見出し画像

3−1 黒の奪者


『黒の奪者よ
 箱庭の空を擡ぐ死よ
 嘆き呻く青き奪者よ
 死が燃えて空が青に溶ける日に
 君の心は黒の臓を掻き毟る』

 

柿崎早苗は孤独に見えた。
柿崎早苗は畜生に見えた。
柿崎早苗は私を否定した。
だから愛おしいと思った。

 うら若い火夫のように瑞々しい身体、手弱女な仕草に薔薇の言葉、老いた鴉の様にまばたきをするこの女に、私は心を惹かれていた。近づく程に分かる、この女は何かに追い詰められている。柿崎早苗の堆積からは泡が煮立ち、その飛沫が私の心に僅かな潤いを齎す。この女は私に何かを齎してくれる存在だ、だから逃すべきじゃない。その雅溢れる心臓の形を解き明かしたい。泥的な心内の海に触れてみたい……まわりくどい言い方はやめよう、素直に言った方が明確だ。シンプルに、私はこう思った。柿崎早苗は、私にとって特別な存在なのかもしれない。


『黒の奪者よ
 創生の諸原理の応対者よ
 恥辱と廃残の死骸よ
 死せる事物に命名がくだる日に
 君は事物としての生を襲名する』


 個展『始まりに帰る終わりに告げる』という名の形骸。己が筆を進めるアートだけを認める糞みたいな批評家共が挙って押し寄せ、臭い口臭と美辞麗句を吐き出していく。箱には腐臭が満ちていく。形骸、又の名を監獄。自作の監獄、収容者自分、馬鹿みたいだ。
開催初日、閑散としたお昼時、一人の客が箱の中で煙草を加えた。館内は当然禁煙、作品にヤニがついたら?そんな些細な想像を巡らせる事も出来ない馬鹿は沢山いる、それは決まって男だ。私はこの極まり無い無作法を制する。すると男はこう言った。

「煙草は完全な愉楽の完全な典型である。オスカーワイルドは言いました」
「館内で喫煙はお控え下さい」
「勿論です。これは意地の悪いユーモアです」

 男は無感動に煙草を胸ポケットに仕舞い込んだ。非常に面倒臭そうな男だ、関わるべきじゃ無い。男は背を向けた私に関せず語り出した。

「完全とか究極という言葉に僕は妙に惹かれるんです。すみません、独り言です。レスポンスを求めてはいません。芸術ならどうでしょう。芸術に完全と言う言葉は不適切に思えます。不完全こそが芸術の芸術たり得る所以ですからね。あぁ、これは私見です、悪しからず。ところで……究極の芸術とはどんなものでしょう。それを解き明かせばノーベル賞ものの偉業になると思うんですが……黒瀬花春さん、あなたはどう思いますか?」

 朴訥な大根役者のような語り口に、私は苛立ちを感じていた。語るな、馬鹿が、芸術を。

「貴方が言葉で形容するのを諦めるもの、それが究極の芸術です」
「ならこの世に究極の芸術は存在しえない。ノーベル賞は諦めます。では、芸術の意義は何とお考えです?効能、と言い換えても構いません」
「何故私にその様な質問を?」
「答えずとも結構ですよ。こんな不躾な男に対応する義理は貴女にはありません」

 ある意味ではこの男に感心した。ここまで人を苛つかせる才能を持った男はそういない。

「カタルシスです。それが芸術の意義、効能です」
「成る程、勉強になります」
「貴方は何とお考えですか」
「似たようなものですよ。心に降り積もった堆積を払うもの、です。ピカソ曰くですが」

 男は一方的に箱を後にした。不愉快の堆積に一粒の疑問符を残して。『究極の芸術』妙な緊張感を孕むその言葉に、私は一晩首を傾げた。その答えは数日後、柿崎早苗が教えてくれた。『究極の芸術』とは私の血であることを。


『黒の奪者よ
 生理学に冒されし者よ
 事物脅迫者の冥府の臍よ
 脆弱な夜の横腹が裂ける日に
 君の陽は白けた月を洗い落とす』


 まるでコンタクトでも着けるように、左の人差し指と中指で左の瞼を押し広げ、右手の中指をゆっくりその眼球に押し当てる。その指先には私の赤が付着している。その赤は柿崎早苗の左目を覆い、目尻からほんの少しの涙を流させた。それが感慨の涙か、反射の涙か、私には分からない。

「痛い」

 柿崎早苗は呟いた。そして目尻から垂れた半透明な赤を拭い、そっと唇に運ぶ。口紅を馴染ませるように艶やかに口元を遊ばせ、ゴクリと喉を鳴らした。私は呆け眼でその光景を眺めていた。柿崎早苗は大きく胸を上下させ、柔らかな声色で言った。

「昔流行ったんですよね、子供の頃」
「何が?」
「同級生と互いの目を舐めあいっこするんです。何であんなのが流行ったのかなぁ」
「……目、洗ったら?」

 彼女はパチクリと微笑む。そして普段と変わらぬ整頓された口調で語り出した。

「個展、そろそろ開けないと。時間ですよ。お見せした批評は問題なければ午後には入稿します。よろしいですか?」
「ええ、大丈夫です」
「では、今日のところはこれで。出張明けにまた顔出しますね。個展の盛況、何よりです」
「ありがとう、柿崎早苗さん」

 そして彼女は歩み去った。私の胸を響かせたまま。気付けば流れ続けた赤は白のテーブルに真っ赤な溜まりを拵えていた。血の水面にも光の反射は起こるらしい。そこに映る女の顔は恍惚に笑っていた。


『よろしい、黒の奪者よ
 箱庭に一輪の死を活けよ』



次話


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?