見出し画像

西本願寺の勧学と東本願寺の講師

最近、西本願寺の「勧学(かんがく)」という言葉をよく耳にします。
私は東本願寺(真宗大谷派)に属しているので、普段「勧学」と見聞きすることは多くありませんが、学問の歴史を知る上で重要な言葉なので、西本願寺と東本願寺の学問の歴史を整理してみたいとふと思い綴ってみました。

そもそも「真宗」を学問として取り組むようになったのは江戸時代であり、徳川幕府が学問を推奨したという背景があると言えます。

西本願寺「真宗学」の歴史

江戸時代 寛永十六年(1639)徳川家康の孫、徳川家光の時代に、西本願寺は「学林」を設立します。
そして学問の最高職として「能化職」があり、准玄(出口光善寺)が就きます。
「能化」とは、「能」は「能く(よく)」という意味で、「化」とは教えるという意味であり、人々を教化する存在のことです。

しかし幕末に「三業惑乱」事件が起き、学林制度は廃止されました。

その後「勧学寮」が作られて、最高職として「勧学」が設けられています。

東本願寺「真宗学」の歴史

西本願寺から遅れること二十数年、寛文五年(1665)、東本願寺は「高倉学寮」を設立します。
そして学問の最高職として「講師職」があり、初代講師に恵空が就きます。
「学寮」とは今の大学のことで、講師職は学長、嗣講(しこう)職は教授、擬講(ぎこう)職は准教授、専任講師といえます。(役職については、安冨信哉先生の文を参考)
高倉学寮での講義は、講義録として整理されており、『真宗体系』『真宗全書』で読むことができます。

相伝義書


西本願寺の学林や勧学寮、東本願寺の高倉会館とは別に、「相伝義書」という学問の流れがあります。
そもそも親鸞聖人の主著である『教行信証』の理解について、本願寺八代の蓮如上人までは一家相伝であり、たった一人のみに伝えられるものでした。
しかし不測の事態を避けるために、相伝するものを増やしました。
これがいわゆる五ケ寺制度というものです。
その五ケ寺に伝えられるものが「相伝義書」であり、五ケ寺は虫干しするとき、字の読めないものだけで作業させていたほど秘伝とされていました。


しかし現在では出版され、誰もが読むことができますが、一方で内容についての研究が進んでいないのが現状です。

このように親鸞聖人の教えは、江戸時代から「真宗学」として一気に深まっていきます。
その深まりは、西本願寺、東本願寺、相伝と、様々ではありますが、それぞれが歴史のなかで興味深い展開をしているのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?