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「浄土真宗は仏教じゃない」

「浄土真宗は仏教じゃない」という批判をたまに聞く。

その根拠はさまざまだけれど、こういう批判は今に始まったことではない。
法然や親鸞の時代、念仏への権力的な宗教弾圧がありましたが、他宗派からの批判は日常茶飯事でした。

ここでは批判を批判するのではなく、批判から見えてくること、すなわち法然や親鸞が批判にどう答えたのか、そこに何があるのか、一緒に見ていきたいと思います。

批判の的となったのは、天台宗の慈円の作といわれる『愚管抄』という鎌倉時代初期の歴史書に記されるような、法然や親鸞を取り巻く光景を見てのことなのだと推察されます。

そこには、法然という上人が京中を住処として念仏宗をたて、愚痴無知の者たちに喜ばれて、世に繁昌している、と記録されています。

このように、法然や親鸞の教化伝道は主として庶民階級の間に行われており、法然以前の既成仏教教団の人々や、それを支えてきた貴族社会がこれに対して軽侮の念をいだくことが多くあり、特に法然や親鸞に対して、念仏の教えは愚痴無知の者を相手にする低級な宗教であると批判が繰り返されていました。

法然の高弟である源智の著した『選択要決』には、当時の仏教学者が法然の『選択本願念仏集』に対して十種の批判をしていると整理し挙げています。

主な批判の内容は、法然の主著である『選択本願念仏集』が在家の人のための書物であること、またそれは知恵が浅くや能力の劣った人々に向けて述べているに過ぎないこと、そして念仏の教えは誘い入れるための方便に過ぎないこと、よって念仏という方便の教えでは救済されることが無いことなどを挙げており、当時かなり深刻な内容の教義批判を受けていたことがわかります。

このような批判に対して、法然は法語のなかで反論しています。
なかでも鎌倉の二位の禅尼へ進ずる御返事や、津戸の三郎へつかわす御返事等の法然の手紙には、次のような意味のことが記されています。

ある噂が私(法然)の耳に入った。
法然は無知の者には念仏を教えているが、有知の者には念仏以外のこと修行を教えている、と。

法然は大きな誤解であると反論します。

阿弥陀仏の本願
(阿弥陀仏が法蔵菩薩のときに宣言した誓いであり、このなか第十八願にすべての人を必ず救うと誓っている)は、一切衆生、すべての人々のために念仏の行を選び与えたのであるから、無知の者に念仏を選び、有知の者に念仏以外の行を選ぶものではない。
阿弥陀仏の本願は、有知と無知、有罪と無罪、善人と悪人、持戒と破戒、男と女、すべての差別を越えて浄土に往生させると誓ったものです。

このように人を選ばない阿弥陀仏の教えが、人によって内容を変えるはずがないと、法然は反論しました。

また法然は、常に自らを「十悪の法然房」「愚痴の法然房」と呼び、門徒に与えた法語には、

「念仏を信ぜん人は、たとい一代の御のりをよくよく学しきはめたる人なりとも、文字ひとつも知らぬ愚痴鈍根の不覚の身になして、尼入道の無知のともがらに、わが身を同じくなして、知者の振舞いをせずして、ただ一向に南無阿弥陀仏と申してぞかなはんずる」『和語灯録』

と、ただ愚者なるわが身と向き合い、知者の振る舞いをせずに、念仏を称えなさいと述べており、この信仰姿勢は多くの門徒に強く感銘されました。

浄土宗の人は愚者になりて往生す

また親鸞より弟子の乗信房へ送られた手紙には、

「故法然聖人は浄土宗の人は愚者になりて往生すと候しことをたしかにうけたまはり候しうへに、ものも覚えぬ浅ましき人々のまいりたるを御覧じては往生必定すべしとてえませたまひしをみまいらせそふらひき。文沙汰してさがさがしきひとのまいりたるをば、往生いかがあらんずらんとたしかにうけたまはりき、いまにいたるまでおもひあはせられ候なり」(文応元年十一月十三日)

と、法然が学匠を嫌い、愚かな人々が念仏を称える姿を讃えていたとその姿を伝えています。

法然は、当時「智慧第一」といわれた学匠でした。その彼が自らを「愚者」と恥じ叫んでいたのです。

また法然門下の人々も、それぞれがすぐれた英哲でありながら、鎮西派の聖光は自らを「小智愚鈍の凡夫」「最劣の下智」といい、西山派の証空は「我が身は悪なり穢なり不浄なり不善なり」と叫び、親鸞は「愚禿」と名のりその悲嘆を述懐しています。

法然が「浄土宗の人は愚者になりて往生す」といい、一代の学匠も愚痴の身となり、無知の人と同じく智者の振る舞いをせずして念仏せよ、と皆が同じ凡夫として念仏を称えていたのです。

しかし法然の時代、貴族と庶民は階級により差別され、庶民のみが凡夫であるとされていましたが、法然は人間を固定した型の中に入れて見ることをしませんでした。
貴族も庶民も、すべて絶対者(阿弥陀仏)の前には悲しき凡夫であり、愚かな悪人であることを自身の身を通して実感したのでしょう。

また、法然は「わが身を知る」ことを通して、信仰と向き合いました。
それはこの迷いの世界から解放される為のすべての行為を無価値とするものであり、あらゆる人間性ほ絶対的否定でもあります。

泥酔する人は自らの醜態に気づかないように、凡夫は自らが凡愚であることを知らず、悪人は自らの罪悪を知らないものです。

しかし、もし凡夫がわが身の愚悪を知ることができたなら、そのときは単なる凡夫でもなく、悪人でもないはずです。

お釈迦さまは弟子に対して、
「愚人の愚とはむしろ智者にて、愚人の智者と名のるぞ、真の愚者なれ」と教えたと伝えられます。

愚かなものを対象にした愚かな仏教と批判する声に対して、「愚者なる我」と我の告白をもって反論した法然や親鸞の叫びを、私たちはどのように聞いていくべきなのでしょう。

愚禿という批判への反論

外(他宗派)からの批判に、必死に答え続ける法然の姿を間近で見ていた親鸞は、この状況をどのように受け止めたのでしょうか。

醜くエスカレートしていく批判に、ただ無力に恐ろしい闇の世界に引き込まれるように、悲しく泣き叫ぶばかりだったことでしょう。
日ごとに批判はエスカレートし、時の権力者を巻き込み、法然門下の死罪や法然や親鸞の流罪という宗教弾圧へと発展したことへの怒りは想像を絶するものでした。

他宗派からの批判にどれだけ真摯に答えても、相手には全く届かない。
しかし批判がある限り答え続けなければならない。

この現実を前に、親鸞はひとつの結論に至ります。

批判は、外(他者)から起きているのではない。
人間から批判が起きているのだ。
私(親鸞)も人間であるのなら、私の中にも私の信仰を揺さぶる批判が起きている筈である。
親鸞は、批判する人たちの闇を、自身の中に見ようとしたのです。

すなわち「外(他宗派)からの批判」と戦い続けた法然に対して、親鸞は自身の中から起きる「内からの批判」と向き合い続けました。その内なる批判の正体は「(本願への)疑い」であり、救済への疑いがやまない自身の姿を、親鸞は「愚禿」と告白しているのです。

この「愚禿」の名告りこそが、親鸞による批判への回答であったのでしょう。



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