見出し画像

【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_幼少期_2

 その頃の僕は大人の評価が中心だった。だから、同年代の子供たちが、僕をどう見ているのか考えていなかった。

 幼稚園では、絵を描いている子の席にそっと机を寄せて、極力顔を見せないように一緒にお絵描きをして、おもちゃを振り回して泣き喚く、感情の制御が利かない子には極力近づかないようにしていた。

 子供たちの間では、静かに、息を殺して、自分が空気そのものになろうとしたんだ。

 だけど、その態度がいけなかったんだろう。

「もう、5時だよ。おうちかえろ」
「……」

 大人を困らせてはいけない。保護者や先生に媚びを売る僕を、じっと見つめている存在を無視し、その結果、物置小屋に閉じ込められる事件に発展した。

 大川 直人《おおかわ なおと》くん――閉じ込め事件の首謀者だ。

 彼には感謝してもしたりない、大川くんのおかげで僕は自分を取り巻く息苦しさから逃れる術を覚えたんだから。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「おい、ぐちゃぐちゃ。起きろ」

 月日が流れて5歳になり、あの日、僕は昼寝から起こされた。
 季節は9月の25日。夏の暑さが和らいで、秋の爽やかな風が木々を揺らす心地の良い日だった。

 幼い僕は上体を起こす。正友《せいゆう》幼稚園の三階に位置する、チューリップ組の教室には布団が引き詰められて、僕と同じチューリップ組の園児たちと先生たちが健やかな寝息を立てていた。
 午後のお昼寝の時間だった。ピンクの花がプリントされた白地のカーテンが、窓の隙間から吹き込む風に泳ぐようにそよいで、差し込む光が淡く少し埃っぽい。

 目をこすりながら僕は、僕を起こした相手を見る。

「おおかわ なおと、くん?」

 幼稚園の水色の服に、でかでかと咲いているチューリップの名札を読み上げると、大川くんはいやそうな顔で僕を見た。

「なれなれしく、よぶんじゃねえぇっ」

 みんなが起きないように、小さく、低い声ですごむ大川くんは僕を無理やり立たせて手を引いた。
 まるで、握りつぶすように強く手を握られて、反射的に手を引っ込めようとすると、次は思いっきり足を踏まれる。
 大川くんは上書きを履いている上に、今まで昼寝をしていた僕の足は水玉の靴下だ。

「――っ!」

 無防備の足を遠慮なく踏みつけられて、僕は声のない悲鳴を上げた。
 隣で寝ている子を起こさないように、痛みで飛び上がりそうになるのを必死でこらえて、唇をつよく引き結ぶ。

 あ、この子は。

 痛みで意識が覚醒して、僕を踏んだ大川くんがどんな子だったのかを思い出した。

 体が一回り大きくて、ぼさぼさの短い髪と丸い顔。いつも大きな声で叫んだりわめいたりして、おもちゃの積み木を握りしめて振り回して、相手をよくケガさせたり、先生を困らせたり――子分を何人も引き連れている、いかにもガキ大将な子供だ。

 そう、僕がなるべく関わらないように距離をとっていた相手。感情的で何をするか分からない子供だ。

 その大川くんが痛みに耐えている僕をじっとみつめている。真っ黒な瞳に、火のような熱くて強い憎悪の意志が蛇のようにとぐろを巻いているのが分かった。

「……」

 大川くんは無言で僕の手を引いて、足を引きずる僕を無理やり教室から連れ出した。踏まれた足の部分が、歩くたびにじくじく音を立てて痛みを発して、少し歩きづらかった。

 お昼寝の時間のせいなのか、幼稚園の廊下はひどく静まり返って、いつもよりも広く大きく感じた。窓から差し込む初秋の陽が、床にくっきりと四角の光を放射して、光の中でほこりがキラキラまっている。

 そのキラキラしているほこりの中を、大川くんに引っ張られて僕は廊下を歩いていた。

 踏まれた右足は痛いものの、不思議と大川くんや大川くんがこれからしようとすることについての恐怖は感じなかった。

 どちらかというと、解放感の方が強かったし、大川くんが乱暴に僕の手を引っ張ってくれることで、僕は彼が気を使わなくていい相手だと認識できた。

 この時の、僕のぐちゃぐちゃな顔は、どんな表情だったのだろう。廊下に鏡があったら確認できたのに、少し残念だ。

 大人たちの手によって、薄い皮膜に覆われて、ぼんやりと曖昧にぼかされた悪意が見えない世界。

 僕の守る意思が強いのだとしても、息苦しくてとても辛かった。
 大川くんが連れ出してくれた所は、ある意味本当の世界。

 被膜がやぶれて、どろりと黒い液体が流れだし、僕を取り巻く世界が変わっていく。

 あぁ、最初からわかっていたさ。僕の住んでいる世界は、サイケデリックな極彩色の悪意と善意がひしめき合っている、混沌の世界なんだから。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 大川くんはむすっと黙ったまま、僕の手を引いて廊下を歩く。僕は引きずられながら階段を下りて、下駄箱を通過する途中でおいてある来客用スリッパを履いて、幼稚園の中庭からまわりこんで園舎《えんしゃ》の裏側にまわる。

 子供たちが侵入しないように、設置されていた柵の扉は大川くんが乱暴に揺さぶると簡単に開いた。

 あっさりと幼稚園の裏側に侵入を果たした僕たち。今まで踏み込んでこなかった未知のエリアに、僕は恐怖よりも興味と興奮が上回った。

 どうなるのか分からないのに、胸が高鳴って、顔が熱くなるのを感じた。

 窓から見えていた暗くて狭い空間が、こうして実際に入ってみると思ったよりも暗くなく、何人も出入りできるほどの余裕のあるスペースが確保されていた。そんな些細な発見が、ものすごく僕を驚かせて、体中を震えさせていることに、僕自身が驚いていた。

 僕がきょろきょろと周囲を見回していると、大川くんが不機嫌そうに鼻をならすのが聞こえた。だけど、僕は気にすることなく周囲を見る。

 木もない、目立つ花も植物も植えられていない、雑草がへばりついて生えているむき出しの地面。壁のようにそびえたつ三階建ての園舎に、幼稚園を囲むコンクリートの壁。進む先に小さなコンテナの物置小屋があるのが見えた。

 こんな所に物置があるなんて知らなかった。

 角を曲がったところの、窓から身を乗り出してもぎりぎり見えない微妙な位置だった。ブロック塀を背にたっている物置から、微かに漂うほこりと洗剤と乾いた草の香り。常に大人が出入りしていることを伺わせる、子供たちには知らされていない場所。
 僕はなんだが得したような、宝物を発見したようなドキドキした気持ちだった。

 とはいえ、目の前に物置があり、そこが目的地だとするならば。

――もしかして、と。僕は大川くんがやろうとしていることの見当がついた。

 大川くんは無言のまま物置小屋の扉に手をかけると、またもあっさりと扉が開く。

 あまりにもスムーズすぎて、僕は思った。

 大川くんは何度も、お昼寝の時間を抜け出して、ここで遊んでいたのではないかと。

 いきなり、ドンっ、と背中を押された。
 物置の中に倒れ込んだ僕は、自分の予想が半分当たったことで、次の攻撃に身構える。

 物置小屋の中には、掃除用具と幼稚園の中庭で遊ぶ際に使われる、ボールやなわとび等の遊具、カラーコーンに、ほこりをかぶったプラスチックのケースが積まれていた。

 大川くんがモップに手をかける。あわてて身を反転させた僕に向かって、モップを大きく振りかぶるのが見えた。上体をひねってモップの攻撃をかわそうとすると、額にすっと一筋の痛みが走り、続けてモップの汚れた毛が僕の顔をたたく。思った以上のむわっとする悪臭に、鼻の奥が痒くなりクシャミが出そうになった。

「気持ち悪いんだよ。おまえ、なに笑ってんだよぉっ」

 感情を爆発させる大川くんに、僕は自分の顔に触れた。確かに、両頬の筋肉が持ち上げられて、自分が笑っていることを確認できた。

「だって、うれしいから」

 攻撃されて嬉しいなんて、どうかしているんだろうけど。
 僕は本当に嬉しかったんだ。

 うれしい。という、僕の言葉に、大川くんの顔がぐしゃりと歪んだ。鼻を大きく膨らませて、太い眉を寄せて、口をぽかんと開けて、端の部分を痙攣させている。見開かれていた黒い瞳が左右に揺れて、モップを盾のように僕の前に突き出した。

「大川くん」
「きもい、近寄るなっ」

 大川くんの叫びに、反応に、僕はなんだか嬉しくなった。
 大川君の反応はまるでお湯だ。そのお湯が、僕の身体に浸透して身も心も温めてくれる。

 もっともっとと、せがむように僕は大川くんを真っすぐ見た。
 そして僕をまっすぐ見返す大川くんの瞳は、激しい感情で揺らいで今にも壊れそうな印象を与えた。
 それが、なんだか砕ける寸前のガラス玉を連想させた。

 入り口を背に立っている、大川くんの体が小刻みに震えていた。僕が距離を詰めようとすると、大川君は一歩後ろにさがる。

「ひっ、くるな、くるなよぉ」

 大川くんは今にも泣きそうな顔になった。
 その反応に僕の心はゴムまりのようにドキドキ弾む。

「気持ち悪い、化け物っ、死ね、死ね、死ねー」

 がむしゃらに大川くんはモップを振り回した。僕の同じ五歳児なのに、大人が使う大きなモップを操る大川くん。必死に僕を排除して自分を守ろうとする姿は、なんだか異国の踊りを見ているような、そんな感想を覚えた。

 大川くんには悪いけど、この時の僕は幸せだった。
 今まで体験したことのない拒絶の言葉と、排除しようとする攻撃が、僕の息苦しい世界を壊していく。僕の心を開放していく。モップの風を切る音の鋭さに、心を挫こうとする言葉の強さは、心地よい解放感を十二分に僕に与えてくれた。

……だから。

「大川くん」
「ぐちゃぐちゃのキケイがオレに話しかけるなぁっ!」

 大川くんの悲鳴に近い絶叫が物置小屋に反響する。
 構わず僕は大川くんに言った。

「ねぇ、友達になってよ」

 思ったことをそのまま声に出すと、大川くんの動きが一瞬止まった。
 まるで、時間が止まったかのようにフリーズして、何とも言えない空気が僕と大川くんの間に横たわった。

【つづく】


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?