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めぐりあう事実

人との出会い。

それは私たちを潤すものであり、また苦しめるものでもあります。

そもそも私たちがひとりの人間として、いまここに形成されるのは、ただ自分だけの力に基づくものではなく、いまの自身を形成させてくれている外部の原因があるといえるのでしょう。

そしてその外部の原因のなかで、大きな力をもつものは、自分の先生や友人、先輩や仲間というような身近な人たちとの関係でしょう。

この一生を振り返れば、忘れられない思い出にはいつも大切な人とのめぐりあいがあるように思います。

そのめぐりあいは、私がこの一生のうちに何度も生まれ変わるキッカケとなるもので、その繰り返しのなかで一人の人間として、形成されていくものではないでしょうか。

私の転身の動機が、めぐりあいともいえるのです。

浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、
「よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」『歎異抄』より
と、よき人の言われるままに、信じるしかないのだと告白をしています。

それは信じられないような人との出会いが起きたこと、そして私のすべてを覆していくような世界について聞くことができたこと、偶然では片付けられないめぐりあいに従う心のあり方が、親鸞という人の宗教の根幹を貫いているのでしょう。

若き親鸞聖人は、比叡山延暦寺に建てられた常行三昧堂の堂僧をつとめ、一心に修行に励みました。
しかしどれだけ真摯に努めても励んでも、純粋な仏の心を体得することができず、ただ自らの奥底に流れ続ける煩悩の荒々しい濁流に打ちひしがれるだけでした。

建仁元年親鸞二十九歳のころ、ついに比叡山を下り、京都六角堂に百日参籠して祈り続け、九十五日の明け方に聖徳太子の夢のお告げを受け、東山吉水の法然聖人を訪ねるのです。

法然聖人は、若き求道者に向かって、繰り返し他力救済の原理を説き続けました。
阿弥陀仏の悲願のまえに、私たちすべての人がありのままの姿で救われていく。

飢えた魂にすすり泣く若き求道者に向かって、ひたすら法然聖人は説き続けたことでしょう。

「はからいなくよろこべ」と。

はからうことなく、ただ喜ぶ。
これほど難しく厳しい教えはありません。

「ただ喜べ」と言われれば、人は「ただ」とはどのようなことだろうと計らい始めます。
そしてその計らいは、心の影のように、ずっとまとわりついてくるのです。



親鸞聖人は「ただ喜べ」という教えを聞き続けるほかにないと、飢えた魂を水に浸すように、法然聖人に向き合い続けたのです。

このように固く結ばれた師弟が、配流という悲劇により、引き裂かれることとなります。

建永二年二月に念仏停止の宣示が下り、宗教弾圧により、法然聖人は七十五歳の老体を四国の讃岐に流され、親鸞聖人は三十五歳でしたが越後の国府に流されて、師弟は遂に再び会うことなく、建暦元年十一月に法然聖人は京都に帰り、翌年八十歳でその一生を終えました。

恩師の葬儀に参列することもできなかった親鸞聖人は、恩師への想いをかみしめながら、関東地方の巡教を続けたことでしょう。

八十四歳になった親鸞聖人は、『西方指南抄』という六冊455枚にのぼるものを書き写しました。
これは法然聖人の法語、手紙、行状などを集録したものです。

八十四歳という高齢で、老眼をぬぐいながら、恩師法然聖人の言葉を書き写し続ける姿を思うと、めぐりあいという事実は、命が終えるまで人を動かし続けるものといえるのでしょう。

一方で陥りやすい「めぐりあいの落し穴」があります。
それは「めぐりあえた事実」ではなく、「めぐりあった人」に従ってしまうことです。

信仰における出会いにおいて、人に出会うことが救済の条件であってはならない筈です。
恩師に出会わないと救われない、ということではないということです。

親鸞聖人は法然聖人との出逢いを、阿弥陀仏のはたらき(還相のはたらき)として受け止めました。

そうであるならば、仏のはたらきは「人」に限ったことではないはずです。

書物を通して恩師に出逢う、言葉によって、出来事によって、私の日常には仏のはたらきが溢れているのです。

日常に溢れるすべての出来事が、私たちにとっては「めぐりあいの事実」であり、その根底に流れる仏のはたらきに従うことが大切なのでしょう。
それは重力のように、見えない力で私を支え続けているのです。

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