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法然上人の言葉に触れるとき

「法然上人の言葉」について、少し書こうと思う。

私は浄土真宗(真宗大谷派)に属し、親鸞聖人(浄土真宗の宗祖)の教義を聞いていますが、一方で親鸞聖人の師である法然上人(浄土宗の開祖)に注目し研究しています。

浄土真宗の人であれば、宗祖である親鸞聖人に学ぶのが一般的ですが、親鸞聖人は師から何を聞いていたのか、それを知りたくて大学院時代から法然上人を学び続けています。

そのなか法然上人の教義に向き合うとき、その言葉は本当に法然が遺したものなのかどうか、デリケートな判断が求められます。
今ここですべてを述べることはできませんが、若干の見方を記してみたいと思います。

法然上人の文を編集したもののなか、道光(1243-1330)の集録した『黒谷上人語灯録』十八巻は、法然滅後六十余後に出来たもので、法然に関する最高の文献として尊重されています。

道光は浄土宗鎮西派二祖良忠の門人で三条流の祖師です。
彼は法然上人が遺した文のなか、漢語で書かれたもの集めて十巻として、和語で書かれたものをまとめて五巻とし、これを合わせて『黒谷上人語灯録』と名づけました。
その後さらに『拾遺黒谷上人語録』三巻を集録して、上巻に漢語三篇を収め、中巻と下巻に和語八篇を入れました。

そして道光は、元亨元年(1321)七十九歳のころ、語灯録十八巻のなか、和語のもの七巻の開版を行いました。
これがいわゆる『和語灯録』と呼ばれるものです。

この『和語灯録』は、その後寛永二十年(1643)と正徳元年(1711)とに出版されましたが、現在広く用いられるのは正徳本であり、元亨の古版本と対校すると文字の増減が見られます。

道光が和語で書かれた法然の遺した文だけを別に発行したのは、その序文にもあるように、内容が読みやすく一般の人にも親しみ深いものであるからであろう。

「やまとことばはその文みやすく、その心さとりやすし。ねがはくは、もろもろの往生をもとめん人、これをもて灯として、浄土のみちをてらせと也」

そこで漢語で書かれた法然上人の文は、おそらく出版されなかったと考えられますが、現在伝わっているものでは、義山(1648-1717)本と、真宗大谷派の恵空(1644-1722)による写本(大谷大学所蔵)があり、義山本と恵空本が同一であるとは言い難く、特に義山本は義山がかなり筆を入れているので、資料としては価値を失っているともいえます。

道光は、浄土往生を願う人々のために、法然上人の言葉を集めておきたいと願い、当時各地に伝わっていた書状を集め、あるいは書籍に遺される法然上人の言葉を拾って、十八巻にまとめました。

しかし当時、浄土宗のなかに幾多の分派が生まれ、法然の直弟や孫弟のなかに、争いも起きていたことから、法然上人の述作とするものも多く流行し、真偽の判断が難しいものが多くあったことは事実でありましょう。

そのなか道光は巻末に、
「およそ二十余年のあいだあまねく花夷をたずねくわしく真偽をあきらめてこれを取捨すといえども、あやまることおおからん。後賢かならず正すべし。また落つるところの真書あらば、この拾遺に続くべし」
と記しているように、厳密な考証によって法然上人の述作と信じるものだけを選定編集しているのです。

しかし法然上人の真筆が一部も残っていないことから、法然死後数十年が経過した頃に、法然の述作として伝えられた文献が、どれだけの価値を持っているのかということは、判断が難しいところです。

私自身、法然上人の言葉に尋ねようとするとき、当然のように道光の編集した資料に依っていくことになるのですが、この事実は忘れずにいなければならないと思っています。

ただし大切に伝えられてきた言葉は重いもので、編集された言葉に触れるたびに、真偽という問題は「伝えられた言葉に触れる感動」により置き去りになってしまう私がいることは、もうどうしようもないのでしょう。

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