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「暁の鐘の声」

平安の時代に活躍した比叡山延暦寺の高僧「源信(ゲンシン)」は、主著『往生要集』の終わりに、大切な三つの「助」を示しています。

第一に、すぐれた師に仕え、その教示を受けること。
第二に、学びを共にできる友と互いに励み助け合うこと。
第三に、真実の道理が記された教書を常に開き読むこと。

さらに源信は、『般舟経』を引いて、もし遠方に真実の道理が記された価値ある教書があると聞いたならば、どんなに遠くてもそこへ出かけていき、その教書を求め、読み学び、忘れないようにするべきである、と。

たとえその教書を求めるだけになっても、求めに赴いた功徳ははかることのできない価値があります。
ましてこれを読んで、その真理を受けることができるならば、その受ける徳は広大なものであると述べています。

現代に生きる私たちは、遠いところに尋ねることをしなくても、多くの良い教書に触れることができます。
またどこにいても気軽に講師の話を聞いたり、いつでも学び合える友に出会うことも、語り合うこともできます。
道を求めるのに、申し分のない条件を備えているのです。

しかし現代に生きる多くの人々は、人生の課題として、自分が宗教をどう考えるのか、どう向き合おうとしているのか、信じるのか、信じないのか、厳しく自分に向かって確かめようとする人が少ないように感じます。

源信は今から千年も昔に生まれた人ですが、書かれたものから伝わるのは、人生への深い見方と、自分を見つめる厳しさであり、読む者の心を強く打ちます。

地獄と浄土

主著である『往生要集』の初めには、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という六つの世界について、その業因と果報とを説いていますが、これは遠い世界のことや、不可思議な物語ではなく、生々しい現実の姿として、この私の今の姿を描いているのです。

また浄土について詳しく説明していますが、人生を課題とする求道者に向かって、源信自身が仏より与えられた解答を示しているのです。

浄土という世界は、死と結びついた生という現実を課題とするものであり、人間が解決すべきその課題の解答として示されたものです。

死を、単に恐ろしいとか、悲しいとか、そういう感情で捉えるのではなく、人間の深刻な課題として、死を通して生に問いかけていくとき、本当の意味で人生の課題が明らかになるのでしょう。

そしてその課題と向き合うということが、現実を超えたものから問いかけられることであり、その問いに答えようとするとき、私たちは自らを超えた世界へと向かわずにはいられぬことになるのです。
その事実は、現実を超えた世界から光により照り返されることで、はじめて私たちは身の事実を知るのです。

月の光に照らされて、闇夜の道に迷いながらも自分の暗い影を見つめ、その影の暗さに打ちひしがれながらも、私を照らす月の光を仰ぎ、力強く再び夜道を歩き出す旅人のように。

源信は、法衣の色は美しく染めることができるが、それを纏う私の心は仏心に染めることも、染まることもなく、ただ恥ずかしいばかりであると述懐しています。

暁の鐘の声

源信は自らを恥ずべき身と告白し、罪悪深重の私がどのように救われるべきであろうかと、仏の浄土に生まれることができるのであろうかと、寝ても覚めても真剣に思い悩み、真実の道を求めたことでしょう。

そして、常に経典に示される釈尊の言葉を通して、仏の世界を見究めようとしました。それは現実の世界をありのままに見ると同時に、その背後に常にはたらき続ける力を見出そうとするものです。

現実の世界をみれば、すべては地獄のように、差別や分別、怒りや妬みで溢れていて、その闇が深ければ深いほど、阿弥陀仏の慈悲は強く私のうえにはたらいているのです。

天上高く輝く月が、この両手に掬い上げた水に美しく写るように、仏の徳が、私の識心に満ちて、信となり、拝む手となり、称える声となり、日々の生活のなかに、はたらきかけてくるのでしょう。

その歓びを、源信は高らかに歌わずにはいられなかったのでしょう。

暁の鐘の声こそうれしけれ 永き浮世のあけぬと思へば
              『続古今和歌集』源信 



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