見出し画像

生きること

私たちは、毎日多くの人の話を聞いたり、話題に触れたりしています。
しかし人間の言葉というものは裏表があるもので、人前ではやさしい挨拶を交わしても、陰では悪口を言ったり、その人を傷つけるような言葉を話したりしていることがあります。

これは言葉に裏表があるのではなく、私たちの心にこのような二つの面があるからなのです。

現代は技術の進歩により、便利な器具が発明されていますが、反面人間の身体や心を傷つけることにも利用されています。
すなわち明るい社会の裏には、暗い社会が存在し、人々を不安な心で覆っているのです。

このように人間の生活には、明るい面と暗い面があります。それは人間に善と悪の二重性があるからです。

このような二重性は、矛盾や不安の多い環境のなかで、自らの生活をかえりみたとき、大きな壁となって明らかになってきます。
わびしい孤独な自分の姿に、深いさびしさを感ぜずにいられない。
しかもそのような淋しさは、簡単に取り除くことが出来ません。
そこでこのさびしさをまぎらわす為に、いろいろな娯楽を楽しんで、その間は自分のさびしさをまぎらわしているのです。

このようにひと時の楽しみを求めても、人間にはどうしても誤魔化していくことができないことが残っています。どうにもならない行き詰まりに追い込まれていくことを強く感ぜずにはいられないのです。

もし私たちが欲望のまま、その満足を求めることに終始するならば、それは人間のあり方としていいのだろうか、深刻な疑問が当然のように起こることでしょう。

ここで静かに自分に向かってみる。
そういう時、人間本来の生き方は何処にあるのか、そのような疑問が出てくるのであって、人間の本当の要求を突き詰めていくところに、宗教への門が開かれてくるのではないか、そう思うものです。

宗教の信仰は「帰依」を柱とします。
帰依とは「生」の依るところと、「死」の帰するところを明らかにすることといえます。

私たちがこの世に命をうけて生存していくには、なにかハッキリとした依り処がなければなりません。
それは「生きる」依り処ともいえます。
現に私がここに生きている。
その事実と向き合うとき、この人間に生まれて生きていくこと、そこにどのような意味があるのだろうかという疑問がつねに湧き起こってきます。
このように「生きる」ことの依り処になるものを受けとるとき、私たちは人間存在としての全体的自覚をもつのでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?