの
  かわからないわよね、もう
  まあ手術して治るんならねえ、あたしイヤだけど

 最近の掃除機は性能がいいらしく、その吸引力の高さは老体にこたえるようです。無論、私の家で使っているのはそれらと比較するのもはばかられるような安物ですが、そんなことを思って聞いています。そして、おしゃべりがどんな話題からスタートしたとしても、だいたいは健康や体のことについての話に帰結するようです。話はまだつづきます。

  あなた「徹子の部屋」観た?
  観た観た
  あの人もかなり曲がってるわよねえ
  ええ、でもあの人と違ってわたしは内側になの、内に
  曲がってるのよ
  内側だと短くなっちゃうみたいで
  あらそうなの
  お医者さんが言うには、遺伝的なモノらしくてね、友
  達は放っておいてるって、でもくの字みたいになっ
  ちゃってね、6ヶ月歩けなくなっちゃった人もいるみ
  たいなのよ
  あたしももうどうにもならないのよ、ヨガもね、2年
  くらいやってるんだけどね、完全には戻らないのよ、
  必死についてくのよ
  ヨガね、でもほとんど年配の方なのよ
  だから無理してね、治そうというよりね、ちょっとO
  脚になっちゃうけどね、こういう風に歩いた方がラク
  なのよ、外ではみっともないけれど
  杖みたいのつくとか、あの、押し車みたいなの、あれ
  につかまっていくとかね
  そうよね

 これは一体何についての話だろうと考えていたのですが、どうやら2人ともO脚なことを気にしていて、徹子さんもO脚だという主張が話の筋なようです。歳をとると膝関節が老化して、特に太ももの内側の筋力が衰えてしまうことが原因で、近頃気になるそうです。聞き耳を立てる私も、思わず太ももの内側にきゅっと力が入ります。話はまだ止みません。流しっぱなしの水道のようにずっとおしゃべりがつづきます。このまま聞き耳を立てていてもよいのですが、それではこの本が2人の会話の議事録みたいになってしまいます。それでは困りますから私はこのあたりでお暇して、次へ参りましょう。

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 時刻は11時5分をまわったところです。この時間になるとかえって店内は空いてきて、浮島のようになったテーブルにぽつぽつと人がいる程度です。正午を過ぎたあたりから会社の昼休憩なので、また人で溢れかえりますが、束の間の静けさを楽しみましょう。朝から聞き耳を立てつづけている私も、少し変化を求めて座席を移ることにします。店内奥寄りの壁際のテーブルにグラスを置きました。隣で若めの男が暇そうにパソコンの画面を眺めています。Tシャツにサンダルのラフな格好です。そこに、その男と似たような出立ちのもう1人の男が来て、向かい合わせに席につきました。どちらも名刺を取り出し、MacBookを開いて、さあ挨拶がはじまりました。

  あ、どうも初めまして
  どうもどうも
  お世話になります
  すごいっすね
  そんなディーラー簡単にやられてて
  いえいえ、もう1人のパートナーが社長でして、1年
  前から起業しましてやっております
  こちらはですね、半年前からこういう流れでキャンペ
  ーンを実施してまして。今どういうのやられてるんで
  すか?
  今はその、脱毛器を取り扱ってますね、今日は実際の
  取り組み的な内容で、具体的にはどういったお話を?
  ウチは商品使ってみた感想で、コレいいですよ、みた
  いなのをホームページとかタブレットで見せていこう
  かな、みたいな、だから在庫置いていなくって
  取り寄せとかですよね
  そうなんです
  水物とかは?
  水物は、あるのは、ストレート剤がグラッツっていう
  弱酸性のを使ってて、それが35%オフで、ちょっと
  ディーラー名は言えないんですけど
  ええ、もちろんもちろん
  オンラインサービスからの流通で
  なるほど、逆にじゃあ物販のイメージは?例えばシャ
  ンプーとかスタイリング剤とか
  スタイリングは海外のブランドのバームとかですね、
  ヤマグチさんはミディアム使ってないって言うので
  あー、そういうことなんですね、ちなみに1年間通し
  てキャンペーンの月とか決められてるんですか?
  一応、10月に予定してて、最近はキャンペーンも
  やってかないとなかなか売れてかないんで、スタッフ
  のモチベーション的にも、10%とかで無理やり上げ
  てく感じでやってますかね
  あとウチのアプリ内で商品を買えるようにしてるんで
  すよ、EC内で、でもあんまり動いてないんですけど
  へえ
  バンクスさんとかはこれでブルボンのアレをめちゃく
  ちゃいっぱい売ってるみたいです
  はい、はい
  1回入店しないと詳細見れないみたいです
  ちなみにショップの方は今見れます?
  ええ、これです
  ほー、なるほど
  あとはあの、BASEの出店も考えてて、タカダさ
  ん、社長に話通して一応オッケーもらったんですけど
  メーカーさんによるんですよね、その辺の良し悪しっ
  ていうのは
  大々的に売っちゃダメだけど楽天とかにはいっぱい出
  てるじゃないですか、この現状は何なのかなっていう
  それこそアシがつかないように、上手くやってるって
  感じですよね
  やっぱり日本の法律的に、そこは裁きづらいといいま
  すか
  そういえば、あのシャンプー見ました?
  あの例のカラーシャンプーですか?ええ
  じゃあ1回、そっち確認していただいて
  ええ、わかりました

 互いに小売業のようなものをやっていて、その商談と情報交換をしているように見えます。どちらも人当たりのよい軽い感じで、ポンポンと小気味良く話が進みます。知り合いにベンチャーの社長がいるとか、ECで捌くとか、耳慣れない横文字が並んでいきます。後から来た男のほうが人脈にツテがあるらしく、おそらくは一儲けしようというところでしょう。こういった場所ではビジネスの話も花開くのです。

 私はというと、ちょうどアイスティーを飲み終えたところで、午後に用があるので店を出るにはちょうどよい頃合いかと思われます。テーブルの上の手帖やペンを両手ですくって鞄に放り込み昼前の車道を横切ります。近いうちにまた店に行くでしょう。その時には再び何か書こうと思います。

(2)へつづく

※このnoteには文庫本『カタツムリと悪癖』の本文原稿の一部を掲載しています。マガジンからバックナンバーがご覧いただけます。この物語は実体験にもとづくノンフィクションですが、登場する人物名などは、すべて仮名にしています。

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