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法然の真筆と親鸞

先に記したnote『法然の言葉に触れるとき』のなかで、
「しかし法然上人の真筆が一部も残っていないことから、法然死後数十年が経過した頃に、法然の述作として伝えられた文献が、どれだけの価値を持っているのかということは、判断が難しいところです」
と書きましたが、これは『語灯録』のことであり、法然上人の真筆は現存します。

誤解を招く表記だったので、補足的に法然上人の真筆と親鸞聖人との関係について、少し記しておきたい。

結論からいえば、法然上人の真筆と断定して現存しているのは以下の三点です。
①京都廬山寺に伝わる『選択本願念仏集』草稿本の最初の内題と「南無阿弥陀仏 往生之業念仏為先」という標挙の文
②京都嵯峨の二尊院に伝わる『七箇条起請文』の終わりの花押
③大阪一心寺に伝わる一筆一行の『阿弥陀経』のなかにある一行の経文


このように真筆が少ないことから、法然上人の教理や信条を知ろうとするとき、門弟達の手によって書かれた文書によらなければなりないわけで、その意味で道光の『語灯録』が重視されたのは必然のことであったのです。

そのなか(門弟達の文書)の一つ、親鸞聖人による『西方指南抄』も重要です。

道光の『語灯録』より18.9年前、すなわち康元元年(1256)から二年かけて、84歳の親鸞聖人が筆写した『西方指南抄』という一部六冊の書が現存しています。

この書は三重県の高田派の本山である専修寺に伝わるもので、法然上人の法語、消息、行状等に関する旧記を集めたものです。
縦約32cm、横約23cmの袋綴じ本で、一頁に六行、一行二十字以内、全紙数455頁に及び、前五冊の表紙に「釋眞佛」の袖書があります。

これによると親鸞聖人の高弟であった眞佛に授与されたものと考えられます。そして各冊の奥書には書写や校了の年月日とともに「愚禿親鸞八十四歳」または「八十五歳」と書かれています。

専修寺には、この書の外に親鸞聖人の門弟が書写した『西方指南抄』を伝えています。
この書は前五冊の外題の下に「釈覚信」と記されていますが、奥書によれば康元二年二月より三月にかけて写されたものです。
第六冊は前五冊とは別筆で、奥書には「徳治三年二月中旬第五書写之」と記されているので、これは眞佛に次いで専修寺の第二代である顕智の書写であろうと考えることができます。

この『西方指南抄』の原本は、専修寺の宝庫に秘蔵されていましたが、親鸞の写伝より四百年余りを経た寛文元年(1661)開版されることにより、法然上人と親鸞聖人の関係、さらに法然上人の教理について、重要な資料として注目されることになりました。

道光の『語灯録』との関係をみると、道光より前の『西方指南抄』と集録されている法然の教語、消息、行状など大部分は重複していますが、『西方指南抄』には『語灯録』に収められていないものも多く含まれるので、注意すべき点が多い。

それでは親鸞聖人が法然上人より書写を許された『選択本願念仏集』はどうなったのか。
この原本は所在不明であり、現存していません。
しかし『選択本願念仏集』の延書で二帖の写本が現存し、その下巻は高田専修寺に伝わっています。

この写本は、正安四年に親鸞聖人の弟子顕智が写したもので、その原本となったものは、正元元年(1259)九月に八十九歳の親鸞聖人が書いたものです。
ここには親鸞聖人が読み下し漢字に、振り仮名や訓注などを記しており、注目すべき書でもあります。

また親鸞聖人が往生の三年前、八十七歳の老眼を拭いながら、師の『選択本願念仏集』の延書を写している姿を想うと、生涯を終えるまで師との思い出をかみしめていたのでしょう。

晩年の親鸞聖人は、法然上人の言葉に何を想ったのか。

「生けらば念仏申しなん、死なば浄土にまいりなん、とてもかくても、この身には思い煩うことぞなきと知りぬれば、死生ともに何のわずらいもなし」
と叫んで、八十年の苦難と迫害に満ちた生涯を、南無阿弥陀仏と共に生き抜いた法然上人の姿でしょう。

お念仏をいただく法然上人の姿は、その生きる一日一日が、阿弥陀如来の慈悲と共にあり、自分に与えられた一生の仕事に全人格を打ち込んでいくものであり、親鸞聖人は師の遺文の一言一句から感じていたのです。

法然上人はその在世中に、一宇の精舎を建てることもなく往生しましたが、その一生のあいだ念仏の勧化を続けたからこそ、親鸞聖人をはじめとして、念仏の声の沸くところ、必ず法然上人の遺文が不滅の光を放っているのでしょう。

いま現にこの世界にも。


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