72候【花鳥風月】小暑の候 2023
白南風さそう風鈴音、草露あつめて文披
都会のまんなかにも夏の匂いが浸透して、海山恋しい季節にはいります。
空をおおおっていた雨雲はだんだんとまぶしく澄んだ青空にかわり、梅雨あけにふく南風は、葉すれの音や虫たちの羽音をお囃子に、いのちの音がつらなる壮大な地球交響曲をはこんできます。
どこからともなくきこえる風鈴の音は、こころを凛と澄ませる凉のしらべ。
凉しの情緒を思いだすと、目まえのせわしいコトモノから手をはなし、ふと我にかえるような明晰さをとりもどすことができます。
風鈴の音が「邪気祓いにつかわれてきた」という伝説やむかしがたりに、ためらうことなく合点がゆくのは、たんに涼やかな風情にみたされるから、という理由だけではなさそうです。
青銅の風鐸を日本にもちこんだ僧侶は、寺院の四隅や仏塔につるして厄除けにしたといいます。
風鐸の音がきこえるところに災いはおこらないとして、平安から鎌倉時代にかけて貴族屋敷でも軒先に風鐸をつるす習慣があったと伝えられています。
江戸時代にはガラス製の風鈴が登場しますが、もとは呪術的な意味をもつ神具や仏具のようなポジションにあったのではないかな、と。
風鈴や風鐸の内側につりさげられる部品を舌と呼ぶそうですが、息を吹くことで奏でる楽器は、舌のつかいかたで音の表現がおおきく変化するとききます。
風鈴や風鐸のカタチは、風元素界に生きる精妙な存在たちの息吹に呼応するようになっていて、異界のしらべ成分がぜいたくに配合された、魔法の楽器なのではないかと妄想しています。
一般的には舌の下には紐でくくられた短冊がぶらさがり、風をよく受けるようにしてあります。
風精霊たちの息吹(風)をうけて、リィンと舌を鳴らす風鈴は、いってみればおうちのなかにお招きした精霊たちのウィンドボイス。
のびやかな歌声もあれば、ハスキーにささやくような歌声もあり、光沢のあるベルベットボイスもいれば、シャウトまじりのダイナマイトボイスが炸裂する日もあります。
7月は文月といい、短冊にうたや文字をかいて書の上達をねがう月として、「文披月」から文月に変化したという説があります。
さまざまな歌声をうけとめる短冊に、まいとし「紋かるた」のなかからその年の気分に沿うものをえらんで、朝露あつめて墨などすって、ごあいさつを一筆したためるのも白南風吹く季節のたのしみです。
織目や模様、文字は線のくみあわせからできあがります。
1本の糸は布になり着物になり、1本の線は文字になり文章になる。
1本1本がつながり、くみあわされ、あつまって、縁の道具となってゆきます。
短冊にねがいごとをしたためる行事は、グレゴリオ暦の7月7日だとまだ梅雨があけていない地域もあり、星空を見上げるのも笹の葉サラサラするのも、ビミョ...にあっていないと感じています。
短冊や笹をつかって風元素界にわたりをつけるのは、処暑の候(2023年は8月23日から)あたりが上々なのかもしれません。
小暑の候、2023年は7月7日から。
ときの流れをとめる花
7月に入ると、蓮に睡蓮、ハイビスカス、朝顔、芙蓉に向日葵と、太陽の日差しがよくにあう、凛と光をうける花たちが開花します。
7月にひらく花たちは、その色あいや大きさカタチでヒトの視線をくぎづけにして、花をみつめるその刹那、時間をとめてしまうようなフシギな御業をもっていると感じています。
フシギな御業といってもじっさいは「泥より出でて泥に染まらず」という、植物たちが元来もっている本性に、思考停止するほど感動しているだけなのかもしれません。
目線をくぎづけにする花々から、小暑中候にえらばれたのは蓮の花。
食用になる地下茎の れんこん は、穴のむこうをのぞきみることができる、つまり先見の明(未来を視通す目)がある縁起もの野菜として、日本の食卓にはおなじみです。
蓮はインド原産の水生植物で、日本名の はす は花托が蜂の巣みたいにみえる「はちす」から「はす」に転訛したというのが通説です。
蓮の化石は北海道から九州まで、日本全域で発見されているので、古い時代に伝搬してから自生、あるいは栽培されてきたと考えられています。
日本の古い文献では「常陸国風土記(ひたちのくにふどき)713年」や、「延喜式(えんぎしき)927年」に記録がのこされています。
ちなみに蓮はハス科ハス属、睡蓮はスイレン科スイレン属、と分類されています。
アジア圏の宗教では、聖なる花、神の住まう国の花、神仙たちの台座として蓮華とよばれ、蓮も睡蓮も神聖さのシンボルとして重用されてきました。
蓮は花茎をのばして水面からはなれたところに開花し、葉も水からはなれており、水をはじくロータス効果(防水、撥水機能)ということばも生みだしました。
睡蓮は水面に浮くまるい葉っぱのほうで、花も水面ちかくに顔をだすという咲きかたです。
蓮と睡蓮がこんどうしやすいのは、蓮の英名 Lotus(ロータス)が、もともとエジプトに自生するヨザキスイレン、学名 Nymphaea lotus を指していたこともあります。
古代エジプト文明やマヤ文明では睡蓮が食器やアクセサリーなどのデザインにつかわれていたことが、たくさんの遺物からわかっています。
睡蓮についてはまた別の記事でまとめるとして、こんかいは蓮のものがたりにもどります。
聖と俗のレイヤー
開花してから1カ月以内に収穫した蓮の種子(緑の皮をむいた白い胚)は生食することができ、成熟するとともに茶色っぽくなってかたくなります。
蓮の実をつかったあんこやお菓子は、ジャワ島やバリ島、タイ国、台湾などの食品店でみかけることが多かったので、アジア圏ではポピュラーなのだと思います。
台湾ではふるい日本家屋をそのまま茶屋にした喫茶店(?)に入り、おすすめをくださいと伝えたら蓮のはなを浮かべた蓮茶がでてきました。
わたしたちのテーブルを担当してくれたのはアルバイトの学生さんで、蓮の実は薬用で連肉と呼ばれ、内臓のはたらきをととのえ、不眠にも効果があると教えてくれました。
蓮の葉茎は日本ではあまり一般的ではありませんがアジア圏では身近な葉野菜という感じがします。
蓮飯は蓮の実をいっしょに炊き込んだもの、もち米を蓮の葉に包んで蒸したもの、蓮の葉をこまかくきざんだ混ぜごはんなどがあります。
タイ国では蓮の葉に包まれた米と豆類のちまきを食べましたが、逆にれんこん料理は見かけることがすくなかったなぁ、と思いだしています。
文化や宗教観によって食文化はもちろん、象徴的植物の意味あいは変化するものですが、日本では蓮にまつわることばのニュアンスが2転3転して、聖から俗へと、レイヤーだらけになっている表現がいくつかあります。
代表的なのは「はすっぱ」。
むかし日本では年中行事でつかわれる季節もの(四季折々の必需品)をそろえて、縁日などで商売がおこなわれていたといいます。
商品を蓮や蕗の葉っぱにならべていたことから「蓮の葉商い(はすのはあきない)」と呼ばれていたそうです。
季節もののなかでも蓮の実や葉っぱは「とくに珍重されていた」という記述がいくつかの文献(ウィキでも)確認できますが、いつのころからか蓮の葉商いをするような、定住者ではない人々に対するほんのりとした侮蔑感がただよいはじめ、たまに里におりてくるような風来坊は信用できないという観念が、多数派の常識になっていったのではないかな、と。
さらに大阪の浮世草子・人形浄瑠璃作者だった井原西鶴(1642-1693年)原作の「好色一代女(1686年)」に、蓮葉女とよばれる上客接待女性(いまでいう枕営業的な職業)が登場します。
蓮の葉女(はすのはおんな)
蓮葉女(はすはめ)
蓮葉(はすば、はすわ)から
蓮っ葉女(はすっぱおんな)、蓮っ葉(はすっぱ)と表現されるようになり、現代ではすっかりディスりワードになりました。
ことばのつかわれかたが時とともに変化してきた「はす案件」に、「斜にかまえる」というのもあります。
もとは剣道で刀をまっすぐ相手にむけず、ななめにかまえる姿勢のことを表現しており、それは「しっかりと身構える」ことであり「あらたまった態度をとる」という意味だったそうです。
いまでは「正面から対処しない」「まともに対応しない」という意味でつかわれます。
複数レイヤーもちの「はす案件」、もうひとつは「一蓮托生」です。
現代風解釈ではものごとの善悪や結果のよしあしに関係なくさいごまで運命をともにする、というような意味あいになっており、わたしもそのニュアンスでよく使うことばのひとつです。
江戸時代の浄瑠璃など、とうじのエンタメ界が一蓮托生を「死なばもろとも」をテーマに恋バナ演目で多用したことから、地上生活の範疇でつかうワードになったようですが、ほんらいの「一蓮托生」は、死んだのちは極楽浄土にある、おなじ蓮の花のうえに生まれ変わって身を託すという思想から生まれた仏語だったそうです。
つまり蓮の花は肉体をこえた意識体(大いなる自我とかハイアーセルフとかいい方いろいろありますが)とのつながりを回復する、通路のような植物で、地上世界の人情ごとや色恋ごとにあてはめることばではなかったというわけです。
蜂の巣みたいな花托は、たましいのクラスター専用お座布団にもみえて、神仙界につうじる台座として、三界をいったりきたりできる魔法のエスカレーターなのでは、と妄想しています。
蓮華(蓮と睡蓮)はきよらかなる聖性の象徴として、古来インドでは地母神信仰と結びつき、インド神話や聖典のなかに特徴的シンボルとして登場します。
インド神話を世界に知らしめたヒンドゥー教の二大叙事詩「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」では、三神一体の最高神
・創造神ブラフマー
・維持神ヴィシュヌ
・破壊神シヴァ
を軸として、物語は進行します。
インド神話における宗教美術では、維持神ヴィシュヌのへそからのびる蓮の花から創造神ブラフマーが生まれるというものが遺されています。
ヴィシュヌ神と配偶者のラクシュミーの象徴花・蓮の花が意味するところは、創造の光をこの地上にもたらすための臍の緒みたいなものかな、と想像しています。
ヴィシュヌ神の妻で、最高位の女性(蓮女)の象徴でもあるラクシュミーは、乳海攪拌(にゅうかいかくはん・ヒンドゥー教の天地創造神話)の際に誕生した女神でヴィシュヌの化身に呼応するようにたくさんの姿や別名をもっています。
乳海攪拌で誕生したラクシュミー、その象徴花・蓮は、四大元素がどろどろにまざりあい、大地がしっかりと固定されていない世界で撥水効果を発揮して、液体に溶かされることなく足場を確保する、とくべつなシロモノなのではないかな、と妄想はつづきます。
過去から未来へと、一方通行な時間ルールにしばられない神々にとって、ひとつの御業は逆説もまた真なり。
液体に溶かされないということは、逆に液体に溶かしてしまう御業ももっているわけで、創造も破壊も自由自在です。
太陽は蟹座後半です
夏至の日から蟹座にはいった太陽は、その日を境に高度をさげ、だんだんと陽はみじかくなってゆきます。
それまで外にむかっていた興味・関心・好奇心が内面へとむけられ、仲間内、身内、自分自身の内側をみつめる心理傾向がつよまります。
蟹座のテーマにHOME、拠点、帰属意識があります。
それは現実的な「場」であり、こころの「軸」でもあり、顕在意識から無意識領域に安全な通路ができる、ということでもあるのかな、と思います。
アート、音楽、文章などつかったさまざまな療法が発達して、無意識領域への架橋を積極的におこなうことも一般的なワークになってきましたし、占星術やタロットカードなどにふれている時間は、期せずして無意識領域にトリップしてた、ということもめずらしくはありません。
無意識領域に棲む元型存在たちが仲間になれば、百人力のたのもしさ。
もう孤独を感じることも(ひまさえも)なくなるのでは、と感じています。
ただ無意識領域で冒険をはじめると、現実世界で対立、あるいは沈溺するものに優先的にかかわることが定石となっているようで、6人の元型存在、
・自我
・シャドウ
・アニマとアニムス
・太母と老賢者
たちは、さまざまな象徴をつかって関係性の濃淡を均一にするよう、けしかけてくるなぁ、と。
無意識領域にふみこんで、元型存在たちにかかわりはじめると、自分解釈で正義だ悪だ、聖だ俗だときめつけていたアレコレを、すりつぶしてごちゃまぜにして、あたらしいことわりの世界をいっしょにつくりあげるような、個人規模の乳海攪拌がおこると感じています。
中心軸をととのえて、フラッグサインをたなびかせ、純度のたかい同質化をはかるのは、清濁あわせて坩堝とかす、ヴィシュヌ神の御業にも似て、互いにつよく結合させるために、いちどすべてが溶解されます。
不老不死の霊薬「アムリタ」を生み出すために神とアスラが協力して大海をかき混ぜたインドの世界創造神話「乳海攪拌」は、蟹座成分による同質化作戦のひな型のようだと感じます。
2人だけの小さいサイズから、数百万人の集団組織まで、かき混ぜる範囲はさまざまと思いますが、対立しあうものが乱立し、混沌としている世界では、異質なものが不協和音を鳴りひびかせるばかりで、基盤が弱くしっかりとした全体性を築いていくことができない(から、同質化しよう)、という心理傾向は蟹座らしいスタンスです。
太陽が蟹座にある時期は、こころのそこから安心できる自分だけのスペース(巨大亀クールマみたいな)を確立することで、周囲とのちょうどよい距離間がみえてくると思います。
たゆまず、つっぱりすぎない縁の糸は、軸がはっきりしているほど調整もしやすいというものです。
線があつまり意味をなす、「織物」のところには「書」や「音」、「記号」をあてはめるのもありではないか、と思います。
蟹座成分はみずからが所属する集団をしめすマークや名前、旗印があることで、生きる意欲が満ちみちることもあるので、魂のおおもとに直結している(かのような)蓮のお座布団をみかけるたびに、なぜだかほぉっと安堵して、説明のつかない涙があふれてくることもあるかもしれません。
逆に蟹座成分と十分におりあいがついていないとか、べつの星座成分を育成中でいま同質化されるのはこまるというときは、蓮の花がおそろしかったりキモチ悪いと感じることもあるのかな、と思います。
こころのポジションが変わると聖にも悪魔にもみえる蓮の花は、乳海攪拌ばりの同質化魔法をつかえる蟹座成分に、やはり通じるところがあるなぁ、と。
インド神話は悪魔(アスラ)支配の宇宙から物語がはじまり、悪魔を理解してとりこもうとするヴィシュヌ神の逸話はとくに人気があります。
1000の名と数多の化身をもつヴィシュヌ神は、とんちのきいた問答や、美しい女性に変化して色仕掛けで不死の霊薬をうばうなど、最高神でありながら、清濁あわせワザがひかるトリックスターのようです。
最強の混沌文化をうみだした、インド神話公認ハーブのような蓮の、「泥より出でて泥に染まらず」の真意は、「世俗にまみれず」というよりも「清濁併せもつ」という表現のほうが、やはりしっくりきます。
無意識領域にふみこんでいくことは、まさに清濁のるつぼにダイブするような感じで、この世の常識や通念はまったくもって、なんの役にも立ちません。
あんなことこんなこと、無意識領域の冒険で(それは現実世界にも反映されるんですが)、るつぼをかきまぜていくうちに、聖と俗のレイヤーは、ハラハラめくれて全貌をあらわにし、自分がほんとうに還る場所をおしえてくれるのではないのかな、と。
一蓮托生の相手は、他者はもちろん、自分(顕在意識にある肉体や思考や感情)でさえなかったのかとようやく「分かった」とき、元型存在である太母と老賢者から「乳海攪拌」と「ロータス効果」魔法が皆伝されるのかもしれません。
☆☆☆
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