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【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_幼少期_8

 う”わんっ。と、大川くんの声が脳内に反響した。

 えりちゃん、そーた、リョウ、なお。

 僕が乱暴な子たちから、大人たちの煩わさから身を守るために、盾にして蔑《ないがし》ろにしてきた子供たち。
 僕は自分だけが我慢をして傷ついているとばかり思っていた。
 だけど、違っていた。大川くんに気付かされた。
 点と点がつながった感覚が頭の中で弾けて、目の前の世界が変わる。
 僕が見ようとして見ていなかった、醜い僕に危害を加えることなく、じっとそばで我慢してきてくれた優しい子どもたち。
 大川くんが羅列した名前の園児たちが顔を上げる。大人たちは気まずい顔を作り、先生も母も思い思いの表情を作ろうとして失敗した。

「おまえ、ひきょうなんだよ! いるだけでキモイんだよ」

 そうだ。僕は卑怯者だ。無意識に自分よりも弱い相手に依存して、苦しめて、その結果、大川くんは僕を懲らしめようとしたんだ。
 みんなのために。

「キモイんだ」

 喚く大川くんに対して、僕の感情は妙な曲線を描いた。大川くんの暴挙は優しさから来ている。彼の血がとても熱いのも、触れるだけで高揚感をもたらすのも。
 そして、彼は知っている。父親から叩き込まれた、暴力がもたらす絶大な効果を。

「ねぇ、僕はひきょうなの?」
「ひきょうだろ! おまえがいつもそばにいるヤツは、よわくてなにもできないヤツラばかりじゃん!」

 大人たちが曖昧に誤魔化し、子供に負担を強いている事態を大川くんは打開しようとした。
 本来ならば、称賛されるべきことだ。惜しみない拍手と色とりどりの花束と、コーラとオレンジジュースを用意して、イチゴやバナナやキウイとかメロンとか、たくさんのフルーツが入ったケーキを大川くんにプレゼントすべきことなのだ。
 けれども、大川くんにむけられる視線は冷たくて、バラの茎のようにとげとげしい。まるで、迷惑だと言わんばかりの視線に僕は納得がいかなくなる。

「よわいやつを苦しめるのは、男のやるべきことじゃねぇ! しね! おまえがしねばぜんぶおわるんだ!」

 大川くんはずっとため込んできた感情を言葉にした。こうして、話してみると、大川くんの行動は乱暴だけど、頭は悪い方ではないことがわかった。さらに、まわりをよく見ていている事実に、なぜだか誇らしい気分になった。

 だけどね、大川くん。君の優しさは、通じないんだよ。
 
 と。大人の僕が、意地悪く、低くつぶやく。

 僕は本当に、自分も含めて誰も傷つけたくなかった。
 一番の脅威は大人だと思っていた。子供たちの間では、静かに、息を殺して、自分が空気そのものになろうとしたんだ。

「めいわくなの、僕?」

 幼稚園のみんなに、迷惑なんてかけたくなかった。

「めいわくに決まってんだろ。いっしょーくんな」
「えりちゃんも、そう思ってんの? いつも、お絵かきしていたのに」
「決まったんだろ」

 えりちゃんの席から、聞こえない悲鳴が聞こえた気がした。

「そーたくんも? いつもいっしょにお昼寝していたのに」
「めーわくだっ! めーわく」
「リョウ、なおも?」
「そうだ。ちーも、あくつも、うみちゃんも、たつきちも、みんなみんなっ!」

 バンッ! バンッ! バンッ!

 興奮した大川くんが机を何度も両手で叩いた。
 僕を糾弾することに夢中になって、大川くんは友達がどんな顔をしているのか気づかない。
 乱暴に机を叩くごとに、大きな音に反応して、うさぎのように身をすくませているえりちゃんにそーたくん。
 ちーも、あくつも、うみちゃんも、たつきちも、みんな大川くんに怯えている。
 大人たちの言葉と防犯カメラの映像で、大川くんが怖い存在だと刷り込まれた上に、乱暴に机を叩いて自分たちの名前を呼んでいるのだ。
 もはや、子どもたちの中では大川くんは友達ではない。
 防犯カメラの切り取られた映像を、身勝手に信じ込む親たちと同じように、自分たちの中で大川くんの姿を歪めて、自分たちを脅かす敵だと認知したのだ。
 周囲の変化に気づかない大川くんは、自分が垂らした血で、両手を赤黒く汚しながら必死で訴える。

 どんなに僕がみんなに迷惑をかけて、病気にして、苦しめてきたのかを。
 大川くんが、その子の名前を呼ぶごとに、その子は顔をそむけて、もの言いたげに顔を固める。もう、なにも言わないでくれと言いたげに。

「やめて、なおとくん。だいきらい」
「え?」

 ねぇ、信じられないよね。
 大川くんは、みんなのために、がんばったのに。

「だ、だれだよ。おれのこと、きらいって」

 席を立って、きょろきょろと会議室を見る大川くんは、自分の耳が拾った情報を否定しようとする。

「やめて、こわい」

 消え入りそうな小さい声がした。幼さからして、同じクラスの園児だろうけど、誰が誰なのかわからない。いや、わからないように、大川くんが顔を向けるタイミングでそっぽを向く。

「わかったから、やめてくれよ。なおとくん。もういいから」

 また小さな言葉が投げ込まれた。大川くんは声の方へと机の間をぬって探すも、声の主が誰だか見当たらない。
 森の中でふらふらゆらゆら頼りなく歩いて、魔女が住む家に誘導されていくかのように、大川くんの逃げ場が細く狭くなっていく。

「めーわく。なおとくんも、すぎとうくんもめーわく」
「…なん……で」

 大川くんは狼狽する。みんなのためにがんばったのに、返ってきたものは苦痛と否定。両手を赤い血で汚して、ボロボロな身体を一生懸命ひきずりながら、額の傷からも血をあふれさせて満身創痍だ。

 かわいそう、本当にかわいそう。

「な、なんだよ。みんな、ちーのママだって、りゅーちんのかーちゃんだって、アイツのこと、きたないキケイって、言っていたじゃん。わっちゃんのパパも死ねばいいのにって、先生たちだってキモチワルイ、いなくなればいいって、言っていたジャン!」

 大川くんは喉を震わせて自分の正当性を訴えた。
 悲鳴にも似た声だった。聴いているだけで大川くんの悔しさが胸の奥まで伝わり、悔しさで心がかき乱れそうになる。
 だけど、僕はこれから起こることの予想がついていた。

「やだわ。私はそんな汚い言葉を言っていなわよ。ねぇ」
「本当に。乱暴なうえに、人のせいにするなんて、それこそ卑怯じゃない?」

 名前を呼ばれた保護者の方は、あからさまだった。
 みんなのためを卑怯と変換して、自分たちに火の粉がかからないように、大川くんを斬り捨てる。

「聞き間違いじゃないかしら。いつも、ろくでもないことを考えているから、悪口を言っているって思い込むのよ」
「やっぱり育て方の問題だろうな。虐待って言うんだよ。すさんだ環境に身をおいているから、短絡的な行動に出るんだ」
「やっぱり施設に行った方がいいんじゃない」
「そうね。なにがきっかけになるか、分かったもんじゃないもの。うちの子がケガしたらと思うとぞっとする」
「ありがた迷惑をとおりこして、犯罪者予備軍じゃねか。将来、平気で人を殺すぜ、コイツ」
「ありえそう。だって普通に考えて、頭めがけてモップを振り下ろすなんて、怖くてできないわ」
「自分のやったことを謝りもせず、友達や親にまで巻き込むなんて、末恐ろしい子だ」

 ここぞとばかりの集中砲火だった。
 雨霰《あめあられ》と出てくる言葉の礫《つぶて》が、大川くんの真っすぐで優しい心を傷つけて、もう二度と、余計な言葉が出ないように叩きのめす。徹底的に心を折ろうとする。
 自分たちより弱い相手だからこそ、残酷に容赦なく言葉の暴力で蹂躙する。

「……え、なんでなんでなんでなんでなんでなんで」

 大川くんは両手を頭につっこんでかきむしった。その場で地団太を踏み、血の雫をあたりにパラパラと振りまく。
 僕は悲しくなった。大人はずるい。二枚舌を使って、そんなつもりじゃなかった、それがあなたのためだから、と、子供には太刀打ちできない理屈を振りかざす。水戸黄門の印籠よりも質が悪い。

「なんでだよ、なんでだよ、なんでだよ、なんでだよ、なんでだよ、なんでだよ」

 壊れたテープレコーダーのように、なんでをくりかえす大川くんは泣いていた。きーきー泣きわめき、頭をゆらし、机と机の間を徘徊する。
 火の粉をまき散らす火球のように、鮮烈な赤い残滓を残して走り回り、血の雫《火の粉》がかからないように、保護者達が子供を抱えて距離をあける。
 その行動が、さらに大川くんを傷つけるとは考えずに。

「大川くん」
「うるせー、うるせー、うるせー、うるせー、うるせー、うるせー」

 僕が声をかけると、大川くんが血走った目で僕を見た。

「おま、おまえ、おまえのせいで、おまえぇ、おまえええぇ」

 もう自分が何を言っているのか分からないのだろう。
 顔がすっかり血まみれになって、泣きわめきながら僕に向かって走り出そうとする。
 殴られる。そう思った。だけど、大川くんが僕を殴って気がすむのなら、それでもいいとおもった。

「俊雄、あぶない」

 母の悲鳴が聞こえたが気にならない。
 大川くんが握り拳《こぶし》を振り上げる。
 僕はそのまま動かない。じっと大川くんを見つめたまま、大川くんの拳が迫ってくるをのを見つめている。
 方々から悲鳴が上がった。机を立つ音、イスを蹴り上げる音、耳障りな音と、様々な匂いが立ち上る。

 阿鼻叫喚の会議室――なのに、不思議と大川くんと僕の間では静かな空間が広がっているようだった。
 鼻先まで拳が近づく。肉薄する。僕はなんとなく、自分の鼻がひしゃげて吹っ飛ぶシーンを思い描きながら、拳が自分の顔にめり込む瞬間を待っていた。

「…………っ!」

 しゅっと、マッチを擦るような音が聞こえた。迫る拳が鼻先からカーブして、鼻から頬にかけて月のような孤の軌道を描いた。

 大川くんのパンチは大きく空ぶった。本当はもう、僕に対して攻撃できるほどの体力なんて残っていなかったんだ。
 拳にある程度の力を込めていたんだろうけど、それがいけなかった。空ぶったことで、体のバランスが崩れて状態が前のめりに倒れ込んでいく。

「大川くん!」

 僕は駆け出して大川くんとの距離を詰め、そのまま倒れそうになる大川くんの身体を抱きとめる。

「と、とっ……」

 とはいえ、大川くんは僕よりも体が大きい。不格好なステップを踏みながら、大川くんを抱えて後ろに下がる。重みに耐えかねて、大川くんごと尻もちをつくのならまだいいけど、頭から倒れ込むのをなんとか阻止しないと。
 僕の身体に全身で伸し掛かる大きな体。抱きとめる背中にまわされた手から、大川くんの体温が伝わってくる。
 僕は大川くんがかわいそうで、彼の為になにかをしてあげたくて背中をぽんぽんと叩いた。

 びくりと大川くんは背中を震わせる。彼から漂ってくる匂いは、夏の日にベランダで食べたスイカの匂いだった。水っぽくて、甘くて、ちょっと塩辛い。
 その匂いを嗅ぐと、食べたスイカの味とともに、肌に浴びた日差しの熱さとセミの声が聞こえてくる。

 いつか、大川くんと一緒にスイカを食べたい。

 匂いを嗅ぎながら僕は、今にも倒れそうな大川くんの身体を必死に支えた。
 
 思ったより重い。

 今更だが、大川くんの身体は重い。多分、体が動かせない分、力が入らないせいで、さらに重みが増しているんだと思う。

「……っと、と」

 バランスを取りながら後退する。このまま、ゆっくりと大川くんの身体を床に寝かせていけばいいと考えて、机の間を慎重に後ろへ後ろへ歩いていく。

――がたん。

「あっ」

 後ろに引いた左足に、細長い棒があたる。たぶん机の脚の部分だ。
 そのまま机の端に僕の頭が当たり、不意の痛みで、大川くんの体を支える手がずるりと脱力する。

「!」

 いけない。

 がらりと机が僕と大川くんの体重に押されて、勢いよく前方に押し出される。床に一気に倒れ込もうとする二つの小さな体。
 足が宙に浮く。体の自由が利かず、大川くんの身体が重りになって、硬い床にそのまま叩きつけられようとしている。

 僕は自分の見通しの甘さを呪いつつも、自分が下敷きになれば大川くんは助かるかなと、そんなことを考えていた。

「直人!」

 え? と、意識が声の方にそれる。
 叩きつけられる衝撃が未だにおとずれず、右側の方から体が無理やり上に持ち上げられて、大きなものが滑り込むのを背中が感じた。
 一見するとすぐ折れそうな腕は、その見た目に反して、しなやかか筋肉と柔らかな肌、がっしりとした太い骨を持ち、僕と大川くんをしっかりと抱きとめている。

 一瞬、なにがおこったのか分からなかった。
 鼻に感じたのは雪解け水のような、埃と土が混ざった温かな匂いだ。

「あぁ、よかった。二人とも無事で」

 安堵を滲ませた声によって、僕たちが助けられたことを知った。
 すんでのところで、僕たちの下敷きになった救い主は――。

「かあちゃん」

 大川くんの母親だった。
 彼女はスライディングの要領で、横から僕の下に滑り込み、落ちた荷物を受け止めるように僕たちを助けたのだ。
 さすが、この辺りでは歴史が古い、大川運送と言ったところだろう。

 腕が離れると、大川くんがよろよろと立ち上がる。
 僕も立ち上がって、大川くんのお母さんを見ると、彼女はふぅっと息を吐いて、安心したように顔をほころばせていた。

「よかった」

 彼女は笑い、そしてまた、汚水を固めた氷の匂いを身に纏わせた。
 なにごともなかったかのように、すくっと立ち上がり、膝をぱっぱっと叩いて僕に向かって頭を下げる。

「うちのバカを助けてくれてありがとう、迷惑をかけてごめんね。俊雄君」
「あ、うん。はい」

 へらへら笑って、臭い匂いを振りまいているのに、大川くんのお母さんの声には、様々な柔らかなものが詰まっている感じがした。クッキーがいっぱい入った袋のようだ。

 醜い素顔になった僕の顔を真っすぐに見る瞳。その真っすぐさは、物置小屋で大川くんが僕に向けた眼差しによく似ていた。親なんだから当然なんだろうけど。

 軽薄そうにへらへらと笑う母親の横で、大川くんのお父さんも頭をかきながら頭を下げる。

「その、どうもご迷惑をおかけしました。こういう時、親がしっかりしなければいけないのに、坊ちゃんの手を煩わせてしまって。まったく、このバカが。ほれ、礼を言え」

 と、大川くんの頭をがしっと掴む。

「や、やめて。救急車を呼んであげて」
 
 慌てる僕に、別の席から声が上がる。

「そうね、早く手当てをしてあげないと」
「結構、派手に血が飛んでいたものね」
「額がぱっくり割れていたけど、傷が残りそうね」

 なに、こいつら。
 自分たちが大川くんになにをしたのか、すっかり忘れて心配そうな声と顔を作り上げていく。
 会議室の匂いが一層きつくなるのを感じた。大川くんの両親もだ。
 この場にいる誰もが、自分たちは悪くない善良な人間と思い込んでいるのだろうか。

「あぁ、そうだな。早く救急車を呼ばないと」
「これ以上は時間の無駄だな」

 その声が合図だったかのように、次々と大人たちが席をたつ。
 空気が緩み、解散しようとする気配がそこかしこに鎌首をもちあげた。

「ちょ、ちょっと待ってください。まだ大川さんに、返事をもらっていません。皆さんも勝手に帰らないで」

 母が慌てて呼び止めようとするも、彼らの中では決着がつけられたのも同然だった。

「なに言ってる? 大川さん、あやまったじゃないか。これ以上、なにをのぞむって言うんだ」
「子供同士のけんかを大げさに騒ぎ立てて、恥ずかしくないの? それに、結局悪いのはそちらじゃない」
「先生たちも大変だね。寄付を打ち切るのって強迫じゃないの。警察にいっちゃおうかしら」
「そうそう、付き合ってあげただけでも感謝して欲しいんだけど」

 多くの視線が僕に突き刺さる。
 まるで汚物を見るような眼で、忌まわしいものを見る顔で、吐き気を堪える仕草で――保護者達は無言で、見えない攻撃を僕にしかけてくる。
 化粧が落ちて醜い顔を持つ僕なんて、付き合う価値はないと言いたげに。
 母が整えた僕の虚像がない今、彼らは目前の醜いものなんて容認しない。
 子供たちの為に親の仮面を被ったまま、大川くんのことや、自分たちが行ってきたことをなかったことにする。
 軽やかに日常へ帰ろうとする大人たちは、自分たちが踏みにじったものに見向きもしない。

 僕はいまさら傷つかないが、母は絶望した表情で顔を青黒い化粧で彩っている。僕はそれだけが気の毒に思う。

 弛緩して緩み切った空気が、多くの人々の背中を押していた。
 我先にと会議室の扉へ向かい、手を伸ばそうとした時だった。

「えぇ、その前に、少しよろしいでしょうか」

 壇上近くにある扉がガラリと音を立てて開き、そこから、一人の男性が姿をあらわす。
 会議室に出ようとした大人たちが、ぎょっとした表情になり足を止める。

「芳子、だいぶてこずっているようだな」
「あなた」

 母は絶句する。僕もびっくりして言葉を呑み込んだ。
 だって、いつも忙しいから、てっきり来ないと思っていたのに。

「父さん」
「俊雄、おまえの声は廊下まで聞こえていたぞ」

 父さんはそう言って会議室に入ると、父の背後からぞろぞろと大勢な人間が現れて、会議室をいっぱいにした。

【つづく】

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