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【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_13_小学生編02

 午前十時。時間が来たので、僕たちと両親は仏間に集合した。

 仏間は三十六畳の広さで、高い天井にびっしりと様々な醜い顔の写真が飾られている。

 目が一つしかない顔。アゴが月のように曲がっている顔。唇が花を広げたように八方にさけている顔。顔面そのものが融解しているように崩れている顔。鼻がない顔。頭蓋骨の一部が変形して、角のようにとび出している顔。皮膚が盛り上がって、鱗のように隆起している顔。一つの目に二つの瞳がはまっている顔。

……この写真は歴代杉藤家の当主の写真なのだ。と、父が説明してくれた。
 杉藤顔《すぎとうがお》の行きつく先であり、未来であると。

 僕の顔。
 狆《ちん》くしゃと評された――輪郭が丸くむくんで、アリの巣のようにぼつぼつとした毛穴が無数に広がり、肌色は腐ったミカンの色。
 団子鼻のベースで横に広がる鼻、左右の形の違う瞳。右は母から受け継いだぱっちりとした瞳。左の瞳は父から受け継いだチワワのようにぎょろりとして、瞳全体が充血して赤く血走っている。
 病気にかかったミミズそのもの唇。不自然に膨らんだ青紫の塊が蠢く光景は、グロテスクで見ている僕でさえ吐き気を覚える。
 
 並ぶ写真は恐ろしいながらも、醜さからくる不快感がない。
 その理由は簡単だ。だって、どう見ても人間に見えないからだ。
 醜い異形の面貌も、枠組みから外れてしまえば、それは別の生命体。美醜の判定を、自分と同じ人にあてはめようとするから、不快感と憎悪が炎のように燃えがある。

 そう、僕はまだ、中途半端に外見が人間なのだ。
 だから、この写真の中で一番醜く、一番見苦しい。
 見ているだけで、周囲に不快感を与えてしまう。

 幼い僕は父の言葉に、視界が歪むほどの眩暈を感じた。
 体が見えない糸で括りつけられて、強制的に夜のように暗い道を歩かされているようだった。

 僕は、いやだ。いやだけど。
 いやなら、どうすればいいの?

 父も僕も、いずれこの写真の中に加わり、本家の天井で訪れる人たちを、無言でじっと睨みつける――考えただけで気が滅入ってくる。

 仏間をぐるりと一周して、僕は化け物だらけの醜い顔を睨みかえす。大川くんは、思ったよりも反応が薄く、五代くんと園生くんは慣れた様子で仏間に入り神妙に正座した。

「ねぇ、こういうのってお坊さんが来ないの?」

 僕が父に訊くと、父の方は静かに首を横に振る。

「いいや、身内だけでうちは行うんだ。この仏壇にある骨壺を、うちのお墓に入れて、それでお別れだ」

 仏壇に飾られている写真は、二重瞼の可憐な少女が映っている。着ている服はセーラー服で、これが伯母の写真だというのなら、顔が崩れる以前の写真なのだろう。

「姉さん。せめて生きているうちに、俊雄をあわせてあげたかった」

 父は写真の後ろに置いてある、骨壺らしき白いビンを撫でた。そのビンは取っ手が白い翼をかたどっていて、その配置のせいで写真の少女から天使の羽根が生えているように見える。
 下手な人形よりも整った顔と、写真の笑顔からにじみ出る気品さは、圧倒的なカリスマ性――魂を揺さぶるほどの強い魅力があった。背中から羽根が生えてもおかしくない存在。

 杉藤 貴子は天使――と、父は無言で主張しているのだ。

「この人、誰?」
「あぁ、五代君は初めて見たんだね。貴子姉さんの昔の写真だよ」
「え、すごい、かわいい。キレイっ!」

 五代くんの問いかけに父が説明すると、五代くんは不可解気に眉を寄せて、園生くんは対照的に好意的な反応を返した。

「そうだろう。これが、本当の姉さんなんだ。ところで、緑君はどうしてこの屋敷に住んでいるのに、この写真を目にしなかったんだい?」

 父は自慢げに言いつつも、眼を不気味にぎょろつかせて園生くんを睨んできた。天使のように美しい自慢の姉の存在を、園生くんが知らないことが許せなかったのだろう。
 顔を赤くして、興奮のせいなのか父の鼻から鼻水が垂れた。
 口の端から泡を零し、眼を血走らせる姿は常軌を逸している。

「あ、あなた、落ち着いて」

 母は父を宥めるものの、どこか積極性に欠けている。彼女は知っているのだ。父の中にある「杉藤 貴子」の大きさを。淡い化粧に彩られた母の顔からは、虚ろな諦めの影が落ちていた。

「こ、子供は、この部屋に入っちゃだめって、いわれてました、から」

 途切れ途切れに弁明する園生くんは、目を逸らさず父に対して訴える。幼いながらも、彼は父に対して、下手な言い訳が通用しないとわかっているのだ。

「なるほど、なら仕方がない。確かに、この骨壺は特注なんだ。うっかり壊されたりしたら困る。子供だからという言い訳は、オレには通用しない」
「は、はい。そうですよね」

 必死に頷く園生くんから、悪臭が漂ってきた。ろくに手入れをしていないお風呂場に発生したカビ臭さだ。
 僕は園生くんを気の毒に思い、子供相手にムキにな父に情けない気持ちになった。

 息子を守り、見知らぬ女性を助けた父は、決してかっこいい存在ではないのだ。

 気分が悪くなって顔を背けていると、五代くんの視線にぶつかった。
 強い視線だった。彼は顔を歪めて、じっと父を睨みつけていた。
 桜の香りから一変して、彼の身体からなにかが燃えた匂いがした。

「なに?」
「なんでもない」

 五代くんの問いかけに、僕はなにげないふりをする。
 それがなんの匂いなのか、今はまだわからない。

 わかっているのは、五代くんが父に対して【とても怒っている】というだけだ。

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 杉藤家は容姿が醜い者が多く――杉藤顔《すぎとうがお》と言う特徴が、現れるのだという。
 僕のように最初から醜い上に、成長するごとに顔が変形してさらに醜くなる者もいれば、最初から普通の容姿で生涯を終える者もいる。
 父の容姿は目がチワワのように飛び出してブサイクな方だが、杉藤顔には該当しないらしい。

――そして、僕の伯母である杉藤 貴子は、可憐で整った容姿を持って生まれてきたのに、ある日を境に顔が崩れ始めて、杉藤顔になった。最終的に、どのような顔になったのか確かめる術はない。
 顔が崩れて以降の写真は父がすべて処分したからだ。
 父は自分の家からも、そして他人のアルバムからも徹底して、醜くなった伯母の写真を排除した。

 それはあとで知ったことだ。五代くんは、自分と伯母が映った写真すらも父に処分されたという。

 なぜそこまで?

 父は醜くなった伯母の記録を徹底的に排除して、現実に残すのは美しかったころの伯母の写真のみ。醜い頃を知る人たちは、己の記憶を縁《よすが》にするしか伯母の姿を偲ぶしかできない。

 大人になった僕の意識は、幼い五代くんを俯瞰的にながめて思う。
 この中で、本当に伯母の死に悲しんでいたのは、彼だけだったのだと。

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 杉藤家の霊園は、屋敷からさほど離れていない距離にあった。
 歩いてせいぜい十分ぐらいで、山道を抜けた先に開けた土地が広がり、続く道には赤いレンガが積みあがった高い壁がそびえている。
 僕は赤いレンガの、境目になっている筋を指で撫でて壁を仰いだ。壁のてっぺんには有刺鉄線が巻かれていて、なんだか刑務所のようだ。

「さぁ、着いたぞ。ここが杉藤家の霊園だ」

 僕が当惑する雰囲気を察して父が言った。父は、入り口らしき壁にはめ込まれた鉄の扉を、ポケットから鍵を取り出して開錠する。
 重たげな扉がわずかに開いた瞬間、柔らかな空気とともに、僕の鼻に多種多様の花の香りが広がった。
 頬に春の温度を感じ、流れる時間が穏やかに緩く変化していくようだった。

「すげぇ」

 大川くんが、シンプルな感想を漏らし、園生くんが得意げに鼻を鳴らす音を聞いた気がした。五代くんも初めて来たのだろう、体中から漂わせていた怒りの匂いが一気に緩む。

 扉を開けた先には、緑と花々が咲き誇る見事な庭園があった。

 霊園と聞いて、僕は墓場のような、殺風景でおどろしい光景を思い描いていたのにびっくりした。
 柔らかな緑の芝生が広がり、中心にそびえる円柱のモニュメントに向かって、幾何学模様のタイルを複雑に組み合わせた、踏むのをためらうほどの美しい道が伸びている。
 道の脇には水仙や咲き誇り、道を外れた場所には椿の茂みが、こぼれ落ちるほどの赤い花を芝生に落とし、モニュメントの近くには、枝垂れ桜が満開の白い花を咲かせていた。よくみると、絶妙な配置で様々な花が咲いている。

「ぼくが植えた、チューリップはあそこだよ」

 と、園生くんが指さした場所には、茶色い土が広がっていた。そして、むき出しの地面が目立たないように、パンジーやビオラと言った、背の低い花々が周囲に植えられている。

 こうやって、順番に花々を咲かせていくんだと、幼い僕は感心した。
 一年中途切れることなく、花を咲かせていく庭園に、絵本の世界に迷い込んだ気分になった。

「この霊園に咲く花が、供花がわりなんだ。杉藤はもとは修験者――自然に生まれ、自然に帰るんだ」

 うっとりと姉の骨壺を持って話す父は、霊園に中央にあるモニュメントに僕たちを誘導する。

「ここが、杉藤家の墓だ。世間一般の墓とは違うが、うちにはうちのルールがあることを承知して欲しい」

 モニュメントの周囲には、あずき色の大理石がサークル状に敷かれていた。僕たちは恐る恐る大理石の床を歩くと、きゅっと靴が音を立てた。あまり好きな音ではなく、僕たちが踏みしめることで、はからずとも耳障りな不協和音が一斉に響く。

 父は音を気にすることなく、モニュメントに近づいた。モニュメントの根本あたりが台形に盛り上がり、銀色のプレートが埋め込まれているのが見えた。

「あれ、なんて書いてあるの?」

 僕は父に訊いた。銀色のプレートには流麗な英文が刻まれていて、幼い僕には解読不能だった。

「Death cancels everything but truth《デス キャンセル エブリシング バット スルー》……【人間、一度しか死ぬことはできない。命は神さまからの借りものだ】という、シェイクスピアの名言だよ。これは、オレの父であり俊雄のおじいさんの趣味なんだ」

 なにかを思い出したように、父は遠くを見た。

「芳子さん、すこし頼む」
「はい」

 骨壺を母に渡した父は、プレートに手をかける。がちゃりと音をたてて、はずされたプレートからは、地下に続く階段と共に、肌をざわつかせる空気が僕の体を撫でた。
 なんだか、とても不潔でおぞましいものに、触れられたような気持ち悪さがあった。
 
「俊雄、こっちに来なさい。父のやることをよく見るように」
「は、はい」

 いやだ、近づきたくないと声には出さなかった。
 僕は父に近づいて、地下に続く階段を見る。階段の向こうには、広い空間が広がっているのが見えた。そして、その空間に数多《あまた》の骨壺が並べられていることも。

 父は母から骨壺を受けとって階段を下りた。
 置く場所はすでに決めていたのだろう、階段近くの開いているスペースに骨壺を置いた。
 取っ手が白い翼になっている骨壺は、並ぶ骨壺の中でひどく異彩を放って、父に対して無言の抗議を送っているように僕には見える。が、父は抗議に気付くことなく、蓋をするようにプレートをはめ込んだ。

「う、う、うわあああぁ……」

 突如、父が膝をがくんと折って、プレートに縋りつきながら泣き伏した。

 一区切りをつけて、緊張から解放されたのだろう。父は臆面もなくおいおい泣き出し、自分の中にある悲しみを追い出そうと、ぞうきんを絞るように苦し気に声を絞る。

「ああああああああ、おねえちゃん、おねえちゃあああああん」

 父の声が霊園に響いた。
 悲しみに満ちた声に、僕の心もぎゅっと締め付けられて、悲しい気持ちになる。なにも知らない伯母の死に対して、やるせない気持ちになり、水底に閉じ込められた気分になった。

 なのに、と、僕は違和感を覚える。父から香る塩辛い涙の匂いは、静かにぼんやりとして、まるで春の雨のようだった。

 わからない。こんなにも淡々《あわあわ》しい匂いなのに、周囲に振りまいている父の感情は、なんでこうも喉がつまるほど重苦しいのか。
 感情と行動のちぐはぐさが、あまりにもいびつに見えて、僕は父が壊れているんじゃないかと恐れた。

「さ、お父さんを一人にしてあげましょう。屋敷にいったん帰るわよ」

 母が僕たちを促し、優しく僕の手を引いた。今日の母は爪を短く切って、爪にマニキュアを塗っていなかった。食い込む爪のない彼女の手は、絹のようにとても優しくしっとりしている。
 幼い僕は気遣わし気に母を見た。淡い色の化粧の顔が固く、憂う瞳に複雑な色を浮かべる母は、父に問いかけるようなまなざしを向けた。
 
 しかし、父はなにも返せない。

 ただただ壊れたように泣き叫び、姉を求めて慟哭する。

 僕たちは霊園を後にした。

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 無言で僕たちは屋敷へ歩く。
 重たい空気と、解放された空気がせめぎ合うような、変な空気をひたすら無視して。少しでも耳をすませると、父の嗚咽が聞こえてきそうな気がして、妙な違和感と緊張感で喉がからからと乾いていく。

 風が吹く。鼻腔をくすぐる花の香りは、霊園からきているのだろうか。僕は霊園に咲いていた花を思い出す。
 椿に枝垂れ桜、ビオラにパンジー、名前の知らないパステルカラーの花々、咲いていたタンポポは植えたやつじゃなくて、鳥とかが運んできたヤツなのだろう。

 もし、知らない人間が霊園に入り込んだら、公園だと思いこみそうだ。
 あの円柱のモニュメントも、墓標だと言わなければ誰も気づかない。
 その下に大量の骨壺があることもわからない。

 なにも知らないと、世界はこんなにも美しく目に映るのだ。

 僕は必死に、自分の中に走る緊張を誤魔化そうとしていた。
 屋敷が見えるごとに、見えない何かが自分たちを取り込もうとしているような、そんな錯覚。
 不安な気持ちを少しでも和らげようと、呼吸を整えようと深呼吸をすると。

「――っ!」

 なに、この匂い。

 僕が感じていた、妙な空気感が実態を得た気がした。鼻の中に無遠慮に入り込む悪臭は、車の排気ガスに似ていて、屋敷が近づくごとに匂いの濃度が増している気がした。

 怒っている。

 ずっと感じていたのは、強い感情のうねりと苛立ちだと気づいて、僕は手を繋いでいる母を見て、そして後ろを歩いている三人に視線を向ける。

 そう、後ろに発生源がいた。

 五代くんから、垂れ流される悪臭は周囲を黒く染めるほど漏れ出ていて、彼はそれほどに怒っていた。

 どうして、君は、そんなに怒っているの?

 仏間のやりとりから、ずっと怒っている五代くん。
 五代くんの怒りは、ドス黒く鮮やかだった。緑の少ない、茶色がほぼすべての色彩が乏しい山道を、怒りで焼いて燃やして、世界を黒く焦がしていく。

 何度も後ろを振り返り、イライラした様子で僕たちについていく彼は、なにを感じて、なにを思って、こんなにも激しく怒りを秘められるんだろう。

「なに?」

 僕の視線に気づいた五代くんは、小さく、だけどはっきりとした響きで問いかける。
 お互いの視線が思わずぶつかって、オレンジの火花が散ったのが見えた。
 メガネの奥で静かに見据える細い瞳。目頭が少し丸く、目じりが上に吊り上がっている五代くんの目は、僕を通じて誰かを見ていた。

「うん、霊園になにか忘れ物したの? 何度も振り返っているけど」

 僕は瞬時に、それらしい言い訳をした。
 咄嗟のごまかしだった。
 園生くんと大川くんは、戸惑ったように、霊園に続く山道と五代くんと、視線を行ったり来たりしている。母さんは無言だった。子供の世界にどこまで介入して良いのか、判断できないようだった。どうやら、公民館での出来事が尾を引いているらしい。

「別に」

 ぶっきらぼうに答える五代くんは、視線を足元に向けた。見えない壁を僕との間に築いて、不機嫌に怒りの悪臭を垂れ流す。

「どうしてって、思っただけ」

 五代くんがそう言って黙り込むと、母が少し慌てて言う。

「ほら。そろそろお昼だし、お腹すいたでしょう? お屋敷に戻ってご飯にしましょう」

 そう言われると、お腹が空いたかもしれないと思ってしまう。空気を読んだのか、大川くんが「お腹ぺこぺこだー」と明るく言った。調子を合わせてくれる大川くんに対して、母は微妙な表情をうかべつつ唇に笑みを貼り付ける。
 まだ母が、大川家を追い込もうとしたことは記憶に新しい。断罪しようとした相手を、まさかの大川くんが空気を読んでくれたのだ。

 母が抱いた大川くんの感情は、感謝もあるけどなかなかに複雑だった。
 匂いも、花の香りと硫黄の香りが同時に放出されて、ぶつかりあうように匂いをまき散らしている。
 幼い僕は単純に、なぜ彼女は大川くんを許してくれないのか、それが不思議でしかたなかった。

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 屋敷に戻ると、客間のあるスペースに移動した。
 そこには、エプロンをかけた女性がいて、母と僕に対して、キレイな角度でお辞儀をする。

「お帰りなさいませ」
「母さん、ただいま」

 園生くんが無邪気に「ただいま」というと、女性か硬い表情で息子を咎める。まるで「ここはお前の家ではない」と言いたげに。

「緑、坊ちゃんの前ですよ」
「? なんで?」

 意味を解さない息子に、園生くんの母らしき女性はすまなそうに頭を下げる。浅黒い肌に堀の深い顔立ち、太い眉、園生くんと同じ黒目の潤んだ瞳には、長いまつ毛が茂っている。

……もしかして、園生くんのお母さんは外国人なのかな、と。テレビではあまり見たことが無い、金髪碧眼ではない外国人(?)に、僕は興味をひかれた。

「いいのよ、気にしないで。ここに住んでいるんだもの、咎めるつもりはないから」
「奥様の心遣いに感謝します。貴子さんが逝去した後も、この屋敷に住まわせていただいている御厚意に、いつか必ず報いますので」
「そんな畏まらなくていいわ。むしろ、住んでくれて感謝しているのよ」
「いいえ、いいえ。家だけではなく、緑を立派な学校に通わせてくれるのです。貰ってばかりで罰が当たります」

 深々と頭を下げて、礼を述べる言葉の響きからは、強い決意をゆるぎない意志があった。光輝くような気概が、園生くんの母から立ち上って、僕は少し彼女に見惚れた。
 どこまでも礼儀正しく、態度を崩さない彼女からは、日向に当たる畳の香りがする。園生くんの母は、彼女は、本当に僕の母に感謝しているのだ。

「あ、お坊ちゃんと、お坊ちゃんのお友達」

 僕の視線に気づいて、園生くんの母は静かな所作で前に出る。

「はじめまして。私の名前は、園生 イザベル。フィリピン人のハーフです」

 園生くんの母――イザベルさんは、誇らしげに胸を張り自己紹介をした。
 胸に手を当てて、にっこりと微笑む笑顔からは強い自身がみなぎっている。

「こんにちは、杉藤 俊雄です」
「こんにちは、大川直人です」

 さすがの大川くんも、猫を被って頭を下げた。
 そして。

「お前のかあちゃん、かっこいいな」
「えへへ」

 大川くんが、園生くんにこっそりと耳打ちすると、園生くんはまんざらでもなさそうに照れて笑うのだ。

「では。そろそろお昼の時間なので、昼食を用意しました。みなさま、どうかお召し上がりください。緑、お客様に粗相のないように」

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 食事を済ませると、僕は強引に提案した。

「父さんが戻るまで、探検の続きがしたい」

 五代くんの怒りを知るためには、大人の目が届かない場所にいることが重要だった。もちろん、話す場所は二階にある貴子さんの部屋だ。
 僕たち四人はソファーの前に集まって、僕たちにしか通用しない、子供同士の話し合いを始める。

「ねぇ。五代くんは、ずっと、怒っているよね。どうして、怒っているの?」

 下手な言い回しをせずに正直にたずねると、五代くんは虚を突かれた表情になった。

「どうして、わかったの?」
「匂いがしたから。ものすごく臭い匂いがした」
「あん? なんに話をしているんだ」

 そういえばと、僕は大川くんに自分の嗅覚――匂いで感情を読む能力のことを話していないことに気付いた。

「僕にはわかるんだ。匂いで、その人の感情が。感情の強さで、色がついていたり、景色が見えていたりするんだ」

 僕なりに分かりやすく説明すると、三人の顔に様々な表情が宿る。
 五代くんは納得がいった顔で、大川くんは単純に驚いて、園生くんは怯えた顔になった。

「なにびびってんだよ、ソノ。別に嘘つかなきゃいい話だろ」

 大川くんは、あからさまに怯えている園生くんに言うと、園生くんは「そ、そうだね。ごめんね、杉藤君」と謝った。

 というか、ソノって、園生くんのことか。
 当たり前のようにあだ名を受け入れている、園生くんがすごいのか、それとも大川くんのコミュニケーション能力が高いのか……多分、その両方なのだろう。

「貴子さん、嫌がっていたんだ。杉藤家の墓に入ること」

 意外にあっさりと、五代くんは話してくれた。

「え、そうなの。あんなにキレイな場所で、ずっと眠れるんだよ。逆にぼくが代わって欲しいよ」

 幼いからこそ、死ぬことを軽く考えている園生くんは気分を害したようだった。そういえば、花も植えていると言っていたし、彼の中では杉藤家の墓という意識が薄いのかもしれない。

「オレはイヤだな。オレが死んだら、海にどばーと骨をまいて欲しい」

 大川くんは両手を広げて自分の希望を述べると、五代くんは軽く頷いて目を少し上げる。

「うん、大川くんと同じこと言っていたんだ。だけど、君のお父さんが杉藤家の墓に入れた。……骨を拾っても来なかったくせに。貴子さんがずっとお願いしていたのに。死んだことを良いことに、お前の父親は貴子さんの願いを無視して、勝手にずっと傷ついて泣いている。本当にふざけている」

――どん!

 五代くんは悔しそうに、拳をソファーに叩きつけた。
 彼の身体から、燃えたガソリンの匂いが強くなる。
 そのせいだろうか、向日葵がプリントされたカーテンが、五代くんの強い怒気のせいで黄色い炎が燃え上がっているように見えた。

「ねぇ、今の私の匂いって、どんな匂い?」
「とても臭い、ガソリンの匂いがする」

 五代くんの答えに即答すると、五代くんは少し満足げに顔を緩ませた。
 当然だと言いたげだ。

「それで、君の父親の匂いは?」
「春の雨……かな、しとしとふってぼんやりと明るい感じの時の匂い」
「いや。わかんねぇし」
「けど、なんか素敵な香りだね」

 僕の言葉に大川くんは、眉根を寄せて頭をかき、大川くんの隣にいる園生くんはうっとりとした顔を作る。

「あぁ、そうだろうね。あの男は、そういう男だよ。口ではきれいごとばっか言ってるから、頭の中もそんなカンジなんだ。私の方が、ずっともっと貴子さんが死んだことを悲しんでいるのに、なに、一番傷ついているんだよ」

 怒りを吐き出す五代くんは、僕の醜い顔を凝視し、今にも泣きそうな顔になる。

「悔しいよ。ぼくは……私は、なにも出来なかった。貴子さんは自分が死ぬのを分かっていたのに、助けることが出来なかった」

 自分の一人称を言い直す五代くんに、僕は自分が死んだ時を想像する。いまいる友達の中で、こんなにも悲しんでくれる人はいるのだろうか。

 貴子さんが羨ましい。
……そして。

「ねぇ、貴子さんを助けに行こうか」

 僕の提案に、三人が驚いたように顔をあげた。
 幼い僕は想像した。自分が死んだ直後のことや、自分が死んだあとのことも。
 想像力が乏しいせいで、眠ったように死んでいる状況で、父の後を継いだ大人の僕が、大勢に見送られながら火葬される。
 骨はどれくらい残るのだろうか。僕の骨は、骨壺を霊園に埋葬されて、仏間に醜い顔の写真の列に加わるのだ。

 考えれば考えるほど息苦しくなった。写真が順番通りに飾られるとするのなら、可憐な少女の横に父の写真が、父の写真の横に僕の写真が飾られる。至極当然の流れで、僕の魂は土に埋もれていくように、杉藤の歴史に埋もれていくのだ。

 貴子さんが、嫌がるはずだ。

 拒否できるのなら、拒否したい。
 たくさんの杉藤家当主が踏み固めた道は、どうしようもない強制力をもって、僕にその道を歩ませようとしている。僕の意思に関係なく、周囲の意思に迎合して。一個人の意思なんて関係なく、拒否権なんて認められずに、定められた険しい道を歩ませようとしている。

……この顔がある限り。

 醜い顔の人間が一人で生きるには、この世界は厳しすぎる。
 それを幼い僕は知っている。

 だけど、貴子さんの場合は、顔が途中で崩れたからこそ耐えられなかった。せめて、最後には解放されたいと思ったのではないか。

 僕はそこまで考えてしまった。考えてしまったからこそ、なんとかしたいと思ってしまった。

「父に気付かれないように、貴子さんの骨壺を盗むんだ。どこに骨をまくのかは、盗んだ後に考えよう」

【つづく】

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