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#小説
【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_00序章
僕の、最初の記憶は、母の声から始まった。
「俊雄《としお》が男の子に生まれて、本当によかった。本当に……」
実感のこもった母の声は震えていた。赤ん坊の僕の顔をそっと撫でる手は冷たく、頬をなぞる長い指は僕の首あたりを移動し、踊るようになぞっている。
このまま指に力をこめれば、無力な赤ん坊はひとたまりもないだろう。
「…………」
母は青ざめた唇をうごめかせて、鼻をすすった。
憂いを帯
【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_幼少期_1
狆《ちん》という品種の犬を知っているかい?
体つきはポメラニアンにチワワを足して二で割ったような、小さな体に白くて長いふわふわの体毛を持って、顔はパグのような潰れた顔だけどチワワみたいなくりくりの目玉がかわいいんだ。
そして、僕の顔――【狆《ちん》くしゃ】の語源は、その狆がくしゃみをした時の顔が由来らしい。
つまり顔が潰れている上に、眼や鼻口などのパーツが中央に寄り集まっている配置で、
【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_幼少期_2
その頃の僕は大人の評価が中心だった。だから、同年代の子供たちが、僕をどう見ているのか考えていなかった。
幼稚園では、絵を描いている子の席にそっと机を寄せて、極力顔を見せないように一緒にお絵描きをして、おもちゃを振り回して泣き喚く、感情の制御が利かない子には極力近づかないようにしていた。
子供たちの間では、静かに、息を殺して、自分が空気そのものになろうとしたんだ。
だけど、その態度がい
【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_幼少期_3
「……うぐぅっ」
沈黙を先に破ったのは大川くんの方だった。手からモップが落ち、苦し気に体を「く」の字に曲げて地面に膝をつき、そのまま地面に反吐《へど》を吐いた。
「げええええええぇっ」
決壊した川のように勢いよく吐き出された吐しゃ物。吐き出された黄色い汁がびしゃびしゃ地面に跳ね返り、大川くんの丸い顔に降りかかる。
あまりのことに僕は固まった。
呆然としていると、大川くんの吐いた吐し
【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_幼少期_4
あれから様々な検査を受けて【問題なし】の結果をもらい、病院……というよりも、母から解放された。
しばらく幼稚園に行かなくていい。と、言われた僕は、母と二人っきりで家の中に閉じこもるような、息が詰まる生活になるかと想像していたのだが(父は大手不動産会社の役員で、家にいることが稀だ)……。
「俊雄。お母さん、がんばるからねっ! 良い子でお留守番していてね」
と、いやに張り切って、外によく出
【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_幼少期_5
なにも知らないことが、幸せだというのなら、あの時の僕は確かに幸せだった。
風呂に入り、背中を流し合い、父の手の平に絶対的な信頼と安心を感じていた時代。
シャンプーの香りに交じって、父の細い体から少し甘くて優しいミルクキャンディーのような匂いがした。
父が僕といることを喜んでいる。
人が強い感情を持つとき、様々な匂いが出ることを病院で知り、父との交流で今、確信を持った。
「お父さん」
「
【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_幼少期_6
幼い僕が母に連れてこられたのは、公民館だった。
一番大きな会議室の前で、僕は立ち止まり、母は眉を寄せて怪訝な表情を作る。
部屋に入る前から廊下に流れ出してくる、強烈な悪臭と、会議室にひしめくたくさんの人の気配に体が動かなくなった。
なに、このニオイ、くさい。
思わずスーツの袖口を鼻に当てようとすると、母の手ががつりと僕の手を掴んだ。
「だめよ。化粧が落ちちゃうわよ」
「うん」
【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_幼少期_7
「大川君のお父様とお母様も、こちらが望むことは、家業の大川運送を畳んで他県まで引っ越して頂くことです」
「そんなっ! うちはここらで一番歴史が古い…」
母の提案に、大川くんのお父さんは悲鳴を上げた。
「だってうちは、大切な一人息子を傷つけられたんですよ。あなた方の大切なものを取り上げなければ、釣り合いが取れないじゃないですか。それとも、離婚して息子さんを施設におくる方にしますか? 息子さんの
【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_幼少期_8
う”わんっ。と、大川くんの声が脳内に反響した。
えりちゃん、そーた、リョウ、なお。
僕が乱暴な子たちから、大人たちの煩わさから身を守るために、盾にして蔑《ないがし》ろにしてきた子供たち。
僕は自分だけが我慢をして傷ついているとばかり思っていた。
だけど、違っていた。大川くんに気付かされた。
点と点がつながった感覚が頭の中で弾けて、目の前の世界が変わる。
僕が見ようとして見ていなか
【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_幼少期_9
まるで巣穴から、わらわらと黒いアリが這い出すように、会議室に侵入する人の群れ。立錐《りっすい》の余地もないほどに、隙間なくぎっちりと埋め尽くすと、方々から様々な声が漏れた。
「お父さん、お母さん」
「どうしてここに」
「いや、嘘をついていたわけではなくて」
匂いが消える。おそらく、周囲の人々の頭の中が真っ白になったのだろう。
「じいちゃん、ばあちゃん」
「あぁ、直人。迎えに来たんだよ」
【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_閑話_01
1989年12月25日(月曜日)
気が進まないな。
岡道 栞奈《おかみち かんな》は、ため息を我慢して改札を出る。毎年恒例の12月25日《くりすます》ならば、気の合う友人たちとクリスマスパーティーをして、夜には家族とクリスマスケーキを食べて、思いっきりだらだら過ごしていたはずなのに。
ぐちぐちと脳内で愚痴をこぼして駅前の広場へ出ると、雪がうっすらと被っている山稜《さんりょう》が見えた
【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_11_現代編01
202×年6月 バンコク
「あぁ、ちくしょう。道路が冠水してやがる!」
「どうやら、本格的に雨季が始まってしまったみたいですね。日本に帰る予定は、思った以上に遅れるかも」
「ふざけてやがる。昨日まであんなに晴れてたじゃないか。なんだ、これは! 詐欺だ!」
甲高い男の声で僕は目を覚ました。全身が気怠く頭が鈍く痛み、ひどく喉が渇いている。
ここはどこだ? ホテルか?
観葉植物の苗が天井
【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_12_小学生編01
1990年3月24日(土曜日) 正友幼稚園 1階 講堂
幼稚園の卒園式は滞りなく終了した。
久保先生は顔に痛々しい包帯を巻き、僕以外の児童も顔や体に包帯がまかれている。中には腕や足が一本なくなっている子もいて、野戦病院さながらの重たい空気に耐えられず、保護者がすすり泣く場面もあった。
講堂の中を玲瓏なピアノの音が虚しく響き、何度も練習した歌が次第に小さくなっていく。
徐々に、徐々に、そ
【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_13_小学生編02
午前十時。時間が来たので、僕たちと両親は仏間に集合した。
仏間は三十六畳の広さで、高い天井にびっしりと様々な醜い顔の写真が飾られている。
目が一つしかない顔。アゴが月のように曲がっている顔。唇が花を広げたように八方にさけている顔。顔面そのものが融解しているように崩れている顔。鼻がない顔。頭蓋骨の一部が変形して、角のようにとび出している顔。皮膚が盛り上がって、鱗のように隆起している顔。一つ