【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_幼少期_4
あれから様々な検査を受けて【問題なし】の結果をもらい、病院……というよりも、母から解放された。
しばらく幼稚園に行かなくていい。と、言われた僕は、母と二人っきりで家の中に閉じこもるような、息が詰まる生活になるかと想像していたのだが(父は大手不動産会社の役員で、家にいることが稀だ)……。
「俊雄。お母さん、がんばるからねっ! 良い子でお留守番していてね」
と、いやに張り切って、外によく出かけて行った。
小さな肩を怒らせて、アッシュグレイの上品なスーツを着る母は、僕のことなんか見ていなかった。
頬に派手なピンクなチーク。
目が覚めるようなサーモンオレンジの口紅に、コーラルレッドのまた別の色の口紅を少し唇に塗って色を調整して。
ぱっちりとした目の周りに、丁寧な手つきで引かれる濃いブラウンのアイライナー。少し紫がかっている目元のコンシーラーは、指とブラシで目じりに向かって馴染ませていく。
次は瞼にアイシャドウだ。ピンクと青を織り交ぜてゴールドのアイシャドウで、目の周りの全体を立体的に明るく浮き出させている。
長いつけまつ毛を添えて、化粧を終えた母の瞳は、いつもより大きく見えた。
僕はいやな予感がした。だけど、僕だけだと、どうしようもないことも十分わかっていた。
化粧をして華やかに笑う母が、獲物を見定めたライオンのように見えて、飛びかかるように外に出る後姿を見送ることしかできない。
彼女は怒っていた。僕のこと、自分のこと、今回のこと、周囲のこと、なにもかもひっくるめて全部。
怒りで母の全身から硫黄の臭いが漂い、僕は母の内側に荒れ狂う怒りのすさまじさを知った。
オレンジとライムベースの柑橘系の香水と混じって、母の怒りの体臭は黄色い炎のように渦巻いて見えた。
化粧で鮮やかに彩られた母の顔の毒々しさ。じっくりと時間をかけた化粧は、キャンパスに描かれた油絵のように鮮烈な厚みがあり、まるで仮面のように固く冷たい。
僕といる時は決して履かない、細くて踵の高い金のハイヒールを履いて、百合の茎のような首に真珠のネックレス、貝殻を思わせる耳には琥珀の大きなイヤリングをつけて、黒いファーのコートをスーツの上に羽織る姿は、一分の隙もなく、もはや完全武装そのものだった。
「冷蔵庫にご飯が入っているから、お腹がすいたら食べてね。お風呂の時間までには帰ってくるから」
母はそう言って、外と言う名の敵地へ出かけていく。
左手薬指に嵌めているはずの銀の指輪を外して。
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「ただいま」
父の声が聞こえた。時刻は午後七時だった。僕はベッドから起きだして、階段を下り玄関へと父を出迎える。
チワワのようなぎょろりとした瞳をしょぼつかせて、くたびれた茶色のスーツを着た父は悄然《しょうぜん》とした顔で僕を見た。
「あぁ、俊雄。見舞いに来れなくて済まないな。体は大丈夫か?」
「うん、というよりも。たいしたことなかったよ」
「そうか、よかった。本当によかった」
よかった、という父の言葉が、僕の中にゆっくりと沈み込む。優しく温かく、内側に沈み込む父の言葉に、心がぷはりと息を吐き出し、肺が軽くなるのを感じた。
――よいしょ。と、玄関に腰を掛けて息子の頭をなでる大きな手。撫でる手つきはぎこちないものの、息子の身をずっと案じていたことが伝わってくる。くすぐったいのに、僕の中を優しく満たしていく父の温もりは、久方ぶりの安心を与えてくれた。
「おかしいな。芳子《よしこ》は? 母さんは?」
芳子というのは母の名前だ。
撫でる手を止めて、母の不在を知らない父は、眉根を寄せて廊下の奥にあるリビングの扉へと視線を投げる。
「母さんなら出かけているよ。僕がお風呂に入る時間には帰ってくるって」
「ん、そうなのか? それで、お風呂に入る時間は何時なんだい?」
「9時」
「そうか。今日は帰るって電話したんだけど、待っていてくれないと寂しいな」
「……」
「あぁ、すまない。さて、メシにするか」
「あ、その。冷蔵庫にあるの、僕のしかない」
父の反応を伺い、恐々と聞く。父は僕の反応を見て、少し困ったように笑い、安心させるようにまた息子の頭を撫でた。
「なぁに、オレはお父さんは大人なんだよ。今日は出前を取ろう。俊雄もなにか食べたいものはないかい?」
「えっと……」
父の申し出に冷蔵庫の中身を思い出す。今日の夕飯はシーフードのピラフに、春雨とアスパラのサラダ、コーンポタージュ。足りなかったら、冷凍庫にある食パンを、トースターでチンして食べるように言われていた。
この時の僕の頭によぎったことは、ここ最近の食事風景。足りない分は食パンで補い、無理やり口につめこんでお腹をいっぱいにする。
母からは太るからという理由で、夜に食べる食パンにはバターとジャムは塗らないようにとかなり念を押されていた。
……正直、なんの変化もない食パンの味に飽き飽きしていた。
「ラーメン、食べたい」
「そうか。よしきた」
父が嬉しそうに笑い、僕もつられて嬉しそうに笑う。
笑ったのは、大川くんに閉じ込められて以降、久しぶりのことだった。
母はラーメンが嫌い。公言はしていないけど、ラーメン屋の前を通るとき、匂いに顔をしかめて早足で立ち去ろうとする。
僕が「ラーメンが食べたい」というと「私はスパゲッティが好きだから、レストランにしましょう。同じ麺だしいいわよね」という風に、父が「ラーメンが食べたい」と言わない限り、なにがなんでもラーメンを食べようとしないのだ。
父にラーメンが食べたいと言ったのは、父と一緒なら僕だけ咎められることはないという計算と、反抗心があった。
父は冷蔵庫の中を覗き込み「あぁ、ビールもないのか」と、少し声を落とす。僕の生命を維持するための、必要最低限のものしか抱えていない冷蔵庫。扉にある卵と、奥にある果物と味噌とヨーグルト、野菜室にある野菜が明日の朝食の材料となる。
父はラーメンと餃子を注文し、冷蔵庫の中身をシェアしながら食べようと、楽しそうな様子で僕に話しかけた。
ビールも注文するかと思ったが、僕を見て思い直したようにオレンジジュースを注文する。
「それにしても、芳子の料理はオシャレだな」
冷蔵庫から僕の夕飯を出した父は、寂しそうにつぶやいた。
父と二人っきりの食事は生まれて初めてだった。母は規則正しく食器を並べていくのに比べて、父は食器をデタラメに、だけど各々の取りやすい位置に並べて、なんだか賑やかな印象を与えた。
母の作ったオシャレな料理と、父が出前で取ったボリュームのあるラーメンと餃子(大盛)。いつもと違う夕飯の光景に、気持ちが青空のように晴れ渡っていく。
「「いただきます」」
思わずハモって、僕と父は噴き出した。
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「俊雄、こうするとうまいぞ」
父はそう言って、母の作ったシーフードのピラフにラーメンのスープをたらす。僕は勧められるままに、スープでひたひたになったピラフを口にする。ラーメンの塩味がシーフードピラフのバターの風味と溶け合って、こってりとしたまったく別の味になることに驚いた。
「それに、餃子の皮を剥いで、中身をサラダに混ぜてみると」
続いて父は春雨とアスパラのサラダに、餃子の中身をまぜて酢醤油をたらす。春雨の入った中華風のサラダだからこそ、餃子の中身は相性が良かった。餃子の肉とサラダの春雨の食感に、酢醤油が味を引き締めている。
「おいしい」
それに楽しい。
父は僕を愛しむように眺めて、皮だけの餃子をおいしそうに食べている。
「父さん、皮だけなのに餃子美味しいの?」
「あぁ、皮だからこそ美味しいんだ」
僕も父に倣い、皮だけの餃子をたべると、野菜の味と肉汁をたっぷり吸った皮の味と、端の焦げ目とが中身がない分美味しく感じられた。
「本当に美味しい組み合わせは、味噌汁に餃子だ。もっと、餃子を注文すればよかったな」
笑う父はオレンジジュースの瓶を自分のグラスに注いで、次に僕のグラスに注いだ。
「なぁ、俊雄。母さんがどこに行ったのか、心当たりがあるか?」
瞬時によぎる、銀の指輪をはめていない細くて長い指。指先の爪には赤いマニキュアが、艶やかに光っている。
父の言葉に、口の中にある食べ物の味が一気に消失した。母の獰猛な笑顔を思い出して、体中が言いようのない寒さに凍え、言葉と元気が自分の内側からみるみるしぼんで枯れていく。
「わからない」
僕は父と目を合わさず、ラーメンに視線を落とす。お箸を突っ込んでパスタのように、麺をぐるぐる絡みつかせて父と自分の気持ちから必死に逃れようとする。
「そうか」
ため息をつく父に、胸が詰まりそうになった。
「あ、だけど。僕のためだって言ってた。がんばるからって」
なんだか言い訳のように空回る言葉に、心のどこかがちりちりと音をたてて焦げていくのを感じた。なんとかしないといけない、このままではいけない。良くない流れを感じて、麺を絡みつかせながら身をすくませる。
「あぁ、すまない。俊雄を責めているわけじゃないんだ。あと、ラーメンはスパゲッティじゃなから、ちゃんとこのまますすりなさい」
「はい」
ずるずると勢いよく音をたてて、麺を啜るものの味が一切感じない。
油臭さと輪ゴムに似た感触と、舌にまとわりつくべたつく不快感。異物をこばむ吐き気に堪えながら、僕はラーメンを嚥下した。
「そういえば、俊雄は幼稚園に行っていないんだよな。家では普段、なにをしているんだ?」
「なにも……」
僕は普通にこたえていいのか少し迷う。なんとなく、話して良いような気がするのは、父も外見で苦労してきたことが伺えるからだ。
「なにも?」
「うん。ベッドの中でいろいろなこと考えていたら、あっという間に時間がすぎちゃう」
そう、一日中ベッドの中で、物置の中で見つけた安らぎを見出そうとした。目をつぶった先の暗闇は、あの時感じた暗闇よりも仄明るくて、周囲から聞こえる音が暗闇に亀裂を入れる。
通りを歩く子供の声、車のクラクション、誰かのクシャミ、隣の家が布団を叩く音、自転車のベル、どこからともなく聞こえる言い争う声。
理想的な暗闇を探そうとすればするほど、周囲の喧騒が刃になって僕の聴力を攻撃する。
自然の音はまだいい。人間が立てる音がダメなんだ。人の意思と生活を感じさせる音が。
「じゃあ、本は読まないのか?」
「あまり読まない。読んだらすぐおしまいだもの。テレビも見ないし、アニメも見ない」
だから、幼稚園のみんなとコミュニケーションが取れないんだ。と、外見意外に、自分にも問題があるように思えてきて少し憂鬱になってきた。
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僕の関心ごとは結局、他者への怖れに帰結する。
『男の子に生まれて、本当によかった。本当に……』
赤子の首に這い寄り、不気味に踊る細い指。
殺意を愛で上塗りする甘い声は、芯がぼやけて真意が伝わらず、聞く者に大きな不安を与えている。
男に生まれたことが、本当に救いだったのか。
母が向けた殺意が成長するごとに輪郭を得て、銀のナイフのように深々と胸にうずもれていき、僕の心を殺していく。
「俊雄。他者を気にかけることは、素晴らしいことだ。だけど、気にかけすぎてしまったら、自分が疎かになってしまう。そうなったら、自分が何をしたいのかも、なにもかもが分からなくなってしまうんだ」
黙り込み目を合わせない息子に、父の声が、春の雨のように頭上から降ってくる。
同年代の5歳児と比べて、分別がよく大人を伺い言葉を選べる息子に察するものがあったのだろう。
耳に優しく染み込んでくる父の声は、切実で透明な響きがあった。
僕は恐る恐る顔をあげる。
チワワのような、ぎょろりとした瞳を持つ父の疲れ切った顔。僕を通じて遠くを見つめる瞳の奥には、赤くて太陽が昇らない不毛な荒野が広がっている。
たぶん、これは、僕の知りようがない、杉藤家の歴史なんだ。
僕と同じ、もしかしたら僕以上に他者に怯えて、己を壊してしまった破戒の物語。
「どうか、お父さんの言葉が今じゃなくてもいい、大人になってお父さんの言っている意味が伝わってくれるなら。だからどうか、俊雄の好きなことをすると良い。やりたいことを見つけたら、迷わずにするといい。お父さんはお前を応援しているから」
……ねぇ、父さん。
「まだ、母さんは帰ってこないみたいだな。一緒に風呂入るか? 男同士の裸の付き合いだ」
「うん!」
「今日は早く寝よう、お母さんと話したいことがいっぱいあるからね」
子供の僕にとって、父さんの存在が、どんなに救いだったのだろう。
父さんの僕に語る言葉が、味方がいるということが、どんなに僕の心を勇気付けてくれたことか。
貴方の言葉は、周囲に広がる行き場のない灰色の世界に、輝く橙色の道しるべを灯してくれた。
僕は貴方を信じていた。
成人式を迎えるまでずっと。
『整形手術だと! お前は、正気か! 杉藤顔を捨てるというのか! 許さんぞ! 絶対、絶対許さんぞ!!! お前のやろうとしていることは杉藤家そのものの裏切りだ!!!』
『――っ!』
貴方の言葉が、どんなに僕の心を傷つけ、損ない、穿ったのか貴方は絶対にわからない。
分かるはずがない。
貴方の言葉にどんなに支えられて、どんなに勇気づけられてきたのか。かたや、貴方は幼い息子に語った言葉をすっかり忘れて、僕の決断を罵った挙句――。
『あぁ、俊雄か。しばらく見ないうちに、すっかり見違えたな』
『…………』
あれから数年が経過し、母が倒れた報せを聞いて、数年ぶりの帰省を果たした僕が見た信じがたい光景。
『父さん、もしかして、顔をいじった?』
数年ぶりに再会した父は、チワワ顔ではなくなり目元が涼やかな老紳士になっていた。
そして成形手術をした僕も、背が150cmぴったりの小柄で華奢な体型を考慮にいれて、中性的な美貌を手に入れた。
別人レベルまで整形をほどこした息子を、父は一目で僕だと看破したのには驚いた。確かに、あの男は僕を愛していたのだろうけど。
『あぁ、最近の美容整形は素晴らしいな』
ふざけるな。
数日後。母が死に、悲嘆にくれる父が後を追った。
実際は僕が殺したのだが、周囲は後追い自殺だと信じて疑わなかった。
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