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心のゆとり

「登山者は常に山という大自然の前に、自分の小さな自我を捨てて、山を怖れながら、そのふところに入っていく心のゆとりをもたなくてはならない。
登山の技術は、そのゆとりのある心の中からうまれてゆくのが本当なのだ。
ただ末梢的な技術にとらわれて、自我だけを大自然にぶつけるものは、いつかは山に思い知らされるときがくることを知らねばならない」

登山家 小島六郎氏『遭難』の一節である。
一生を山と共に暮らし、山を愛し、山に情熱を打ち込んだ登山者であるだけに、その言葉には傾聴すべきものがあります。
そしてそれは単に登山者への忠告というよりも、私たちの心がまえと、日常の生き方について、深く考えさせるものがあります。

「人生をどう生きるべきか」

私たちに課せられた重く深い課題に対して、その一生をかけて向き合い、苦しみ、その身をもって悩み続けた鎌倉時代の高僧「親鸞聖人」は、深い思索と強い経験によって、人生という山を登る心構えを、「浄土真宗」という教えを通して人々に伝え、いま私の人生のテキストとなっています。

そして何より重要なのは、小島六郎氏が指摘する「心のゆとり」なのでしょう。
都会の満員電車に揺られ、せわしなく走り続け、もみ合い押し合いながら、人生を消費するかのように日々を送っていく私たちにとって、「心のゆとり」ほど難しいものはないでしょう。

そのような人生において、「心のゆとり」はどのように生まれるのでしょう。

再び小島六郎氏の言葉に尋ねてみると、

「山へ登る前に、誰でも準備をする。すなわち地図を調べ、日程をたてて計画を練る。そして道具を整え、食糧をそろえ、体力を調整する。
その仕事のなかで諸君は、期待と反省の、苦しみと緊張を感じとるに違いない。
しかしその計画と準備のなかに、すでに登山は始まっていることを忘れないようにしてください。
そして計画と準備とが完成すれば
登山はなかば以上は成功しているということをおぼえていてください」

この言葉は、当たり前のことをいっているようですが実際に山に登ろうとする者にとっては、大切な指導となるのでしょう。

山に登る前に計画と準備に十分な時間をかけて、自分の体力を整えて、自分の力の限界を知り、心にゆとりをもつ。

人生という高く険しい山を登るとき、その心がまえというか、心のゆとりというか、確かな準備と計画をたてるとき、私は仏教のことば、親鸞のことばを頼りにしていきたい。

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