見出し画像

鬼が棲む心

私たちが戦っているものは、何だろう。
寂しさ、虚しさ、孤独、言葉にしようとしてもスッキリと当てはまらない。

現実の社会をみれば、いろいろな矛盾や不安が渦巻いています。
私たちはこれらの社会苦と戦い、耐えて、暮らしていかなければならないので、ふと自分の生活をかえりみたとき、孤独な自己の姿に向き合って、深い寂しさを感じずにはいられません。

しかもこのような寂しさは簡単に、取り除くことができないほど深刻なものです。

そこでこのような寂しさを紛らわすために多くの人たちは、娯楽を楽しむことによって、SNSでつながることによって、自分を慰めていたりします。
しかしそのような慰めでは、どうしても誤魔化していけないものが残っている、どうにもならない、行き詰まりを感じずにはいられないものがあるように思います。

平安時代の僧侶に源信という人がいます。
この方は日本天台の教学を組織した偉大な学徳ですが、残された源信の著書をみると、次のように述べています。


自分は頭の毛が白くなっているのに、心はいろいろな欲の色に染まって汚れている。
自分の頭の毛は剃り落として、お坊さんになっているが、心に生えた貪欲、瞋恚、愚痴の毛を剃り落とすことができない。
私の法衣は美しい色に染めても、私の心をほとけ心に染めることはなかなか難しい。
多くの人は恐ろしい悪魔や鬼が外にいるように思って、御祈祷をしたり呪術をしたりしているけれど、実は自分の心の中に恐ろしい鬼が住んで暴れていることに気がつかない、いったいこのような心の中の鬼はどうしたら退治することができるだろうか。
現にいま私源信は、生まれがたい人間に生まれているが、人間としての本来の面目はこれでいいのか?どのような意味をもって毎日を過ごせばいいのだろうか。

このように源信は、真剣に自我と人生について向き合い、問い続けました。

このような人間の深い悩みというか、根源的な要求が満たされる時、私たちは初めて安らかな心を得ることができるのでしょう。

そしてこのような人間の要求を満たし、深い人間の悩みを突き詰めていく手立てが、宗教という世界なのでしょう。


源信が述懐されたように、私たちは一生のあいだ、心は俗塵にまみれて、煩悩にみちた生活を続けるのです。
ただせっかくこの人生に生まれてきたのです。
幾多の山河を越え、さまざまな苦難に耐えてきたのだから、その苦しみや悲しみを突き抜けて、静かな強さに出会うことができたら。

このせちがない世の中にありながら鬼が棲む私の心は、いつか必ず、あたたかな太陽に照らされる世界になるのでしょう。

綺麗事といわれてもいい、私はそう信じています。

この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?