石井裕 先生の講演 @スーパーグローバル大学
かつて、私がもっと若かった頃、就職活動の一環か何かで大学生が何十人か集まったセミナーのようなものに参加した時、講師のような人が「あなたの人生で達成したいことは何ですか?」と尋ねてきたので、私は「石原裕次郎さんのような葬儀を執り行いたい」と答えました。
日本で生活していて、あれこれ考えている割に、死生観について語り合うことが少ないと感じるのは私だけでしょうか。己の生き様にどれだけロマンを刻めるか、というお話を聞いて参りましたので、私なりにフィードバックします。
MIT石井教授を北大に迎えて~北海道150年事業関連企画
1.) ワークショップ: 「デジタルアーカイブが紡ぐ未来:MIT石井裕教授と考える未来記
3.) 特別講演会: 「独創・協創・競創の未来」
3つの講義のうち、この2つに出席して、お話を伺って参りました。
先生の発表の中身は、twitter @ishii_mitに載っているのではないかと思いますので、そちらをチェックしながらこちらを読んでもらえたら、お時間頂戴した価値が上がるかと思います。フォローなさってみてはどうでしょう。
私達は最接近しようとしていた
先生の講義で私が面白かった点は、その講義の内容を話すに当たって先生が参加者に対してちょいちょい挙手を求めることです。質問に対して手を上げればyes、上げなければnoという個人対大衆のコミュニケーション。問いかける内容はほとんどがリテラシー、ナレッジを確かめるもの。最初は、無言で手を上げ下げする集団の様子が不気味でその雰囲気だけに気を取られていたのですが、ふと思いました。仮に、先生の問いに対して全員が手を挙げ続けていたらどうなるのだろう、と。それこそ不気味さが極限になるけども、確実にヒートアップするだろう。運動のシンクロもさることながら、知の熱が最大化するに違いない、と。
つまり、先生の問いがなされる度に先生は参加者たちが先生に接近するチャンスを与えていたということです。しかし、全体としてその期待に応えることは出来なかった。最後に用意されていた質疑応答のチャンスも面白くない質問ばかりで無駄に時が過ぎました。残念。
天文学的浪漫〜青白い火〜
先生の特別授業は、宮沢賢治の直筆原稿の紹介が第一印象として記憶に残っています。私が初めて「これからは感性の時代」と聞いてから十数年経ったでしょうか。石井先生はまさにそれはこういうことだと言わんばかりのお方だと思いました。
「明朝9pt」の整った印刷物からどれだけの感性揺さぶるドラマが削ぎ落とされてしまっているか。
スクリーンに映した賢治「永訣の朝」の直筆原稿の写真の前で「どうして作家の方々はそのことに対して異議を唱えないのでしょうね」と先生は仰ってました。物語が生まれるまでのメタ物語をも追い求めてしまう感受性。想像力。有名な石井三力(出杭力・道程力・造山力)の素はこの感受性ある想像力なのです。
想像する。伝える。読み取る。想像する。
送信者と受信者が時空を越えて繰り返す応答の連続。
果たして、このロマンの話について来ていた人はどれだけいたのだろう。と気になります。と同時に思い出したのが、2013年に聴講したフロッタージュアーティスト岡部昌生さんの講義でした。参考に下のリンクをご覧下さい。
終わりの無い応答のダイナミズム(←岡部昌生×港千尋インタビューアーカイブ)
フロッタージュは読み取る作業をしたことを伝えるというアートです。講義の時に観たドキュメンタリー映像を紹介したいのですが、ネット上にはないみたいでした。なぜ、紹介したいかと言うと、この映像を観た時に気付いたことが、石井先生が仰っていた「直筆原稿の魅せる身体痕跡」というドラマと私の中で妙にリンクしたからなのです。一見、美しいとは言えないかもしれないけども、そこにはその文章、物語が整うまでの作者の息吹が滲んでいる。ペンの筆圧、削除を意味する塗り潰し方、インクの伸び、原稿用紙のシミ、清書には載らない走り書きメモ。痕跡。
kindleにはコーヒーのシミは残らない by Hiroshi Ishii
↑↑↑shimisanpoが選ぶ名言です(笑)↑↑↑
是非に追加してもらいたいです(笑)
先生の講演は、本当にテンポが小刻みで回転が早く、ユーモアが散りばめられていて、同調してお互いに盛り上がるには相当なリテラシーもナレッジもエクスペリエンスも必要で、本当に刺激がありました。普段からこういう話をしていたいと願いました。
宇宙とは、己の振動を永遠にした者と遥か彼方の星が瞬きを詠む者のコミュニケーションである by shimisanpo
高度な受信者は同時に高度な発信者なのではないでしょうか。つまり周波数のチューニングがどこにあるのかということが本質なのかもしれません。もし良ければ、こちらの関連ブログもどうぞ。「インターステラー」に感化されて書いたものです。
原動力はビジョンなのだ
日本にはまだまだ浸透していないinteraction designの考え方。貴方はご存知でしょうか?
何を作るか。それは誰の為のものか。その人は誰なのか。さらに、その人はいつどこでどんな時にどのようにそれに触れるのか。
どんな最新技術を搭載することよりも、考えることがある。
すぐに売れて数字を稼げることを調査することよりも、考えることがある。
日本では、個人が突出して強いビジョンを持てるような教育をしていません。従ってもしも、大志を抱くなら日本国家が用意する教育システムではないところへ行った方が良いでしょう。かく言う私は、奇跡的に素晴らしい恩師達に恵まれ、完全にアウトロー化しております。あとは、強くなるだけですね(笑
ぶっちゃけ、先生のお話の内容は、十分に予習出来た訳です。とりわけ、あの場に行こうと事前に決めていた者であれば。twitterすらフォローもしていない人がほとんどでした(私も含め)。そんな近々のことも想定できない人々から面白い質問が出るはずはない。しかし、伝えたいことは200年先の未来を想像して「デザイン」しましょうということなのです。
道を拓き続けよ。 戦い続けよ異種格闘技。
とても重要なことは、石井三力(出杭力/道程力/造山力)にしても、石井三感(飢餓感/屈辱感/孤高感)にしても、この講義で教わったほとんどの言葉は、芭蕉力によって先生が自身の言葉として発せられたものである、ということです。
それを「あぁ、そういうことか」と腑に落とすなり、make senseするなりしたら、次はもう新しい自分の言葉を探し始めなければなりません。もし、真に理解したのなら。そして、自分の言葉で伝えるのです。
僕の前に道は無い。僕の後ろに道は出来る。 by 高村光太郎
私に足りないのは、切磋琢磨する仲間、ライバルだということを痛感しました。お互いのアイディアや成果物に対して「やられたぁ!悔しい!」と言い合う仲間。独りぼっち感を孤高感と勘違いしてはいけないのだと。独創と協創と競創をしなければならないのだと。
だがしかし、どうしたら仲間を作ることが出来るのでしょう。
とりあえず、noteのフォロワーが増えたらいいなぁ...
表現者は幸せであってはならない。幸せ者の表現はつまらない。
ある人は、そう言いました。
先生のターニングポイントもお母様の死にあったそうです。とても深い深い悲しみがあったことでしょう。しかし、母上は先生にアイディアのヒントを授けてくれました。そのアイディアを実行したら、リアクションがありました。そのリアクションは仮説を証明してくれました。そして先生は強くなりました。
お母様への愛と感謝を込めた作品を発表すると、偉大な方に評価を頂き認めてもらいました。
飢餓感を知っているか。不条理に屈したことはあるか。誰にも見向きもされない孤独を味わったことがあるか。
WOWOWの宮沢賢治を題材にしたドラマ、結構良かったのでオススメです。賢治は花巻の古着屋の嫡男で、生活には困らず教養もありました。が、その環境が故に彼のやりたい文学での自分の表現が満足に出来ません。一度上京しますが、燻ってしまい、病弱な最愛の妹の為にもということで地元に出戻りします。これは、賢治が創作する時に浮かべていたであろう、彼と妹、恋人や創作仲間と地域の子供達。愛する人々と過ごした彼の原風景の物語です。
彼の人生は、石井先生の教えがそのまま詰まっています。
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