愛の答えが知りたいとは思わない
「愛とは何か」よく聞くワードに今まで向き合えないでいた。何せ私はその「愛」という分野からは対局の場所にいて、憧れながら眺めるしかないと思ってきたから、そういう類の話題が上がってくると平常心を保ち穏やかな顔を作る事で精一杯だった。せめて周囲にバレないようにと必死だった。
人に愛情を感じたことがない私からすると、「ドキドキ」とか「守りたい・守られたい」「会いたい」「寂しい」という感覚を人に持つというのが嘘のように感じられる。本当にそんな感覚存在するの?と疑いたくてしょうがないけど、世間一般的に「幸せです私達オーラ」を振りまく人の話を聞くと、大概嘘ではなさそうだ。結婚して長いという大人の人達もなんだかんだ言っては結局幸せだというのだから。
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相手のことを思って眠れない夜が実在することや、デートのメイクや髪型の練習をするという話を聞くと驚く。私が眠れなくなる夜は、仕事で不安が残った日と野球観戦の前日は興奮して眠れないけど、私のこれとは違ったエモーショナルな夜を過ごす事を羨ましいと思ったのも事実。何度模倣してみようと試みても、3分後にはそのことすら忘れていたから笑える。
そんな中、私にも分かる愛があるとすれば「家族愛と自己愛」だ。私と両親との関係は良好だ。反抗期は一度もなく(嫌われたくなくて反抗できなかっただけ)、いつだって切なくなると頭に浮かぶのは決まって両親だ。でも深い話はしたことがない。何かを話して否定されてしまったらと考えたら、とてもじゃないけど生きられる自信がなくて、自分の意見を伝えることなんてどうでもよかった。そんな事は二の次で、ただ両親という存在が私から離れず近くにいてくれることが私からしたら大きな安心なのだ。側から見たら少し変わった親子かもしれないけれど、私は今の距離感が心地良い。何かを特別に言わなくても安心感があり続けるのきっと家族だからこそであり、この距離感は自立するのにはちょうどよかった。
自己愛に関しては強い方だし、自己肯定感も強い方だ。ただうまく出来なければ自分に対して怒ってしまうことに申し訳なさを感じることもあるくらい、割とルールで縛っている。そこに苦しむ日のことを考えたらもう少し外の世界にも目を向ける必要がありそうだ。自己愛は自分を大切に思うことであり、自分を傷つけてしまっては意味がないから。
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冒頭の「愛とは何か」の答えは存在するはずがない。答えのないものを追いかけることに意味があるのかも分からないけれど、考えることをやめてしまった時私たちの手には何もない。苦しみや悔しさ悲しさ、喜びに怒り。そういった感情が生まれるのは「考えているから」が基本のはずであり、考えて実行しての工程を繰り返すからこそ、その感情を手にし、そして淡々と1日を終わらせることなく彩を付け加え、記憶に残すことが出来ているのだ。何も感情が生まれない日々を過ごすなんて事はきっと不可能だろう。24時間が長く感じるだろうから。
愛を定義したところできっと、それをうまく信じられないのも本音。だから私は愛の答えを知りたいのではない。別に分からなくたっていいし、見つからなくてもいいから考えて感情を手にして、退屈な1日から逃れるために愛について考えている。
ちなみにこの写真は母親の趣味の刺繍。新たなことに次々挑戦していく母を尊敬していて、そして血を継いでいることを誇りに思う。
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