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止まり木がなければ生きられない


どんな人にも”止まり木”が存在する。

止まり木に寄りかかり、止まり木で眠りにつき、止まり木が支えになる。

時には、自分自身が止まり木になって誰かを癒す。そんな木が誰の傍にも必ずある。

そうでないと人は生きてはいけない。

けれど、僕は止まり木で休むことを許されない。ましてや、止まり木でいてくれる人はいない。


いじめを繰り返している人にも

損得勘定で友人を選び自らを正当化する人にも

DVをして愛する人を痛めつける人にも

SOSのサインを見て見ぬふりをする人にも

強制的に意見を押し付ける人にも


何かしら、誰かしらの止まり木がある。

僕にはなぜないのか、それを考えれば考えるほど恵まれなかったのだろうと諦めるしかない。

あるいは、僕のように特殊な人だと、同じような人間がいないため孤独に進まなければならない。

当たり前から排除され、その傷が癒えないまま戦い続けることで、どこかの集団へ所属することが余計に認められなくなる。

何もかも失った人には、傷が癒えることなく戦い続けている人は、休むことも甘えることも許されないということなのだろう。


甘えることや安心すること


人が生きる上で、必要不可欠なものを得ることも与えられることもなくやってきた場合

心にも行動にも将来にも影響が出てくる。

しかし、その問題を与えた人や環境は罰さられることはなく、傷付けられた人が永遠に背負い続けなくてならない。

他人へ説明しても理解ができないことが大多数のため支援さえ受けることが出来ない。


僕は、自分自身の傷に向き合うことがなかった。向き合っても解決出来ないことばかりだったから。

解決するためには、止まり木が必要だったから耐えるしかなかった。きっと誰かそばに居てくれる。きっと少しは分かってくれる人がいると。

だから、死なずに走り続けられたと思う。

でも誰も何も存在しないのだ。僕には止まり木がない。声を上げてくれる人も、守ってくれる人もいない。

本当におかしい環境なのかもしれない。

周りの人にあるものが、自分自身には許されないという環境にあるとしたら、それは間違いなくおかしい世界である。

突出したものは運や配分のような不確定なものが付きまとう。しかし、人が生きる上で大切なものがない場合は、世界やあなたの周囲に問題がある。

弱っている人を、追い込まれている人を放っておくことが許されるなんて有り得ないのだから。

止まり木は誰にでも存在する。身体を休めて、心の支えになる。時には、自分自身が止まり木になり他者を癒す。

しかし、僕には止まり木がない。

その影響が顕著に現れている。そろそろ本当に難しいのかもしれない。

夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。