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澪標 [完結]

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「ピアノを拭く人」の番外編です。彩子の同期 鈴木澪が主人公で、コロナ禍の恋愛も描いています。
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#不倫

澪標(みおつくし)   プロローグ

澪標(みおつくし)   プロローグ

 スクリーン越しに、同期の彩子と透さんの笑顔がはじける。彩子は白無垢から純白のウエディングドレス、透さんは紋付羽織袴からタキシードにお色直しして画面に現れた。長身の2人には、和装も洋装も映える。

 透さんの右腕と左腕には、白豆柴犬の胡桃と、茶白猫の柚子が、安心しきった眼差しでそれぞれ収まっている。彩子が2匹の頭を撫でながら、注意を画面に向けようとする。子供を持たないと決めた2人が、保護団体から迎

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澪標 6

澪標 6

「笠原さん、この日付、どういうことですか?」

 運営部の柴田さんが、電話を保留にしたまま、営業部の笠原さんのデスクにつかつかと歩いてきて詰問した。

「Y大学に下見に行く日時、11月16日 午前9時とありますよね。先方は、6日、つまり明日のつもりで確認の電話をかけてきているんです」

 笠原さんは、ファイルをひっくり返し、必要事項を書き込んだ書類を取り出した。私は作業の手を止め、彼女の見つけた書

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澪標 7

澪標 7

 東京に帰る新幹線の座席に落ち着くと、あなたは膝の上で手を組み、背筋を伸ばして切り出した。

「これから話すことは、あなたの胸に収めて、絶対に口外しないでほしいんです。志津にも話していません。あなたが、口外するような人ではないことはわかっていますが」

 私は「約束します」と答えた。何も言わなくても、あなたに伝わっている確信があったが、敢えて言葉にした。

「妻と出会ったのは、修士課程を修了して就

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澪標 8

澪標 8

 送別会の宴席を抜け出し、障子を後ろ手で閉めると、喉に酸っぱいものがこみ上げてきた。朝から喉がいがいがし、胃のむかつきもあったのに、上司に注がれたビールを無理に飲んだからだった。

 しんと冷えた廊下の空気を深く吸い込んだ。宴の喧騒を背中に、私は化粧室を探そうと廊下を歩いた。ほのかにライトアップされた形ばかりの中庭に、小さな石灯篭が据えられていた。それを見て、あの宮島の夜を思い出した。もうすぐ、宮

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澪標 9

澪標 9

 あなたの奥様と息子さんが大阪に里帰りする週末、外出しないかと誘われた。奥様には、空き家になっている新潟の祖父母の家のメンテナンスに行くと言っておいたらしい。

 千代田線の根津駅で待ち合わせた。あなたは、黒縁眼鏡、濃紺のパーカーにベージュのチノパン、黒いスニーカーというカジュアルないでたちで現れた。どれもあなたの身体に気持ちよく馴染んでいて、普段着さえも、納得したもの以外は身に付けないこだわりを

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澪標 10

澪標 10

 久々に彩子が出張してきて、竹内くんと 3人で同期会を開いた。1軒目で仕事の話をし尽くし、2軒目の話題は自然に恋愛話に流れた。

 ハワイアンミュージックに乗って流れる、ローカルラジオのハワイ英語が耳に心地よかった。

 コナビールで乾杯を済ませると、竹内くんが彩子に気づかわし気に尋ねた。「水沢さん、電車大丈夫? そろそろ10時回ったけど」

「彩子は、彼氏の家に泊まるから問題な~し!」彩子が答え

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澪標 11

澪標 11

 

 今にも掴みかかってきそうな鉛色の空の下、錆浅葱色の海が躍動していた。暴力的な勢いで寄せてくる波は、波消しブロックに勢いよく乗り上げ、無数の白い泡を生んで帰っていった。

 空も海も鳴っていた。海は、そこで生まれ、消えていった無数の生命を飲み込み、むせ返るほどの命の匂いを放出していた。

 太古から繰り返されてきた剥きだしの自然の営みがそこにあった。畏怖を覚え、体の芯が熱くなった。

「私た

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澪標 12

澪標 12

 クリスマスイブをあなたと過ごせると知り 、私の胸は何週間も前から躍っていた。

 平日のアフターファイブなので、どこに出かけようか、プレゼントは何にしようかと、寝る間も惜しんで考えた。あなたの希望を尋ねると、私に決めてほしいと言われたが、私もあなたの希望を聞きたいと言い張った。

 あなたは意外にも、私の部屋で手料理が食べたい、それが何よりのプレゼントですと目元を緩めた。プレゼントは何がいいかと

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澪標 13

澪標 13

 私のアパートは、同期の新年会の会場と化していた。彩子が本社にいた頃から、3人の誰かの部屋を会場に、語り明かすのは恒例だった。

「彩子、大和さんと仲直りできた?」

「まあね……、一応」

 彩子が納得できないものを腹に抱えていることは、歯切れの悪い口調から読み取れた。辛いことを胸に押し込めてしまう彼女が、安心して弱みを見せられる関係を彼と築けることを願わずにいられなかった。

「水沢さん、弁護

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澪標 14

澪標 14

 ニュース番組で、都内の今日の新型コロナウイルス感染者数が報じられていた。感染者、重症者、死者の数は毎日報道され、感染者の延べ人数は日々増加していった。

 ダイヤモンド・プリンセス号内で発生した新型コロナウイルスの集団感染が報じられた頃は、自分たちとは遠い場所で起こっている出来事だった。だが、国内の感染者数が増え、濃厚接触者、手洗い、マスク、三密、ソーシャル・ディスタンスなどの言葉が、連日メディ

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澪標 15

澪標 15

 スクリーンの向こうのあなたは、無防備に疲れをさらしていた。目の下の隈が痛々しく、無精ひげが目立ち、身なりを整える余裕を欠いていることが伺えた。朝のミーティングでは、辛うじて身なりを整えていたことを思うと、日中にいろいろあったことが読み取れた。

「妻がますます悪くなっているんです。コロナ感染への不安だけではなく、僕が自分を捨てるんじゃないか、両親が死んでしまうのではないか、息子がコロナにかかるの

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澪標 16

澪標 16

 彩子がZoomで話したいと連絡してきたのは、木々が色づいた晩秋だった。 

「すーちゃん、久しぶり!」

 画面の向こうの彩子は、しばらく会わないうちに、かなり髪が伸び、ますます綺麗になっていた。

「久しぶりだね、彩子! 元気だった?」

「元気、元気。本社はずっとテレワークなんだよね?」

「そう。通勤しなくなってから、太らないように、週2-3回はウォーキングしてるよ。ところで、話したいこと

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澪標 17

澪標 17

 あなたと分かち難く結びついた冬の荒海が、1年前と変わらずに、そこにいた。

 鉛色の空も、飲み込むように襲いかかってくる荒波も、波消しブロックに乗り上げて生まれる無数の白い泡も、あの日と変わらなかった。無数の生命を育み、飲み込んできた海水の匂いも、力強く鼻腔に侵入してきた。

 1年前のあなたと私だけが、もうどこにもいなかった。 

 太古から繰り返されてきた自然の営みの前には、1年など、まばた

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澪標 エピローグ

澪標 エピローグ

 Zoom画面の向こうで、少々お疲れ気味の彩子が手を振っている。背景に映るアンティークな掛け時計は、ただ同然で購入したという古民家の部屋に気持ちよく調和している。

「すーちゃん、今日は本当にありがとうね」

「こちらこそ、2人らしい素敵な結婚式に参列させてくれてありがとう。幸せパワーをたくさん分けてもらったよ。いま、透さんは?」

「店で明日の仕込みを手伝ってる。また、ゆっくり紹介するね。コロナ

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