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スマートフォンが落とした影

スマートフォンの出現により人々の暮らしは豊かになったのか?
スマートフォンが可能にしたマルチタスキングは、“ながら“が当たり前の世界を作った。

街を見渡すと『歩きながら』『対話しながら』『食事しながら』スマートフォンを操作する人たち。注意散漫が日常風景になった。人がスマートフォンに操作されているようにさえ見える。

常にインターネット上に脳をぶっ刺しているかのような、一種の酩酊状態の人々。

人の感情の変化を読み取る事が苦手になった。
常に誰かと繋がっているのに、とても寂しい。
だからインターネット上に“誰か“や“何か“を探し求める。寂しさの連鎖から抜けられず、誰かや何かに消費される。

ハンナ・アーレントという思想家は「寂しさ」をこう表現した。

(ハンナ・アーレントは、ドイツ出身のアメリカ合衆国の政治哲学者、思想家である)

「寂しさとは、他者に囲まれながら他者に接することができない状態」

スマートフォン依存症の現代人は、寂しさを自ら作り出す。誰でもいい“誰か“を求める時、自分も既にその一人だ。
つまみ喰い的な人間関係の中で、自己価値を疑い、子供のように承認欲求をインターネット上に垂れ流す大人たち。

とある葬儀でこんな会話があった。

葬儀に参列していた女性が、他の参列者に
「こうも長い時間スマホも触れないんじゃ…
退屈ね」と。

本来、葬儀とは故人に想いを馳せ、何もせずただ故人を思い浮かべる時間だ。そこに人間らしさ、人の営みがある。

誰かを想う時間すら「退屈」と錯覚させられてしまう現代社会。

私は実に危ういと感じる。

同時に複数の事をこなす事は良い事とされ、
ながら用に作られたコンテンツも増えた。

突然の外部から刺激に、目の前の事を後回しにする習慣は、果たしてマルチタスクと言えるのか。

1つの事に集中し、毎日を観察し、ようやく得られるものがある。『豊かさ』とはそういうものではないだろうか。注意散漫な日々は本当に人々を豊かにしてくれたのか。

「二兎を追うものは一兎も得ず」という西洋のことわざが、ハンナ・アーレントの言葉と共に人生を教えてくれている気がしてならない。


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