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定型的に性的な感覚を発達させた人は誰でも素晴らしいお膳立てがあれば浮気する

(こちらの記事の続きとなります)

どういう趣旨の記事だったかは忘れたけれど、年寄りの昔話みたいな感じで女のひとが書いていた話で、大きい会社にいると、大きめの案件だと長い期間チームを組んでずっと一緒に助け合って働くし、案件の納品が近付いてきたときはみんなの熱気がすごいし、サポート役の女のひとも大変な時期は必死にやっている男を残業もしながらサポートするし、ずっと一緒にいて、テンパったり、へこんだり、いらいらしたり、それを謝ったり、何ヶ月も、奥さんや旦那よりもはるかに長い時間、はるかに気持ちの入った時間を一緒に過ごすことになって、そして、すごい緊張感から一気に解放されるみたいにしてその案件が終わると、ずっと一緒に頑張ってきた相手とほっとしているだけでも達成感を共有できている気持ちのよさがあるし、お互いへの感謝もどんどん胸の中に浮かんでくるし、昔は飲み会も大きくて、そういう大きな案件をやりきったとの飲み会はみんな飲んではめも外していたし、そういう雰囲気の中で、自分たちもいい気分で酔っていて、感謝の言葉とか、あのときはどうだったとか話しながら、全体の飲み会が終わってから二人でもう少し飲むことにして、なんとなくお互いにそんな気になっていてそのままホテルに行くというパターンはみんなけっこうあったはずだというようなことを書いていた。

戦友的な関係で、感謝もあるし、相手をいいやつだとも思っているし、一緒に頑張ってくれてうれしかったとも思っているし、自分のために頑張ってくれた部分も感じていたし、自分がうまくやれたことにうれしそうにしてくれていた顔がうれしかったし、けれど、ずっと仕事の仲間としての態度しかとってなくて、案件も終わって、もうこのひとと今日までの熱気のある一体感みたいな感覚で一緒にはいられなくなるんだという寂しさがありつつ、伝えたい感情がいろいろありすぎて、それは結局全部ひっくるめると、相手をいいひとだと思っているのを伝えたくて、一緒にできてうれしかったと伝えたいということで、相手のことを好きだと思っているし、好きだとは言えないにしても気持ちはわかってほしかったりしていて、そうなったときには、男女ともに気持ちを伝えるためにはセックスになってしまうというのが自然な流れになるのだろう。

同僚とか営業事務の女のひととのそういう不倫なら、奥さんと子供のことを大事にしていて、セックスも奥さんとで満足していてるひとでも、性欲以外のモチベーションと自己実現のために、どうしてもこのセックスはしておきたいと思ってしまうのだ。

このひとと裸で抱き合って、ありがとう、おかげで乗り切れたよ、一緒にやってくれたのが君でよかったと言ってあげられて、相手がそれにうれしそうにしてくれて、相手も自分にうれしいことを言ってくれてというのをイメージしてしまうと、セックスしないことを選べないのは当然だろうと思う。

そういう種類の浮気や不倫だって昔からありふれたものとしてあるのだ。

一生懸命働いていれば、一生懸命な姿をずっとそばで見ている異性もいて、そんなふうになってしまえる状況があれば、そんなことは起こってしまう。

浮気するつもりのなかったひとたちですらそんなものなのだ。

本当に、女のひとたちの浮気しない男の見分け方を知りたいというのはどういう意味で言っている言葉なんだろうなと思う。

結局のところ、浮気しない男が一定数はいるとして、その多くはセックスが好きではなかったり、トラウマ的なものがあって自分は浮気は絶対にしないと強く思い込んでいるようなひとと、今までに女性の傷付いている姿を見て強いショックを受けたことがあって、自分が直接手をくだして傷付けるようなことは絶対に避けたいと思っているようなひとだけなのだろう。

要するに、セックスが好きでも浮気をしないというのは、そのひとの性格とか他人への思いやりとか正義感ではなく、何かの事情で浮気しないだけだということになる。

セックスが好きじゃないひとでもなければ、浮気欲求の強弱は個人差があるにしろ、自分のニーズに適した機会があればみんな浮気はするのだ。

男の浮気についての穏当な語り方としてはそれくらいが妥当なところなんじゃないかと思う。

それなのに、女のひとたちはあまりに現実に則さないことを男の浮気について語りすぎだろうと思う。

男でも女でも、放っておいたら浮気するひとは機会があれば浮気するし、そうじゃないひとも魅力的な相手に上手にお誘いを受けてばれなさそうなら浮気するし、男でも女でも、パートナーに浮気をされたら悲しい。

それだけのことなのに、それ以上に何を浮気という行為に見出したいというんだろうなと思う。

パートナーを愛していたら浮気なんて絶対にできないはずだとか友達と言い合ったり、どういう男が浮気をしないという記事をたくさん読んで、それをネタにして女同士で浮気された話を語り合って、どんどんと女のひとたちが男へのイメージを間違ったふうに塗り固めていくのは、男女お互いにとってよくないことなのだろうなと思う。

どういう男は浮気をしないという記事を読んでいてよく思っていたのは、これは具体的な浮気しない男を何人くらい思い浮かべて書いているんだろうかということだった。

そもそも、書き手からしても、その思い浮かべている男が実際に浮気をしていないかどうかはわからないし、その自称浮気をしていない男が妻との生活を大事にしているから浮気なんてするわけがないと語っていたとしても、実際はその男はセックスが好きじゃないという特殊なケースのひとだったのかもしれないのだ。

その男は誰にも自分はセックスが好きじゃないとは言わずに、嘘をついているときの表情で、家族が大事とか言っておいて浮気するようなやつは人間として終わってるのだというようなことを言うのだろう。

浮気しない男のサンプルを知っているとしても、そういう場合が大半なんじゃないかと思う。

浮気しない男がいるかもしれないという幻想を持っている女のひとたちがたくさんいるせいで、そういう記事には常に需要があるのだろうし、その手の記事は、適当でいいからと、仕方なく書かされた記事ばかりだったりするのだろう。

ライター自身がそんな男はいないと諦めている場合も多いのか、浮気しない男像をむりやりひねり出そうと、風が吹いているから桶屋は儲かっているのかもしれないですねというような方式で、女性が苦手なひとだと浮気しないかもですねとか、ケチなひとは浮気しないかもですねとか、どう考えても一般化して語るには無理のあることを理屈っぽく書き連ねている印象の記事がたくさんあった。

けれど、読む方も、真面目に浮気しない男について考えたいわけでもなく、さっと読めるものになんとなく納得したり、話のネタに使えたりすればいいというくらいで読んでいるのだろう。

浮気しない男はいるんだろうかという話を女のひとたちは人生でたくさんするんだろうけれど、それなりに興味のある浮気しない男についてだとしても、長い文章なんて誰も読まないし、かといって、短い文章では大雑把すぎて誰にも当てはまらないようなことしか書けないのはしょうがないのだろう。

それでも、たくさん記事を読んでいれば、自分の経験に当てはまるようなことも書いってあったりもして、そういう大雑把な語り方になるほどと思ってしまうたびに、人間を大雑把に語る語り口に馴染んでいくことになるのだろう。

女のひとたちは若い頃からそうやって非現実的な男語りに親しんでいくのだろうし、大人になる頃には男に対して頭でっかちに色眼鏡で見る準備が万端になっているのだろう。

それは男を理解する妨げになっているのだろうし、恋愛への向き合い方を自分本位なものにする助けにしかなってないだろうし、ひたすらに害悪でしかないんだろうと思う。

けれど、インターネットと携帯電話以降、そういう短くて大雑把なクソ記事はむしろそれまでよりもはるかに量産されて、自分本位なものの見方から男を軽蔑しつつ、もっと自分に都合のいい男がいないかなと妄想をするときのネタとして日々大量に消費されているのだろう。

女のひとたちの絶対に浮気されるのは嫌だという物言いを見かけるたびに、もしその絶対に嫌の絶対が本当の絶対なら、セックスが嫌いでセックスしたくないし、いちゃいちゃするのも嫌な男を選べばいいのにと思っていた。

もしみんながそうしたなら、絶対嫌な女のひとたちに比べてそういう男が少なすぎて競争率が高すぎる気もするけれど、絶対に嫌なひとたちは、自分もセックスが嫌いなひと以外は、絶対にそんな男を探そうとしないし、そんな男を選びもしないのだ。

それなのに、浮気しない男はどういうひとだという話をいつまでもやめられなくて、いつまでも浮気には全身全霊で悲しむべきだと思い続けているなんて、どうしたところでバカバカしいことだなと思う。



(終わり)



「息子君へ」からの抜粋となります。


息子への手紙形式で、もし一緒に息子と暮らせたのなら、どんなことを一緒に話せたりしたらよかったのだろうと思いながら書いたものです。
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