杉浦道雄/僧侶

名古屋駅のお寺 称名寺住職 文学博士/大谷派擬講/同朋大学非常勤講師/真宗学院講師

杉浦道雄/僧侶

名古屋駅のお寺 称名寺住職 文学博士/大谷派擬講/同朋大学非常勤講師/真宗学院講師

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「浄土真宗は仏教じゃない」

「浄土真宗は仏教じゃない」という批判をたまに聞く。 その根拠はさまざまだけれど、こういう批判は今に始まったことではない。 法然や親鸞の時代、念仏への権力的な宗教弾圧がありましたが、他宗派からの批判は日常茶飯事でした。 ここでは批判を批判するのではなく、批判から見えてくること、すなわち法然や親鸞が批判にどう答えたのか、そこに何があるのか、一緒に見ていきたいと思います。 批判の的となったのは、天台宗の慈円の作といわれる『愚管抄』という鎌倉時代初期の歴史書に記されるような、法

    • 「暁の鐘の声」

      平安の時代に活躍した比叡山延暦寺の高僧「源信(ゲンシン)」は、主著『往生要集』の終わりに、大切な三つの「助」を示しています。 第一に、すぐれた師に仕え、その教示を受けること。 第二に、学びを共にできる友と互いに励み助け合うこと。 第三に、真実の道理が記された教書を常に開き読むこと。 さらに源信は、『般舟経』を引いて、もし遠方に真実の道理が記された価値ある教書があると聞いたならば、どんなに遠くてもそこへ出かけていき、その教書を求め、読み学び、忘れないようにするべきである、と

      • 満月と葦の池

        浄土宗を開いた法然(1133ー1212)は、念仏ひとつで救われると教えながら、自身の生涯は戒律を守り、墨衣の一凡僧として、称名念仏(南無阿弥陀仏と声に称える)を日課とし、毎日数万遍の名号(南無阿弥陀仏)を称えましたが、そのような規範を、すべての人に強要することはありませんでした。 法然は、教えを聞くものに対し各自の個性を大切にしつつ、念仏を営むのに最も都合の良い生活を選ぶことを教えられました。 「現世をすくべき様は念仏の申されん様にすぐべし、いはくひじり(聖)で申されずは

        • 法然の真筆と親鸞

          先に記したnote『法然の言葉に触れるとき』のなかで、 「しかし法然上人の真筆が一部も残っていないことから、法然死後数十年が経過した頃に、法然の述作として伝えられた文献が、どれだけの価値を持っているのかということは、判断が難しいところです」 と書きましたが、これは『語灯録』のことであり、法然上人の真筆は現存します。 誤解を招く表記だったので、補足的に法然上人の真筆と親鸞聖人との関係について、少し記しておきたい。 結論からいえば、法然上人の真筆と断定して現存しているのは以下

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        「浄土真宗は仏教じゃない」

          法然上人の言葉に触れるとき

          「法然上人の言葉」について、少し書こうと思う。 私は浄土真宗(真宗大谷派)に属し、親鸞聖人(浄土真宗の宗祖)の教義を聞いていますが、一方で親鸞聖人の師である法然上人(浄土宗の開祖)に注目し研究しています。 浄土真宗の人であれば、宗祖である親鸞聖人に学ぶのが一般的ですが、親鸞聖人は師から何を聞いていたのか、それを知りたくて大学院時代から法然上人を学び続けています。 そのなか法然上人の教義に向き合うとき、その言葉は本当に法然が遺したものなのかどうか、デリケートな判断が求めら

          法然上人の言葉に触れるとき

          心のゆとり

          「登山者は常に山という大自然の前に、自分の小さな自我を捨てて、山を怖れながら、そのふところに入っていく心のゆとりをもたなくてはならない。 登山の技術は、そのゆとりのある心の中からうまれてゆくのが本当なのだ。 ただ末梢的な技術にとらわれて、自我だけを大自然にぶつけるものは、いつかは山に思い知らされるときがくることを知らねばならない」 登山家 小島六郎氏『遭難』の一節である。 一生を山と共に暮らし、山を愛し、山に情熱を打ち込んだ登山者であるだけに、その言葉には傾聴すべきものがあ

          山下清の流儀

          子どもの頃、芦屋雁之助が演じるテレビドラマ「裸の大将放浪記」が大好きだった。 山下清は何かあると決まって「なぜかなぁ、うーん、考えるとだなぁ、、」と、口癖のように一旦停止する。 どんな事柄でも、一旦止まって考えてからではないと行動に移さないのだ。 一旦停止するということは、「聞いた」ことを自分のなかで「問い」に置き換えていると私には見えます。 これは特に宗教において重要な思考なのでしょう。 なぜなら宗教とは「私の抱えている問題を解決する」ものではなく、「真に問題とすべきこ

          他力とは。

          浄土真宗の特質は「他力回向・他力本願」の一句につきるといわれています。 しかし、この「他力」という言葉が誤解をされ、怠け者が他人の世話になっていることを「他力本願」といい、他力の信仰は人間の生きる力と希望を奪うものであるかのように考えられています。 果たして、これまで他力を信仰してきた多くの人々が、そのような怠け者の生き方に、人生をかけて向き合いつづけたのでしょうか。 その一点からみても、これは大きな誤解であると気づくはずですが、一旦広まった誤解はなかなか正されることがあ

          西本願寺の勧学と東本願寺の講師

          最近、西本願寺の「勧学(かんがく)」という言葉をよく耳にします。 私は東本願寺(真宗大谷派)に属しているので、普段「勧学」と見聞きすることは多くありませんが、学問の歴史を知る上で重要な言葉なので、西本願寺と東本願寺の学問の歴史を整理してみたいとふと思い綴ってみました。 そもそも「真宗」を学問として取り組むようになったのは江戸時代であり、徳川幕府が学問を推奨したという背景があると言えます。 西本願寺「真宗学」の歴史 江戸時代 寛永十六年(1639)徳川家康の孫、徳川家光の

          西本願寺の勧学と東本願寺の講師

          毒にも薬にもならない私

          ダンテの神曲に次のような話があります。 「たとえば地獄の門と第一地獄との間の星の光もさなない暗がりに、裸の身をアブや蜂などに刺され、ただわけもなくおろおろをお互いをののしり合い、叫び合って走りまわるおびただしい群衆がある。 これは一体何者かとダンテの問いに答えて、導師ウエルギリウスは答える。 〈これは、積極的に良いことも悪いこともせず、恥もなくほまれもなく、自分だけの安全を守って、一生を終わっていった魂である。 毒にも薬にもならないこのやからを天国に置くと、天国の美し

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          自分を愛することと、人を愛すること。

          世間一般に親は、我が子を自分よりも愛おしむことが当たり前と言われています。 「一人の神が言った【我が子にまさって愛おしい者はいない】と。 それに対して仏陀は【自分にまさって愛おしい者はない】と答えた」 ここに仏陀は「自分にまさって愛おしい者はいない」という、誰もが心の奥に抱いている、人間のもっとも素直で深い気持ちを、ごく普通に認めるのでした。 これは個人主義的な、自分のことしか考えない利己主義的な態度に見えてしまいます。 しかし仏陀は次のように言っています。 「生きと

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          もちつもたれつ

          仏教のみならず、宗教そのものに対する見方が厳しい時代になっているように感じます。 それはさまざまな災害や災難が起きるが、それに対する被害や不安に対して、何もしてくれないではないかという災難の時代からの要請に応えることができていないところにあると思います。 ただそういう要請の根にあるものは、宗教が生活や社会に役立つものであるという考えがあり、それをもとにいまの宗教は人間の生活や社会の役に立たないから無用であると否定している側面が強いようでもあります。 宗教が生活や社会に役に

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          「みんなに喜ばれるお寺33実践集 これからの寺院コンセプト」を読んでみた。

          たまには「読んでみた」を書いてみます。 今回購入したのは、「みんなに喜ばれるお寺33実践集 これからの寺院コンセプト」です。 「未来の住職塾」の塾長である松本紹圭氏と講師の遠藤卓也氏による、寺院運営の実践例を集めたもの。 松本紹圭さんとは、2016年に初めてお会いし、私が住職を務める称名寺にて「未来の住職塾」が開講されました。 それからも私は、松本さんの活躍にさまざまな形で刺激を受け続けているひとりです。 さてこの書は『月刊住職』で松本さんと遠藤さんが連載していたコー

          「みんなに喜ばれるお寺33実践集 これからの寺院コンセプト」を読んでみた。

          めぐりあう事実

          人との出会い。 それは私たちを潤すものであり、また苦しめるものでもあります。 そもそも私たちがひとりの人間として、いまここに形成されるのは、ただ自分だけの力に基づくものではなく、いまの自身を形成させてくれている外部の原因があるといえるのでしょう。 そしてその外部の原因のなかで、大きな力をもつものは、自分の先生や友人、先輩や仲間というような身近な人たちとの関係でしょう。 この一生を振り返れば、忘れられない思い出にはいつも大切な人とのめぐりあいがあるように思います。 そ

          めぐりあう事実

          鬼が棲む心

          私たちが戦っているものは、何だろう。 寂しさ、虚しさ、孤独、言葉にしようとしてもスッキリと当てはまらない。 現実の社会をみれば、いろいろな矛盾や不安が渦巻いています。 私たちはこれらの社会苦と戦い、耐えて、暮らしていかなければならないので、ふと自分の生活をかえりみたとき、孤独な自己の姿に向き合って、深い寂しさを感じずにはいられません。 しかもこのような寂しさは簡単に、取り除くことができないほど深刻なものです。 そこでこのような寂しさを紛らわすために多くの人たちは、娯楽を

          生きること

          私たちは、毎日多くの人の話を聞いたり、話題に触れたりしています。 しかし人間の言葉というものは裏表があるもので、人前ではやさしい挨拶を交わしても、陰では悪口を言ったり、その人を傷つけるような言葉を話したりしていることがあります。 これは言葉に裏表があるのではなく、私たちの心にこのような二つの面があるからなのです。 現代は技術の進歩により、便利な器具が発明されていますが、反面人間の身体や心を傷つけることにも利用されています。 すなわち明るい社会の裏には、暗い社会が存在し、人