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【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_幼少期_9

 まるで巣穴から、わらわらと黒いアリが這い出すように、会議室に侵入する人の群れ。立錐《りっすい》の余地もないほどに、隙間なくぎっちりと埋め尽くすと、方々から様々な声が漏れた。

「お父さん、お母さん」
「どうしてここに」
「いや、嘘をついていたわけではなくて」

 匂いが消える。おそらく、周囲の人々の頭の中が真っ白になったのだろう。

「じいちゃん、ばあちゃん」
「あぁ、直人。迎えに来たんだよ」
「かわいそうに、病院に行きましょうね」

 大川くんのところには、彼の祖父母らしき人物が孫の手を引いていた。

「坊ちゃん、ありがとうございます。うちの孫を気にかけてくださって」

 大川くんの祖母は、僕に対して手を合わせて拝むと、祖父も「ありがたい、ありがたい」と繰り返して拝みはじめた。

「あん、なに? なんなの?」

 あまりの展開についてこれず、大川くんが僕にきくが、僕もなにが起こっているのかわからない。というよりも、僕の方がききたいし知りたい。
 とりあえず首を横に振って言う。

「わかんない。だけど、病院、行った方が良いと思う」
「わかった」
「うん」
「おう、その」

 大川くんは何かを言おうとした。ぐちゃぐちゃとした感情が、丸い顔に浮かんでは消えて、やがて決心がついたように口を開く。

「なんか、わかんねぇけど。おまえ、バカだな」
「そうかな」
「やっぱバカだ。けど、悪かった。ごめん。まじ、ありがとう」

 これが、幼い大川くんにとっての精一杯だった。そして、僕は通じ合えたことに、とてもとても嬉しかったんだ。気持ちがぽかぽかして、頭の中でキレイな水色の青空が広がっていた。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 祖父母の手を引かれて、大川くんが舞台《会議室》から退場する。
 僕は父と母のいる壇上に向かうと、父は明るい表情で、対して母は少し苦い顔をして僕を迎える。
 気まずげに、息子と目を合わせようとしない彼女は、台風のニュースで見たリンゴの木に見えた。実が全部地面に落とされて、わびしく立っているだけの寂しい木だ。

「俊雄、仲直りできたみたいだな。よかったじゃないか、芳子?」
「えぇ。そうね。和樹《かずき》さん」

 和樹とは、僕の父の名前だ。

 父はチワワのような大きな瞳に息子を映して、ポケットからハンカチを取り出す。

「あぁ、せっかくの化粧が台無しになってしまったな。この階には給湯室があるから、顔を洗ってきなさい。ほら、ハンカチだ」
「あ、ありがとう。父さん」

 僕は父に礼を言うと、母は今にもその場を後にしたいのか、幼い息子の手を少し強く引いた。強く強く、赤いマニキュアを塗った爪が、柔らかな手のひらに鋭く食い込んで、とても痛い。

「行きましょう、俊雄。お父さんに、このまま任せましょう」

 どこか疲れたように呟く母は、先ほどまでの覇気がなく、崩れかけの美貌を曇らせる。

「ねぇ、父さん。この人たちは? ここのみんなはこれからどうするの?」

 僕の疑問に父は瞳をぱちぱちさせた。父の後から会議室に入ってきた人たちは、総じて父と同年代かそれ以上の年齢だった。しかも、出席している保護者たちとも面識があるようで、気まずそうに顔を俯かせている。

「うーん。ちょっとした勉強会かな」
「お勉強? それじゃあ、僕も顔を洗ったらここに戻った方がいい?」
「だめよ」

 僕の問いかけに母の声が飛んだ。紅を塗った乾いた唇を引き結んで、傷ついた顔で息子を見る瞳には「なんでわかってくれないの」という声が聞こえてきそうだった。

「そうだな、芳子と俊雄は帰った方がいい。この勉強会はね、外見だけで人を判断する愚かさと、醜いというだけで人を内心差別して、勝手に病気になる人間がどれだけ心が汚いか、わからせるための勉強会なんだ。どうやら、俊雄と同じクラスの子供たちは親の教育が行き届いていないらしい」

 と、父は、ため息まじりに苦い笑みを浮かべる。ぎょろりとした瞳は血走り、小柄な全身から僕が感情が高ぶった時と同じ、つんとした硫黄の臭いが漂いだしてきた。

「うちの息子が醜いから、我慢しつづけて病気になった? 気持ち悪いのを我慢して泣いた。……あぁ、なんて性根が汚い子供たちなんだ。先生方はこの山中崎市に住むものとして、杉藤顔がどのように尊いものか子供のたちに教育の義務があるというのに」
「はい、その通りです。杉藤様。最近の若い人たちは辛抱が足りないようで、なにかにつけてすぐ手を抜こうとするのです。お坊ちゃまに対する職員の配慮……いいえ、敬意のなさを、今日この目で確認して日頃の指導不足を痛感しました。ねぇ、久保先生」

 父の嘆きに、いち早く反応したのは、今まで先生たちの後ろに隠れていた幼稚園の園長先生だった。
 安堵の表情を滲ませて、ずっと孤軍奮闘した風を装う変わり身の早さに、僕は今日、一番驚いたのかもしれない。
 名指しされた久保先生は顔を赤くする。

「そんな、だってこんなこと許される筈がないじゃないですか。あまりにも前時代的な」

 前時代と言う単語に、園長先生の顔が苦笑する。眉をハの字のよせて、困ったものを見る、憐憫に満ちた視線を周囲に向ける。

「普段からこのような調子なのです。本当にそうなってしまったら、どうなるのか分かっているはずなのに、時代を言い訳にして責任逃れ……。杉藤様のお姉さまの時に、私の顔についた傷が今でも残っていたら、久保先生たちも保護者の皆さまも、この杉藤家への敬意と山中崎のルールが理解できたのでしょうに。残念です、本当に残念です。私は生きた見本にならなければいけなかった」

 シワだらけの頬を撫でる。労わるように撫でた頬の部分が、若干周囲の肌の色と違うのは気のせいだろうか。

「いいえ。園長先生、気になさらないでください。今回の事態で分かったことは、【顔の傷程度】だと教育の持続時間が薄いのが分かりました。私の姉さんは優しかったから、あの時は顔だけで済んだのに悲しいことです」

 父さんは自分の一人称を、オレから私に変えて園長先生に優しく語りかける。自分たちの本気を伝えるためなのか、顔も眼も嗤《わら》っている。

「やめて、うちの子は女の子なんですよ!」

 これから自分たちがどうなるのか、どんな目に遭うのか悟った保護者から悲痛な声があがるも、園長先生は悲しそうに首をふる。

「皆様が最初からお坊ちゃまと、奥様に対して誠実に対応していらっしゃれば終わった話なのです。ごめんなさいと、頭を下げるだけでも変わったでしょうに。前時代的ともうしましても、平安時代から続けてきた慣例が、たかだか二十年から三十年ぐらい間が空いた程度で消えてなくなるわけではありません。もう、諦めてください」

「……なにが起こるの?」

 僕は母に聞くと母は顔をこわばらせて黙り込み、父はひざを曲げ、息子に対して視線を合わせて言う。

「今度、幼稚園に来た時にわかるよ。さぁ、お母さんと一緒に、家《おうち》にお帰りなさい」
「……うん」

 会議室の扉が閉まる。入る時には特に感じなかった扉の厚さが、出る時には分厚く重く感じるのは気のせいだろうか。

「いいですか。人間は生まれてくる場所も親も選べません。五体満足……いいえ、人の形で生まれてくることすら奇跡なのです。だけど、君たちはその奇跡と幸運を当たり前だと勘違いして、うちの息子を醜いものだと差別した。これは傲慢に他なりません。私達がこれから行うのは、人として教育なのです。子供も大人も関係ありません」

 父の熱弁が廊下に響き、大勢の怯える気配が伝わってきた。
 こんなにも明瞭に声が響くのなら、僕たちのやり取りは全部父たちに筒抜けだったのかもしれない。だとするなら、父は大勢を引き連れて廊下にいつから待機していたのだろうか。

 もしかして、最初から廊下に待機していたのかな。

 僕は想像する。多くの人間が廊下でいきをひそめて、会議室のやりとりを傍聴している光景を。
 父はどんな気持ちで、どんな顔で、僕たちを見守っていたのだろう。

「俊雄、顔を洗いましょうね」
「うん」

 扉をずっと凝視している僕を母が促す。

 給湯室に入り、赤と青の蛇口をひねってぬるま湯を作る母。顔を洗うと、ぬるぬるとした油みたいなものが手にべっとりとついた。
 父にもらったハンカチで顔をごしごし拭くと、母が僕の腕をつかむ。

「俊雄、やりすぎると肌に良くないわ。家に帰ったら、クレンジングするわよ」
「ねぇ、母さん。化粧のやりかた、今度教えて」

 一回だけの記憶を頼りにするのは心もとない。何度も練習を重ねて、化粧の研究を続けた方が良い。化粧を通じて見つけた自分の可能性を、幼い僕は自分の手で伸ばしたかった。

「…………」
「母さん」
「……ごめん、ちょっと考えたいの」

 息子の手をひいて給湯室を出る母は、視線を彷徨わせて周囲の世界をぼんやり眺めている。
 このままだと倒れてしまうのではないか。
 母から零れる吐息は重く、もの悲しい。まとう紺のスーツを重たそうに体を引きずらせて、公民館の裏手にある駐車場に僕を誘導する。

 薄曇りで太陽の白い輪郭が見える空。冬の冷たい風が、給湯室で湿らせた顔を容赦なくひっぱたく。

「寒いね、母さん」
「……えぇ、そうね」

 母の魂がそこにあるのか少し不安になった僕は、なにげない言葉を投げる。応じる母は、必要最低限の言葉だけを残して、車のドアを開けて僕を助手席に座らせる。

 彼女の身体から、燻ぶるような焦げた匂いが漂ってきた。森の奥深くで静かに燃えて、だれにも気づかれずに火が消えていくような光景が脳裡によぎり、母はどうしてこんなにも一人なのだろうと……そんなことを考える。

「ねぇ、あの子と仲直りしたかったの?」

 僕たちを乗せて車が走る。休日なのに道は空いていて、滑るように滑らかな軌道で、道路の上をタイヤがまわる。

「あの子、って、大川くんのこと?」
「そうよ、他に誰がいるの。どうして、自分をイジメた子と仲良くなろうと思ったの。どうして、周りの子ともっと仲良くできなかったの。どうしてよ、どうしてっ!」

 ハンドルを握り正面を見据えたまま、彼女は声をヒステリックにとがらせる。

「どうしてよ、理解できなわ。これじゃあ、ここまでした私が、バカみたいじゃない」
「母さんは、バカじゃないよ」

 彼女はやりすぎた部分もあるけど、それは全部僕を思ってのことだってことはわかっている。
 だから――。

「いいえ。いつかは、あなたも私のことをバカにするわ。そして、こう思うのよ。どうして醜い顔に生まれることが確定しているのに、僕を生んだんだって、私のことを死ぬまで恨んで生まれてきたことを後悔しながら、ずっと生きていくんだわ。あぁ、そうよ。そうに決まっているっ!」

 勝手に僕の未来を語る母は、アクセルを思いっきり踏んで車のスピードをあげた。

「いっそ、死んじゃおうかしら。俊雄も、その方がいいかもしれないわね」

 死……。
 どろりと甘く、鉛のように重い言葉が唇から飛び出してくる。
 僕が赤ん坊の頃からため込んできた殺意と愛憎が、今回の一件で溢れ出したのだろう。
 夢から覚めた、どこかすっきりとした顔で、母は道が空いているのをいいことに、どんどん車のスピードをあげていく。

「ねぇ、母さん」

 なぜだろう。なんで、僕はずっと母のことを恐れていたのだろう。そして、殺されることを恐れていたのだろう。

 母の身体から流れる焦げた匂いは、灰色と白で構成された寂しい風景を想起させて、彼女はずっとこの景色に身を置いていたのかもしれない。
 父と結婚する前も、僕を産み育てた後も。

「僕ね、ずっと苦しかったんだ。みんなが僕に気を使っているのが分かっていたから、良い子にしていたんだ。だけど、大川くんは正直に僕にいろいろ酷いことを言ってくれた。それが現実なんだって、目を覚まさせてくれた。良く分からないのかもしれないけど、僕自身も分からないけど。大川くんと友達になりたいと思ったんだ」

 彼が僕に教えてくれたこと。
 閉じ込められて発見した安らかな暗闇。
 ぶつかって、感情を揺さぶられて様々なことを五歳の僕は知った。大人の僕に言わせれば、知りすぎた。
 だけど、知りすぎたことは無駄ではなかった。この先のことを考えれば、僕の土台が五歳で出来たことで、変動する環境に対応できたのだ。

「そう、それは良かったわね。あの子は今頃、額どころか顔中をズタズタに傷つけられているわ。いい気味よ。あの会議室であなたと私をバカにしたやつも、みんな今頃、顔を傷つけられているわ。一生顔に残るやつよ。あぁ、だけど、和樹さんの怒りを考えれば、体のどこかが欠損しているかもしれないわね。これで、一生、山中崎から出られないわ。あはははは……っ」

 泣いているように笑う母。
 化粧品を売る仕事をしていた母にとって、容姿に関して思い入れがあったのだろう。
 僕に施したように、訪れる客に魔法のような化粧を施して、真摯に誠実に、生きる勇気と希望をたくさん与えてきたのかもしれない。
 それゆえに、今回の事態をなんとか避けたかったんだ。顔に傷はおろか、一生残る傷を負わせる制裁なんて、母にとっては看過できない事態だ。

「母さん、母さんは死んじゃいたいの? だったら、僕、一緒に死んであげるよ」

 この時の幼い僕は妙に肝が据わっていた。大人の僕が失ってしまった純真さで母のことを考えて、死についての曖昧な概念を「解放」へと位置づけた。

「一緒に死のう」

 この先を進めば川がある。スピードを維持したまま突っ込めば、二人ともただでは済まない。

 だけど、母が死ぬことで、ようやく苦しみや悲しみから解放されるのだと思うと、不思議とお腹のあたりがぽかぽかした。

「お母さん、大好きだよ」

 もう、大人の僕には言えないセリフと勇敢さで、幼い僕は運命を母にゆだねた。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 車が走る。助手席に座っていた僕は、進行方向の先に背の低い柵があるのを見つけた。
 この先にある川は、主流の川からちょろりと外れた、紐みたいな細い川だ。灰色のコンクリートに挟まれて、夏になると強烈な生臭い匂いを立ち上らせる。

 僕は11月《ふゆ》であることにほっとした。夏だったら、飛び込んだ時に逃げ場のない異臭に吐き気を覚えて、気持ち悪いまま死んでいくことになった。

 やっぱり、寒いかな。

 車に乗り込む前に感じた寒さを思い出し、それだけが、川に飛び込むことへの懸念となった。この時期の朝は、道端に霜柱が立ち、息を白く曇らせて、洗濯物をパリパリに凍らせる。
 自分がぱりぱりに凍る光景を想像しながら、迫る柵を凝視した。
 スピードをこのまま維持すれば、柵を乗り越えて川を挟むコンクリートに車の鼻先が衝突し、そのままずるずると川に沈み込むのだろう。

 寒いのはちょっと嫌だなぁ。と、言葉に出さずにかわりに目をつぶる。

 世界が真っ暗になって、音しか存在しない世界。

 そろそろかな……。僕は聞こえてくるであろう、車が柵を乗り越える音とコンクリートに衝突する音に身構えた。

 その時だった。

――ぎ、ぎいいいいいいいっ。

 悲鳴のようなブレーキ音に、反射的に目が開く。がくんっとシートが激しく揺れて、シートベルトに小さな体が食み、一瞬息が出来なくなった。

――ぎぎ……。

 柵に触れるすれすれで車が止まる。シートの振動が収まって、車内全体が静かになる。圧迫から解放された体から、辛子をまるごと飲み込んだような不快感が全身に広がって、僕は涙を流しながら咳き込んだ。

「……カッ、ボオ、ゲ……ゲェ」
「別に、今、死ぬことはないわ。帰りましょう」

 母はそう言って、何事もなかったかのように車をバックさせて、進路を修正した。まるで、自分自身を軌道修正するかのように、小刻みに、理想的だと思われる角度で修正して、車を再び走らせる。

「俊雄、お母さんは、本当にあなたを愛しているのよ」
「うん、僕も大好きだよ」

 結局、母は二度も僕を殺せなかった。
 無理心中に失敗したことで、母の中でなにかしらの踏ん切りがついたのか、僕が七歳の時に弟の孝雄《たかお》、続けて九歳の時に妹の和子《かずこ》を産んだのだが、二人も結局僕が殺してしまった。

【つづく】

……妹の名前を秋子から和子に変えました。

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