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山下清の流儀

子どもの頃、芦屋雁之助が演じるテレビドラマ「裸の大将放浪記」が大好きだった。
山下清は何かあると決まって「なぜかなぁ、うーん、考えるとだなぁ、、」と、口癖のように一旦停止する。
どんな事柄でも、一旦止まって考えてからではないと行動に移さないのだ。

一旦停止するということは、「聞いた」ことを自分のなかで「問い」に置き換えていると私には見えます。

これは特に宗教において重要な思考なのでしょう。
なぜなら宗教とは「私の抱えている問題を解決する」ものではなく、「真に問題とすべきことを提供する」ものだからである。

それは仏教的にいえば「苦悩の人々」、キリスト教的には「迷える羊の群」の救済であり、どちらも「救済」より「苦悩」「迷い」を取り違えていないかということが重要になります。

だからこそ「真に問題とすべきこと」への探究が信仰の道であり、ただ「聞く」のではなく「問い」続けることが救済への一本道なのでしょう。

お釈迦さまは「十二因縁」の説法で、人間の苦悩の根本原因は「無明」にあると教えています。
「無明」とは「明るく無い」の意味であり、それは「真に問いとすべきこと」がわからないことです。

無明なるが故に、私たちは迷い、無明なるが故に、どこに行けばいいかもわからない。

ここに宗教の「領域」があります。
すなわち人間の知性では破ることができない無明は、阿弥陀仏の光明に依らなければならないのです。

親鸞聖人は「如来は光明なり、光明は智慧なり」といいます。

阿弥陀仏の光明により、我ら人間は「問い」すら持てない「無明」の哀しみを知らされるのでしょう。

「信仰は聞くことである」と言います。
それは単に「聞く」ということではなく、「聞く」ことが「問い」となって私の上に新しい世界を開いていく営みです。

一旦停止して、考え、問い続けた山下清の流儀。
現代の私たちには、学ぶべき点が多いように思えてなりません。

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