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3−2 間違えた蛇


 薄墨の暮刻、雨空、バス亭で。

 私は自分の手を眺めていた。指先の皺を、骨張った関節を、刻まれた傷の数々を。寒々しい風を握ったり離したりしてる内に、掌の深い皺からじんわり汗が滲む。そのにおいを嗅いでみる。何も臭わない。湿った掌で首の後ろを撫でてみる。うなじの感触が気持ちいい。撫で音が雨音に溶けていく。アスファルトに嫌われた雨粒がレインブーツにまとわりついてくる。霞がかった灰色の空に不釣り合いな笑顔がひとつ。

 傘を差して、雨空に身を投げ出した。ステップを踏んでみる、両の手を広げてみる、雨粒を食べてみる、ガードレールを乗り越えてみる、雑草を蹴り上げてみる、蛇がいた。

 蛇。こんな寒い季節に、雨空の下で、じっと動かない蛇。眠りそびれた蛇、目覚めを間違えた蛇、どっちでもいい。蛇の血は赤い。私の血も赤い。でも私にはこの蛇には無い価値がある。動かぬ蛇を蹴り上げようとした瞬間、バスのクラクションが響いた。

 高揚に没頭していたらしい。丁寧に乗車口から顔を出し、馴染みの運転手が訝しげな目でこちらを見ている。皺だらけの間抜け面……私は両の手を見てみる。傘が無い。どこかのタイミングで落としたらしい。風に飛ばされたか、近くに見当たらない。私は雨ざらしのままバス亭に戻り鞄を手に帰りのバスに乗り込んだ。乗客は私以外に一人きり。扉が閉まり、緩やかに動き出す。適当に席し、ぐしょ濡れた髪の毛の感触を確かめていると、ただ一人の乗客がタオルを差し出してきた。懇切丁寧な優しさに私は素っ気なく答える。

「結構です、どうも」
「風邪は百病の長ですよ、黒瀬花春さん」

 そこにいたのは私と同様に雨水に濡れた、至極面倒な男だった。



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