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エッセイ

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日記のようなエッセイかもしれません。自由に書きます。
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エッセイ「国宝源氏物語絵巻と人間の生」

エッセイ「国宝源氏物語絵巻と人間の生」

 ゴールデンウィーク中、五島美術館「王朝文化への憧れ」にて、国宝源氏物語絵巻を観た。展示作品の最後が、展覧会の目玉である国宝 源氏物語絵巻(鈴虫、夕霧、御法)だった。金箔の施された豪華な詞書に続いて、絵が描かれていた。全体的に色が剥がれてなんとも淡い印象だった。引目鉤鼻やお顔の輪郭、お召し物のふくよかさなども、優しい線で描かれている。
 その絵の隣に復元されたものが展示されていたが、それは(当たり

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エッセイ「青春考」

エッセイ「青春考」

 青春というものは煙草の煙のようなもので、熱を持って現れ、蛍のように明滅したのち、灰白色や藤色の煙となって立ち昇る。刹那との別れを惜しむように、ゆっくり昇った煙の香りは人を選ぶ。その匂いは服や毛髪にこびりつき、当事者の未来になんらかの存在感を仄めかす。
 「生涯青春」というスローガンに立ち会った時、私はそのスローガンを掲げる人々の矛盾や葛藤に気づかされる。かく言う私もその人々うちの一人である。「生

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エッセイ「年度末」

エッセイ「年度末」

 今日は3月31日。

 2023年度が終わる。振り返ってみれば、不甲斐ないことばかりだった。昨年4月、学生時代から熟されていたはずの夢を呆気なく手放して、その脆弱な夢のなれの果てを見届けた。覚悟のできない自らに対する失望とやるせなさで、移住先の桜が嫌になるなほど眩しかった。家族や友人たち、受け入れ先の応援や支援を簡単に無碍に気がして、苦しかった。悲しそうな顔をさせたし、悲しそうな声も聞いた。それ

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エッセイ「春嵐」

エッセイ「春嵐」

◯春嵐や散らす花びら罪の数

 今宵の嵐、この世界で散った全ての花弁が、私の罪の数だと思おう。

 明日の昼頃には、嵐の名残が澄んだ風となって、私に世界中の花弁をもたらす。私は全ての花弁を一枚一枚拾い、ベッドを作ろうとするだろう。二度目の夢を見るための、まだしっとりしたベッドだ。

 私の夢は常に緊迫感があって、起きると大抵疲労している。

 今日二度寝して見た夢は時間にまつわるものだった。内容は

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エッセイ「光景」

エッセイ「光景」

 今日は仮病を使ってアルバイトを休み、ファミレスで読書に勤しんだ。読んだのは太宰治『走れメロス』(新潮文庫)に収録されている『東京八景』だ。
 私は太宰を読むとせいせいして心が軽くなる。「太宰は暗くて、呑み込まれてしまうからいけない」と昔母が言っていたのを思い出すが、それは私が太宰に触れるときの感覚とはほぼ対極のものであった。語れるほど作品を読み込んだわけではないのだが、彼の生まれ持った道化として

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エッセイ「西田幾多郎記念哲学館を訪れて」

エッセイ「西田幾多郎記念哲学館を訪れて」

西田幾多郎記念哲学館

「哲学は我々の自己矛盾の事実より始まるのである。哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない。」ーー西田幾多郎

「自己矛盾」と「悲哀」はキーワードだと思う。

この哲学館を再び訪れて、私は自らの「生」というものを強く自覚した。ここ数年、生きることに対して消極的になりがちだったが、いい加減そういう歪んだ考え方はやめたいと思った。障害のせいかもしれないが、

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入院の記憶(1)

入院の記憶(1)

 去年の秋の入院を色々思い出している。

 家族とろくな挨拶も交わせず、よくわからないまま鍵付き窓なし、監視カメラ付きの部屋に一週間隔離された。その部屋は病棟の隅にあって、トイレとベッドだけのまさしく独房だった。私はそれなりの罪を犯してしまったのだと、ひしひしと思い知らされた。

 寂しいその部屋でよく歌を歌った。入院の前々日に聴きに行ったモーツァルトのレクイエムや、ベートーヴェンの第九、カール・

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エッセイ「手紙」

エッセイ「手紙」

 今朝駅近の喫茶店で、友人のIさんに句読点のないお手紙を書いた。Iさんは中学からの友人である。出会った頃、彼女はよく陰口の叩かれる人だった。私はそれを見ておきながら何の反論もしなかったことを悔いて、彼女に懺悔の手紙を認めたことがある。大人になって私が酷い鬱状態に陥ったとき、彼女は私のその手紙を思い出して「あんなに心の綺麗な人が辛い人生のままなわけがない」と私を励ましてくれたのをよく覚えている。それ

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