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もちつもたれつ

仏教のみならず、宗教そのものに対する見方が厳しい時代になっているように感じます。
それはさまざまな災害や災難が起きるが、それに対する被害や不安に対して、何もしてくれないではないかという災難の時代からの要請に応えることができていないところにあると思います。

ただそういう要請の根にあるものは、宗教が生活や社会に役立つものであるという考えがあり、それをもとにいまの宗教は人間の生活や社会の役に立たないから無用であると否定している側面が強いようでもあります。

宗教が生活や社会に役に立つ、すなわち改善していくという考えは、決して間違いではありません。
しかし宗教の目的は、誰もが持っている人間の根本的な悪と、深い罪に関わらず、その人間に救いの希望を与えるところにあるのであって、生活や社会の改善は先決問題ではありません。

むしろ罪深き私たちが、その暗闇から立ち直っていく希望や歓喜が、信仰的転心として生活を変え、社会を改善していくということはありますが、それは結果として与えられるものです。

親鸞聖人は「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし」と述べています。

怒り、腹立ち、嫉み、妬みが隙なく起こり続け、死ぬまで消えることがない私であると。
これが誰もが持っている私たち人間の根本的悪であり、深い罪です。

しかしこのような罪悪は、自覚が深いほど、仏さまの慈悲もまたいよいよ深くはたらきかけて、救おうとするのです。
このような人間としての心魂を、どん底からひっくり返されるところに、現実の生活を力強く立ち直せる歩みが開かれてくるのです。

その開けた世界を、仏教では「縁起」という言葉であらわします。
すべてのものは相依りて相助けて、持ちつ持たれつの関係において成り立っている事実に目覚めるのです。
この世のものも人も、独立独行しているものは何ひとつありません。
私の役に立つ宗教ではなく、大きな世界に目覚めることが宗教の存在意義であり、次の代に最も伝えていかなければならないことだと信じています。

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