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後輩が「小説家」になって思うこと

note界隈を眺めると、「本当は小説家になりたかった」「小説家を目指している」という人のなんと多いことだろうか。
簡単になれるものではないとみんなわかっている。
にも関わらず、こんなにもなりたいなりたいと声があがる。

どんな肩書を名乗っても構わない、相当自由な時代になったとはいえ、やはり人に対して職業として名乗るなら、書いた小説で少しでもお金をいただいている必要があるのだろう。


本筋から少し外れるけど、「 何か書いて投稿している人 」は、note界隈だと三つに分類できる。

前提として、当り前だけど誰もが何かを伝えるためにここで言葉を綴っている。
そして、これも当り前だろうけど、見てもらえないよりは見てもらえた方が断然良い。
だからみんな、あえてこんな公開の場で発信しているのだ。

何かで読んだ話 ──── もしかしたら、どなたかご自身のnoteに書かれていた話かもしれない。
SNSで誰かにいいね的な評価をもらうと、ちょっとしたドーパミンが出て一瞬の快感を味わうらしい。
そして、それはクセになる。
人によっては度が過ぎてしまい、このお手軽な快楽を頻繁に味わいたくて、投稿してから何度も何度もスマホで反応を確認してしまうことも。

さてさて、三つの分類に戻ると、

1 まったくの日常的な趣味や日記代わり

───── こういう方は、ありのままの実生活、あるいはそれに近いことを書いている。書くこと、つまり発信自体を楽しみ、逆に言えば発信しなくても特に困ることはないと思われる。


2 何らかの物書きになりたい、あるいは、なりたかった名残

───── 創作物を投稿したり、書くことに関する学びなどを書いている(例えばwebライターならそこに至るまでの学びやポートフォリオなど)。
「 書くことで稼ぎたい 」「 書くことそのものが好きだから 」「 自分は書くことしかできない 」勢。


3 目的があって発信している

───── マネタイズなり、世の中に伝えたいことだったり、本業がありそれにまつわることを副業的に書いていることも。
見てもらえないと困るので、数字は命に近い。



1と3は明確に区別できないことも。本業に関する話題を何となく日記のように投稿している人もいるだろうから。

わたしをどこに属するかとえいば、2になる。
書くのが好きだから書いている。
書くことで食べているわけでもないのに、何も書かなくなったらきっと他に何をしていいのかわからなくなる。

二年ほど前か、もう消してしまったアカウントでのこと。
書ける環境になくても書くことを絶対諦めたくない、という内容を投稿したら、「 そんなに悲壮感を持ってnoteで投稿するものなのか、自分は楽しいから適当に書いているだけだ 」と返されたことがある。
そういう彼女は、分類するなら1といった投稿が主たる方だった。



***



本題の、小説家になった後輩。
実は、本人は自ら小説家とは名乗ってはいない。
けれど、わたしから見れば、名乗っても充分構わないんじゃないの?という活躍をしている。


彼女の小説は、とある超メジャー出版社から本になって発売された。
事実なので宣伝してあげたいところだけど、紹介することでまわりめぐって彼女にこのアカウントが万が一バレると困るので、しない。ごめんよ。

本として発売されたその小説は、出版社とたぶんネットの投稿サイトが共同で企画した公募での作品。
多数の応募作から彼女のストーリーが選ばれた。
それが初めての本で、何冊も出しているわけじゃない。だから、本人としては「 これで食べているわけではない、小説家なんてまだまだ名乗れない 」と思っている。


彼女の主な活動場所は、小説家になりたい人がたくさんたくさん生息している小説投稿サイト。
見る限り、フォロワー数自体はトップクラス、ではなさそうだ。でも、熱心なファンや、お互いに作品を評価し合う仲間はいるらしい。
投稿サイトではそんな感じだとしても、公募では何度か入選したり時には何らかの賞をとっている。
そして、今回こうして立派に本になっているのだから、評価される物語を書いている小説家、と名乗っていいんじゃないかとわたしは思う。


彼女の本を、わたしも買ってみた。

書いた本人を昔から一応を知っているので、「 ああ、彼女でないと書けない世界だな 」というのが正直な感想だった。
知性と愛情溢れるご両親に育てられ、ご家族の関係で何度か外国暮らしをし、彼女も心から愛し尊敬し合う紳士的なご主人と幸せな家庭を築いている。
 この島国を超えた文化をよく知りつつ、愛情に包まれ、そして誰かへの愛を抱きながら生きている人だからこそ出てくる文字、表現、そして登場人物達のキャラクターなのだろうな、と。


彼女は、昔 ───── 約30年近く前からずっと小説を書いてきた。
ネットなんてものはない時代から、コピー本のようなものを自分で作っていた。さすがに、ネットが普及してからは主にウェブでの投稿らしいけど。
毎年の年賀状に物書きとしての近況、成果を記してくる。必ずといっていいほど「 今年も楽しんで書きたい 」という言葉も添えられている。

小説家になりたいなりたいと切望してきたような子ではない。
ならなくたって、楽しく生活するのにまったく困らない。
ただ、本当に小説を読むのも書くのも大好きで、どんな環境でもそれを続けて来れた人だ。
それが着実に実を結んでいる。
好きなことに真摯に取り組み、そして楽しみながら続けることを身をもって示してくれている。


わたし自身は、小説家になりたいと思ったことはなかった。
が、高校生の時に学校で実施された職業適性テストの結果は、「 小説家 」だった。
それを見た時、文字どおり目の前が真っ暗に感じて絶望した。

昭和、さらに平成の時代で小説家になるなんて、今以上に夢のまた夢物語だった。

別の機会に書こうと思っているけど、大学を出たら直ちに就職する必要があり、とてもじゃないけど小説家を目指すような環境で生きてはいなかった。

ただ、話を書くのは好きだった。
高校時代は、人には見せられない小説を毎日毎日妄想してはせっせと書いてた時期でもあった。

将来のことを考えるきっかけになるはずのテストにより、実際好きな事だし向いているけれど現実的にはなれないもの、として突きつけられた職業、それが「 小説家 」だったのだ。

逆にいえば、稼ぐためには、自分にむいていないことを生業なりわいにせざるをえないことも意味していた。


趣味と、現実的にお金を稼ぐものは、分けた方がいい。
そういう生き方があるのも事実で、非常に賛同できる。
ただ、お金を稼ぐ方もできる限り楽しめること、興味があることにするべきだ。
そうではなかったわたしは、地面のプレートがぶつかり押し合い、そして激しく跳ね返って地震が起こってしまうように、長年の仕事と暮らしは限界を超えてガラガラと崩れさり、仕事を辞めるに至ってしまった。


小説家になれないわたしが絶望していた平成の頃に出逢った彼女は、小説を書き続けて、令和の時代に小説家となった。
一方のわたしは、「 何かを書くのが好き 」止まり。
仕事で書き続けた文字はあるけど、誰かにとっては酷な現実をなぞらえるものばかり。誰のことも幸せにはできなかった。

しかも、実は圧倒的に読書量、つまりインプットが足りない。ボキャブラリーが貧弱で枯渇状態だ。


その彼女と競いたいとか追いつきたいという気持ちはまったくないけど、好きなものを続けるのはとても大事だと教わった。

だから、彼女の本を読んだ以降、わりとちゃんとnoteを書くようになった。
書ける時間がようやく少しずつ増えたというタイミングもあるし、比較的使いやすいツールで好きなことを続けられる場があるなら、そこで続けてみるのが今の自分ができる最善の策だから。

今は、小説家になりたいというより、とにかく色々なものを書いてみたい。

あとは、小説に限らず、色々な本を読まないと。
先日もつぶやいたけど、買ったまままだ読めていない本が、物理と電子をあわせて30冊近くある。

楽しみながら、読んで、書いて。
それが、これからの人生でやり続けていきたいこと。




寒いし、窓の外に見える空は鈍色の雨模様ですっきりしない。
けれど、これを書いたら少しは落ち着いた気がする。

わたしの場合、書くことでドーパミンが出ている違いない。
自分の安定と快楽のためにも、書き続けよう。







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