毒にも薬にもならない私
ダンテの神曲に次のような話があります。
「たとえば地獄の門と第一地獄との間の星の光もさなない暗がりに、裸の身をアブや蜂などに刺され、ただわけもなくおろおろをお互いをののしり合い、叫び合って走りまわるおびただしい群衆がある。
これは一体何者かとダンテの問いに答えて、導師ウエルギリウスは答える。
〈これは、積極的に良いことも悪いこともせず、恥もなくほまれもなく、自分だけの安全を守って、一生を終わっていった魂である。
毒にも薬にもならないこのやからを天国に置くと、天国の美しさに傷がつくし、さればといって地獄も受け取ろうとしない。地獄の亡者たちが、この連中より自分たちの方がはるかにましだと、傲慢になるからである。
彼らは、ただその日その日を盗んだだけで、生きたのではないのだ。だから彼らには死の望みもない。
神にも、神の敵にも見放された彼らの名を、この世の歴史も残すことを許さず、慈悲も正義も、彼らを軽蔑する。
いやこのような連中のことは口にするさえうとましい。ダンテよ、ただ見て過ぎよ〉と」
この神曲に似たものが、中国の高僧、善導大師のなかにも残されています。
「人間として衆務を営み、年命の日夜に去るを覚えず、灯の風中にありて滅する期し難きが如く、忙々六道常趣なし」
ここに善導大師は、日々の暮らしに追われるばかりで、自らの人生を問うていくこともなく過ぎていく人は、本当の居場所が見つかることはないと、その人生が虚しく終わっていくことを指摘しています。
善導大師は続けて、「おのおの聞け、強健有力のとき、自策自励して常住を求めよ」と、いまこそ問いに向き合い続けるべき大切な時であると言います。
仏教であれ、キリスト教であれ、信仰とは弱い人が頼るものではありません。本当に大切なことに向き合おうとしている人が頼っていくものです。
その意味で、信仰に向き合おうとしている人は、弱い人ではなく、強い人だといえるでしょう。なぜなら誰もが、現実逃避している問題に向き合う覚悟をもっているからです。
信仰とは何か。
その問いに向き合い続けるところに、本当の居場所が開かれるのでしょう。
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