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【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_幼少期_7

「大川君のお父様とお母様も、こちらが望むことは、家業の大川運送を畳んで他県まで引っ越して頂くことです」
「そんなっ! うちはここらで一番歴史が古い…」

 母の提案に、大川くんのお父さんは悲鳴を上げた。

「だってうちは、大切な一人息子を傷つけられたんですよ。あなた方の大切なものを取り上げなければ、釣り合いが取れないじゃないですか。それとも、離婚して息子さんを施設におくる方にしますか? 息子さんのにとってもいいのかもしれませんね」

 ちらりと、母が向ける視線の先には、額から血を流して茫然と座っている大川くんがいる。
 母は優しく微笑した。
 長いまつ毛に縁どられた瞳に、氷のような冷たいく硬い意志を宿して。
 提示された二肢は、どちらも大川家に大ダメージを与えることが確定していた。
 僕はひゅっと喉が詰まる。
 なぜなら母が提示した選択肢は共通して、大川くんが遠くに行ってしまうことなのだから。
 会議室の空気が重く、寒く、青く凍てついていく。他の保護者も先生たちも、恐ろしいものを見るように母を見て、彼女はますます笑みを深くする。

「やめて、母さん。僕、そんなこと、望んでいない」

 僕が慌てて母の濃紺の袖を引くと、彼女は満面の笑顔を息子に向けて言った。たしなめるように、有無をいわせずに。

「俊雄は優しいわね。だけど、だめよ。これは、大川くんのためでもあるの。この場にいる皆さんも、この映像を見てくいただけますか?」

 呼びかける母は、壇上にある装置をいじりはじめた。
 室内が暗くなり、後ろのスクリーンに映像が映し出される。
 母は僕の手を引いて壇上からおりると、スクリーンの脇に立って、うっすら笑った。仄暗さを感じさせる嫌な微笑だった。
 僕はイヤな予感がした。母は徹底的に大川家を排除したいことを肌で感じたからだ。

 やがて白いスクリーンに、会議室よりも暗い空間が映し出される。
 棚にたくさんのケースと備品が詰まれ、掃除用具やカラーコーンが隅に置かれていた。どうやら倉庫、もしくは物置小屋の中なのだろう。

 まさか。

 全身からどっと汗が出る。
 やめて、と。叫び出したいのに喉がこわばって声が出せず、体も動かない。正常に動くのは毛穴から滝のように流れ出す汗だけだ。

 ガラガラガラ……。

 扉が開かれて、大川くんと僕が現れた。大川くんが乱暴に僕の背中を押して、倒れ込む映像に保護者の席から息をのむ音が聞こえてくる。

 僕は恥ずかしさで、この場で死にたくなった。母がこの映像を流し続けるのなら、倉庫の中で僕がごろごろと寝転んだ素の部分も映し出されるのだろう。それは、僕にとってたくさんの人間に自分の恥部をさらすことだ。
 見た人々は、僕に対してどんな感慨を抱くのか――考えたくない。
 母は大川くんだけではなく、息子まで公開処刑をしていることに気づかない。
 恥ずかしい。穴があったら入りたい。逃げ出したい。
 スクリーンに映し出された映像は、物置に仕掛けられていた防犯カメラの映像だった。
 まさか母が、防犯カメラのデータを手に入れているなんて思わなかった。

 映像の中では乱暴に突き飛ばされて、物置の中に倒れ込んだ僕が映る。映像の中の大川くんは、物置に収納されていたモップを掴み、倒れ込んだ僕の頭めがけてモップを振り下ろす場面で、暗闇から小さな悲鳴があがった。

 あれ?

 僕は妙な違和感のおぼえた。映像の中の僕は、すんでのところでモップをかわし、モップの毛が顔に直撃した場面で、安堵のため息がそこかしこから聞こえてくる。
 暗くなった部屋の中で、映像を見て声と息を漏らす人々。
 彼らの顔が見えないせいか、この場にいる人間がはたして人間なのか、僕は疑問を覚えた。
 気配を闇に溶かして映像に合わせて同調し、幾重もの音を立てている不気味な存在。体は別々なのに意識だけは一つだけの、残忍な本性を隠した歪《いびつ》な怪物。

『気持ち……んだよ。お……、な……だよぉっ』

 響き渡る大川くんの声。
 その声が、ぶつぶつと途切れている。

――そんな。

 僕は大川くんがなにを言ったのか知っている。
 防犯カメラの性能の問題なのか、薄暗い中でも映像がはっきり見えるけど、音声の方は正確に拾えていない。

『だ……、か、ら』

 え、これが僕の声?

 映像から流れる僕の声は、ぼそぼそと不明瞭で聞いているだけで怖気が立った。しかも、そのせいで大川くんよりもなにを言っているのか分からない。

『きも……ちか……るなっ』

 映像の中の大川くんが威嚇するように言った。

『……くる……くるなよぉ』

 映像の僕が近づくと、発狂したように滅茶苦茶にモップを振り回す姿に、僕は唖然とする。

 防犯カメラを通じて見た物置でのやりとりが、まったく別の光景に見えていた。音声が不明瞭で、自分たちがとった行動を切り抜くだけ――それだけなのに。

『…………っ』

 映像の大川くんが声を荒げている。
 けれども、どうして声を荒げているのかは、僕と大川くんしか分からない。
 彼の苛立ちも、戸惑いも、僕を嫌いだという意思も、映像からは伝わってくる気配がない。

 どうしよう。このままでは、大川くんは感情のままに喚き散らして、なんのためらいもなく人を傷つける危ない子供になってしまう。
 実際は僕を拒んで、彼は滅茶苦茶にモップを振り回した。
……それだけなのに。

「これはやりすぎよね」
「確実に頭を狙っていわ。しかもなんの躊躇いもなく」

 だが、防犯カメラの映像だけでは、モップの直撃をかわされたことで、癇癪を起して暴れまわっている、乱暴な子供にしか見えない。それだけしか、伝わらない。
 どうか。と、僕が大人たちに願っても、彼らの印象は覆ることはないのだろう。大川くんの感じた恐怖とか、僕の顔の醜さとか嫌悪とかを加味して、公正に物事を見て欲しいのに。

『…………』

 内心で焦る僕をよそに、ぶつぶつぼそぼそとした、ノイズのような声が流れる。
 たぶん僕の声――「友達になろう」と言っていた場面だ。
 体中が羞恥でカッとなるのを感じた。
 心臓がばくばくと音を立てて、呼吸がおかしくなりそうだった。
 僕の中では一世一代だった場面が、こんな風に大勢の人間の見世物になるなんて思わなかった。しかも、全員顔見知りだ。
 ざわつく周囲の言葉の一つ一つが、僕に直接突き刺さって、神経を逆撫でる。
 幼い僕が感じた形容しがたい苦い感情。大人の僕の言葉を借りるなら『汚されてしまった』記憶。
 なにも知らない人間が、泥だらけの靴で真っ白な床を、好き勝手に踏みにじっている光景が頭に浮かぶ。
 なんて地獄だ。大勢の人間によって、実際にあった出来事が汚染されて間違った形で広がっていくなんて。
 突然うずくまり、一気にゲロを吐き出す大川くんと、心配そうに近寄る僕。画面の大川くんは最後まで暴言を吐いて、モップを持ったまま扉をしめた。

『……』

 暗闇に取り残された僕は頼りげなく立っていて、力が抜けたように横たわる。
 微かに聞こえるかすれた声。内容は伝わらないが、状況から嗚咽を漏らしているのではとも受け止められる。
 床に体を横たえて、そのまま床に転がる光景は泣くのを耐えているような、そんな健気さが感じられた。……どうしてなんだ。実際はまったくの別なのに。

「大川くんはモップをつっかえ棒代わりにして、息子を出られないように閉じ込めました。それがどんなに悪質であり、この子の吐いた暴言が息子を傷つけたのか、この場にいる父兄や子供たちは想像してください」

 暗闇の中で母の声が木霊《こだま》する。

「やめて」

 想像なんてしなくていい。
 これ以上、汚さないで。
 そっとして。
 防犯カメラの映像は、物置小屋で起きた出来事を記録しているが、僕に言わせれば捏造も甚だしい。
 暗闇に閉じ込められて、解放された僕の素の部分が白日の下に晒されるかとも思ったが、現実はその逆を行ってしまった。

 映像が終わると同時に、会議室に明かりがつく。
 明かりが室内を満たすと同時に、流れる空気の質と匂いが変わった。周囲の人々の大川くんを見る目が冷たい。
 もやもやとした空気の流れが、一つの真っ赤なうねりになって悪臭をふりまいていた。目がくらむ刺激臭に涙と鼻水が出るがそれどころではない。
 大川くんに集まる視線、視線、視線……。
 無数の矢のように放たれる視線を受けて、大川くんは怯え、息を詰まらせ、隣にいる父と母に縋る目を向けるも、両親の瞳にあるのは諦めと失望だった。

 映像を見ただけなのに。それだけなのに。

 映像を見る前は、同情とためらいがそこかしこにあった。
 そこまでする必要があるのかと、無言で母に問いかけて、僕に対しては目を逸らす。

 知った、知らないだけで、それだけ変わる。


 あぁ、そうだ。僕も知っていた。暗闇の心地よさを知り、その暗闇を求めることで心が楽になったことを。
 父と共にあることで、分かち合える喜びがあることを。
 母に化粧を施されたことで、醜い自分が若干マシな存在になれることを。
 知ることで世界は変わる。優しく、時と場合によっては残酷に。

 同情心がすっかり失せて、額から血を流している子供を躊躇なく断罪しようと考えるほどに。

「これは、思った以上にひどいな」

 誰かが言った。

「もう、大川運送は畳んだ方がいいんじゃないか」
「あれは、父親の教育が悪い」
「いいや。子供を庇わない母親も悪い」
「大川のじいさんとばあさんも、この映像を見たら首を吊るな」
「子供に悪影響だ。さっさとあの子を転園させないと」
「なおとくん、こわい」

 小波《さざなみ》のように広がっていく、小さな言葉の波が次第に大きくなり、やがて罵倒にかわるのはあっという間で、大きな言葉と厳罰を求める意志が大川くんを押しつぶそうとしている。

 母の狙いを大人の僕は察した。
 彼女は選択肢を大川家に与えたが、最初から結末《ゴール》が決まっていたのだ。

 代々続いている大川運送を畳ませて、両親を離婚させて、大川くんを県外にある遠くの施設に置いやる。従業員は路頭に迷うかもしれないが、知ったことではない。すべて親の教育が悪いのだから。

 こんなのはやりすぎだ。だが、この時の母にとっては、息子と自分の平和の守るためのベストの選択だと信じていた。
 そして、大人になった僕もあの時のことを振り返って後悔している。
 大川くん――はじめてできた友達の、人生を大きく歪めてしまったことに。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「すぎとうくん、かわいそう」
「そうだね。暗い所に閉じ込められて、こわかっただろうに」

 また声が聞こえた。

「あぁ、本当に無事でよかった。本当に良かった」

 気の毒そうに僕を見る瞳。注がれる視線は、うっすらと涙を光らせて遠くを見つめている同情の視線だった。
 今まで向けられたことのない、しみいるような温かさを感じながら、どこか虚ろな心情のうねりに背筋がぞわりとする。

 母を見ると満足そうに僕に頷いて、化粧で彩られた顔をほころばせた。
 彼女の全身から発せられる甘い匂い――父に隠れてこっそり飲んでいる、さくらんぼうの香りがするブランデーの匂いがした。
 母がこの時、実際にブランデーを飲んでいたのか、それとも母の心情そのものなのかも、もう分からない。
 僕を捕らえて離さない、生臭くて甘い匂いが、また僕と繋がろうと肉の触手を伸ばそうとしている。

「いやだ」

 ちいさく、声に出す。
 じゃないと、僕が、この世界から消えてしまいそうで怖くなった。
 化粧が施されない母の瞳には、小奇麗に整えられた、同情されるために造られた僕の顔があったから。

「ちょっと待ってっ! 勝手に決めないで」

 僕はお腹から、大きな声を出して繋がることを拒む。
 母は驚いた顔で僕を見て、僕は大川くんの机に駆け出した。
 周囲がざわついて見守る中、大川くんの両親は戸惑いと媚びを売る笑顔を向けるも、僕は無視する。

「大川くん」

 机を挟んで向かい合う、僕と大川くん。大川くんは不機嫌そうに鼻を鳴らして、精一杯の虚勢をはっている。

「なんだよ」
「教えて、なんで、こんなことをしたの?」
「俊雄、なにをしているのよ。はなれなさいっ!」

 きんきんと母の声が耳に響いた。息子の突如の反逆に、信じられないものをみるように顔を強張らせる。付けまつ毛をヒマワリのように大きく広げて、目元の黒いアイライナーが汗で滲んでいた。
 ひびが入った分厚い美貌が、白く輝く照明の下で次第に色褪せていく。
 僕の不幸を栄養にして咲き誇っていた、赤くて大きな花が枯れていく。
 僕は顧みない。僕は一人で歩きたい。僕はちゃんと考えたい。
 ぼとぼとと、生々しい音を立てて肉の触手が落ちていく。
 壊れ始めた母の顔に、途切れた肉の触手に、心のどこかがどこかが喝采する。スカッとする――が、それどころではない。

「うるさいっ! 僕は知る権利がある。大川くん、なんで僕を教室から連れ出したの? 閉じ込めようとしたの? モップで殴ろうとしたの? なんでっ! なんでっ! なんでっ! なんでっ! なんでっ!」

――バン。

 僕は机を両手で叩いて、大川くんに真相をたずねた。
 久保先生は言っていた。大川くんが暴れるのには理由がある。今回の騒動にもちゃんとした理由があるはずのなのだ。

 机に垂らされた大川くんの血がぬるりと手につく。

 熱い……。

 指で感じた熱さよりも、僕の中で感じた大川くんの血の熱さ。まるで火がついたように全身が熱くなっていく。

 どっと、両目から涙があふれて止まらなくなった。
 とても熱くてしょっぱい真夏の海を思わせる涙だ。蛇口が壊れたように、次から次へ溢れてくる涙によって、僕の顔はみるみる無残な面相になる。

 緑、黄色、赤、ピンク、青、茶色、白……塗り重ねた色の分、様々な色がにじみ出て、顔の上で混ざり合い、むき出しになった、アリの巣のような毛穴を、まるで病斑のよう浮き上がらせた。
 整えた鼻筋は、涙から逃れた線と本来の鼻筋との陰影が混ざり合って、まるで二つに分裂したかのようであり、鼻水と涙で濡れた唇は、カラフルなミミズが蠢いている。
 涙の終点にあたるアゴには、涙と化粧が混ざり合って透明な雫の中に、様々な色の粉が渦巻いているのが見えた。……らしい。

 大川くんは唖然とした表情となり、物置小屋の時と同じように忌々しそうに顔を歪める。キッと周囲をみてチッと舌打ちすると、真っすぐに僕を見た。

――バンっ!

「おまえのせいで、みんな迷惑してんだよっ! おまえがよくいっしょに絵を描いているえりちゃんが、おまえが怖いって泣いているのを知っているか! 隣でよくねるそーたが、イヤがっているのをしっているかっ! お迎えのバスでいっしょになる、リョウやなおが、毎日おまえにきぃつかって病気になったの知っているかっ! おとなはみんな、おまえがストレスだからって言ってたぞ。弱いやつばかり狙いやがって、消えろ、消えろ、しんじまえーっ!」
「――っ!」

 大川くんの言葉に周囲が静まり返った。

【つづく】

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