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他力とは。

浄土真宗の特質は「他力回向・他力本願」の一句につきるといわれています。
しかし、この「他力」という言葉が誤解をされ、怠け者が他人の世話になっていることを「他力本願」といい、他力の信仰は人間の生きる力と希望を奪うものであるかのように考えられています。

果たして、これまで他力を信仰してきた多くの人々が、そのような怠け者の生き方に、人生をかけて向き合いつづけたのでしょうか。

その一点からみても、これは大きな誤解であると気づくはずですが、一旦広まった誤解はなかなか正されることがありません。

想像してみてください。
一本の草が華をひらき実を結ぶのも、日光や大地の力によるものであり、私一人が生きてゆくのも空気や水や食物のような自然の恵みと、多くの人の力によって生かされているのであって、自分だけの力で生きているのではありません。



このようにこの世のすべてのものは、それ自らの力だけでは存在し得ないものであり、すべての人は、多くの人の無量のいのちと無限の力と愛によって生存しているのです。

ゆえに私が自らの力で生きる根拠となるものは、実に「他の力」であって、即ち「他力」であることがしらされるのです。

そんなことは信仰がなくても理解していると多くの人は反論するでしょうが、浄土真宗の開祖である親鸞という人は、自分自身を含めて私たち人間による「自覚」や「理解」を絶対的であるとしません。

なぜなら、私たちは状況次第でいつでも善を悪に、悪を善にし、自分の都合のいいことでしか物事をみようとしません。
調子がいいときは「神様や仏様のおかげ」といい、調子が悪いと「神も仏もない」と神仏のせいにするのが、私たちの偽らざる姿でありましょう。

親鸞はそのような自身の姿を深く見つめ、それを「悪人」と告白し、信仰救済という「価値観の転嫁」の歩みを求め続けたのです。

このような悪人観をもって、多くの支えのなかでいかされている自身への思念を深めていくところに、単に「神様仏様のおかげ」というのではなく、真に他力に目覚めていくという宗教的世界観が生まれてくるのです。

そして浄土真宗における他力とは、そのような事実に目覚めさせようとする阿弥陀仏の力のことです。
これは私たちの力不足を補うような力ではありません。人間の力を否定したところに明らかになる仏の慈悲心のことであり、私の生きる根拠です。



多くの先人が人生をかけて問い続けたこの課題について、この私が向き合うことができる、ただそれだけで「他力」という世界は、この人生を賭ける価値があるのではないでしょうか。

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